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生きている限り永遠に世界と無関係でいることなんて出来ない

これは「自分が閉じた世界に生きている」と思い込んでいた私が、旅暮らしによってちょっとずつ価値観を変えていったというお話です。

「なんとなく世間とズレている気がして居心地が悪い」
「めちゃくちゃお金と能力で測られるこの世界がつらい」

そんなふうに思ったこと、ないですか。

私はずっと思っていました。幼少期の頃は、このズレが良い方にでて大人に面白がってもらったりしたけれど、小学生の半ばになるとふと気づきました。見えない役割を求められていて、それにしたがって生きるルールなんだな?と。

なんとなく現実がフィクションぽく、物語に生きているような感じがしています。別の価値観の他の世界があるんじゃないか?みたいに夢みたいなことを思っていたりします。

世界が分断されている

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・自分の世界
・自然界的な世界
・社会的な世界

自分にはこの3つの世界が存在しているような気がしていて、これらの3つの繋がりがさっぱりわかりませんでした。

例えば自然界的な脅威からは守られているという錯覚があったり(錯覚ということはわかっているのですが、現実に起こるとは考えられなかったり)、

カネ!社会能力!以上!みたいな人間の社会が怖くて関わりづらく感じて、自分の居場所じゃないように思えたり。

だからこそ、なんだか夢見がちに「自分と対話するだけの、自分の世界」に引きこもりがちになったり。

セーブデータを分けるみたいに、3つの世界があるわけではないのはわかっていました。でも、自分の人生のセーブデーターは一つしかなくて、私は1Pだけで、世界も一つだけというのがいまいち実感がなかったのです。

この非現実感こそ長年の生きにくさで、常に世界との疎外感を勝手に感じている理由でした。

最近は、それぞれ3つの世界の繋がりが、少しずつ見えてきました。「あ、そことそこがケーブルでつながってたのね」みたいに。

"自然界的な世界"と"社会的な世界"は似ている

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自然界と人間社会が繋がったのは、山登りをしている時。素人がスニーカーと身ひとつで山を登れるって、冷静に考えてすごくないですか?

ノントレーニングペーペー人間でも標高300mくらいの山に登れます。それは「登山道」を作り、道を管理し、案内の限りを尽くしてくれている、山登りの先人たちのおかげです。

そうじゃなければ、私に登れる山なんてない。自然の偉大さと人間の好奇心の止まらなさをいっぺんに味わいました。

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「生きるのにお金いるのしんどい。生きてるだけなのに......」とずっと思っていた。でも冷静に考えると、自然界でも何も生み出さない個体は死ぬ。

どこの世界でも同じだ。

むしろ"社会的な世界"はもっとフォローしてくれていて、マジの自然界だったらやっていけなさそうな弱者たちも救う仕組みが揃っている。動けるものが動き、種全体を守ろうとしている。

そうすると、"社会的世界"を必要以上に怖がる必要はないのかな、と思えるようになった。群れで生きる動物である以上、必要不可欠な世界だし。

分断をつなぐ人

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旅をしていると、それはもう色々な価値観の人に出会います。長期で旅をしている人も多いので、旅の予定を聞くと自然と人生観まで話してる、なんてことが多い。

そんな会話から、みんなが実践する「社会的世界」との繋がり方を吸収することがで切るように。

人生のどこかしらで「社会的世界」のイメージを勝手に作り上げてしまい、勝手に嫌悪感を持っていた自分にも気づくことができました。

それに、人との関わり方もそれぞれです。会話せずに終わる人もいるし、毎日雑談する人もいる。風呂から上がりたてで知らん人と挨拶したりもする。

今までになかった距離感が「ああ、そんな関わり方もあるのか」と自分を安心させてくれました。

分断しても、シャンバラは生まれない

さて、タイトルの「生きている限り永遠に世界と無関係でいることなんて出来ない」という言葉は映画「鋼の錬金術師シャンバラを征く者」より引用した言葉です。シャバラは楽園という意味。

(観て欲しいという圧)

映画のあらすじをざくっと。錬金術の世界から異世界(私たちの世界)に飛ばされてしまったエドワード・エルリック。錬金術の世界に帰る方法を何年も探したのに見つけられず、でも異世界で生きる覚悟も持てず、憔悴しまくっているところから始まります。

そこから三悶着くらいあり(観て欲しいという圧)、映画終盤にやっと、タイトルにした吹っ切れたセリフが出てくるのです。エドワード・エルリックはそのまま、異世界で生き続けることを選び、その世界に参加していきます。

自分の今いる場所から目を背けずに、役割を自覚すること。できることを探すこと。その中で、心地よさを保つこと。

分断するだけでは何も生まれないので。

繋がりを選ぶ自分

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旅をするようになって、いわゆる"自然界的な世界"や"社会的な世界"を、観たことのない角度から見られるようになった。

そこで思ったのは、「閉じることはもったいない」ということ。

残された"自分の世界"は、完結させようと思えば一人で楽しめる世界だろう。けど、私はそうしない。noteを書いて誰かに見せるし、友達にだって話す。世界と繋がる方を選んでいる。

いつでも世界は開いているし、いつでも私たちは飛び込める。どんなスタンスをとってもいいけど、せっかく世界は繋がっているから「あ、これ私の考えです」とちょろっと扉を開いておけるといい。

玄関フルオープン!とまではできないけれど、世界と自分の現実がちゃんと見えてきたような、そんな感覚があります。

今日はそんな感じ。




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