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インスタントラーメンという小さな世界にて

こんにちわ。皆さんの中でインスタントラーメンを食べた事がない方、というのは果たしてどれだけいるのでしょうか?そんな疑問が成り立つくらい、インスタントラーメンは人口に膾炙した食べ物、と言えます。私も幼少期から今日に至るまで、一体どれだけのインスタントラーメンを食したのでしょうか。今まで食べた分、全部繋げたら多分、地球を1周くらいしているのではないかと思います。今日はそんな私の止み難いインスタントラーメン愛について記しておきたく思います。

小学生の頃、土曜の昼に父親がよくインスタントラーメンを作ってくれました。母は体に悪いからといってあまり作ってくれなかった事もあり、土曜の昼に食べる出前一丁は何か格別な味がしました。長じてからは当然自分でも作る様になり、最初は袋に書いてある通りの作り方を忠実に遂行していたものです。出前一丁か札幌一番が定番、たまにうまかっちゃんなどに手を出し始めたのは大学に上がってから、その頃には乗せる具に凝ってみたり私なりに工夫をする様になっていました。

社会人になって今の会社に入社、そのうちにいわゆる駐在業務でオランダに渡航、そこで五年間を過ごしました。オランダという所はちょっと食生活が合理的というかアレな国で、そもそもそんなに食に重きを置いていないお国柄のようなものがあります。スーパーでも食肉やチーズ、冷凍ものなどは異常に充実していますが和食と言う事になると乏しいのは当たり前、日本人としては色々工夫をしながら暮らしておりました。

今だとSUSHIがご当地のスーパーでも売っている様ですが、私の時代は数少ない日本食材屋で3倍がけの値段で手に入れる貴重な食材を使って慎重に自炊する、そんな感じでした。そんな中でも出前一丁は香港なんかで出回っている輸入品もありましたし、日本のものもやや高めですが手に入りやすかったのです。表題写真のものが香港ものの輸入品で、日本にはないフレーバーが色々あり魅力的ではありました。

ここでも私はインスタントラーメンに命を救われた、との思いを新たにしながら、まあ消費回数も増えていく訳ですが、そのうち普通に作るのでは飽き足らなくなってきます。札幌一番の麺とうまかっちゃんのスープを合わせてみる、とかスープを半分くらいに薄め独自の味付けを加えてみる、とかおかしなことを始め、まあ五年も暮らしていましたから、そう言う時間は沢山あったわけです。麺だけを食べ比べてみると私的には出前一丁が優れている、日清製粉はさすがに小麦粉の会社だわい、札幌一番は醤油と塩で麺の作りが違う、これはまた芸が細かい、などと、インスタントラーメンを「作る」ことから「創る」フェイズに来たと悦に入っていたものです。

しかし、日を過ごすにつれ自分のやっていることに少しずつ違和感を覚える様になってきました。麺の食べ比べ比較みたいな酔狂な事を初めてみると、なんていうんでしょう、開発者の意志や思いって言うんでしょうか、そんなものが伝わってくる様に感じます。こんなミニマムな食い物、いやミニマムだからこそ開発者さん達は少しの差であっても旨くなる様、日夜研究開発に励んでいるに違いない、中には塩分過多の職業病に苦しんだり、悪くすると殉職!?という所に思いが及びました。インスタントラーメンとはラーメンの代用品にあらず、これそのままがすなわちインスタントラーメンなり、とぼんやりと感じていた真理に突然到達したように思いました。

開発者が心血を注いだものを冒涜的にこねくりまわす、自分がやっていたのがすなわちそれだと、悔悟の思いから心を入れ替えて、そのあたりからおかしな工夫をするのは止めました。基本は袋に書いてある通りに作るのですが、茹で時間も寒い日と暑い日で異なってくるのは道理だろうと、アルデンテを意識しつつ、その日のコンディションに合わせて麺と睨み合いながら作るようになりました。こちらが一方的に睨むというのではなく、麺もこちらを見ているようで、開発者、そしてインスタントラーメンの魂との対話です。余計な具を入れるのも止め、如何にスープと麺をベストの状態で味わうか、という所に思いが及ぶ様になりました。袋に野菜を入れると美味しい!みたいな事が良く書いてありますが、そこは気にしないことにしました。

こうなってくるとインスタントラーメンを作るのも大変ミニマムな行為となり、そこになにか作法の様な物が生まれてきます。美意識の観点から麺は入れたらかき混ぜず、半ば四角形を保っているくらいが良い、その崩れ方にも良し悪しがある、丼に移す時にスープが跳ねるのはエレガントじゃない、鍋に火を入れてから器を洗い終えるまでがインスタントラーメンだ、などと自分なりの尺度も出来上がってきて今日に至ります。

やってる事が非常にミニマムなので、今度は鍋、器、箸やレンゲなどの道具立ての方も気になってきます。やはり雷紋様のついた昔ながらのラーメン丼で食したい、いやいや、紛い物でいいから黒楽茶碗で食ったら美味そうだ、などと妄想は膨らむ一方です。これを菜の花咲く野原で食べたらさぞ旨いに違いない、なんて妄想が浮かんだ時に、それって茶道で言う所の野点じゃないか、と気がつきました。

ラ道。

たかがインスタントラーメンだからこそ要求される研ぎ澄まされた美意識。私などまだまだ門前の小僧だ、この世界は奥が深いと、勝手に一人で納得してしまいました。今はマグカップで作れるどん兵衛やカップヌードルがありますが、あれをマグカップで作らずに、茶碗の名品で春の野原にて二人ぐらいで互いにもてなしあったらどんなもんでしょう?ゆるやかに吹く風に飛ぶモンシロチョウ、麺の硬さとスープの濃淡の塩梅に言葉の代わりとして込められた誠意、きっといい景色になると思います。

と、まあくだらない事を長々と書いてしまいましたが、ここまでお付き合いくださいましてありがとうございます。



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