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半年しか住まなかった愛おしい家を紹介させてほしい

写真を見返して「ああ、やっぱり好きだなあ」とセンチメンタルになったり、ふと思い出しては「大好きだったなあ」とじんわりしたり。そんな記憶を持っているひともいるだろう。

わたしは、かつて住んでいた団地に対してそんな感情がある。

たった半年間だけしか住めなかった家。金銭上の都合で、旅と天秤にかけるしかなかった家。今まで暮らした家の中で、一番愛おしかった家。

そんなかつて住んでいた家のことを、ちょっと聞いてほしい。

人工島のマンモス団地での暮らし

大阪市住之江区にある咲洲という人工島に住んでいました

URの団地に、半年間住んでいた。場所は住之江区の人工島「咲洲」。大阪市内で49平米の1LDK、家賃は4万円台。こんな好条件、ほかは市営団地以外ないと思う。

船の汽笛が聞こえてくる団地だった。いいでしょう。
咲洲は「バブル期の負の遺産」だとか「都会の限界都市」だとかいわれてるが、そして確かにショッピングモールのATCは廃墟のようだが、それでも気に入っていた。

そして、団地といえば子供だ。わたしも団地育ちなのでわかるが、あの迷路のような作りは、子供にとって遊具でしかない。

団地は4つの建物に分かれていて、その真中に囲まれるようにして公園があった。昼過ぎになれば幼稚園帰りの子供が走り回り、暗くなっても小学生たちがボールを蹴っていた。たまに、会社帰りの父親も混じって遊んでいたりした。ベランダからそういう和やかな景色が見れるのも、暮らしに癒やしを与えてくれた。

団地の前は17平米のアパートだった

大好きな団地の家を語るのに、このアパートの話も欠かせない。初めて一人暮らしをした、巣のように小さいアパート。大阪市西区で家賃3.5万円の破格。4年住んだのだが、よくそんなに住めたなと思うほど狭かった。冷蔵庫の置き場がなくて、玄関に置いていた。

玄関の冷蔵庫、取手のはずれたレンジ添え

とはいいつつも、この家も気に入っていた。大家さんが優しいおばあちゃんで、息子さん夫婦が管理してくれていて、大阪北部地震や巨大台風が来たときもたくさん気遣ってくれたりした。(あと、某お笑い芸人さんが前の居住者で、ロケでアポ無し訪問してきたことがあった)

それでも引越すことにしたのは、やっぱりご時世の影響がああった。

当時は別の会社で働いていて、フルリモートではないものの在宅勤務の日が多かった。家は、帰るだけの場所ではなくなった。だから、仕事とプライベートが仕切られるような、部屋数の多い家に住みたかった。

引越し先はぜったいにUR。なぜなら……

17平米の家。狭い家のおかげでミニマリストになった

真っ先に思い至ったのがURの存在だった。当時聴いていたFM802の日曜18:00からは、吉岡里帆がUR提供のラジオ番組をやっていたのだ(いまもやっている)。わたしは吉岡里帆の顔ファンである。吉岡里帆が、URは仲介手数料と礼金がなく、一人暮らし用の物件もあり、U35割引があることをラジオCMで教えてくれていた。吉岡里帆に貢ぎたかったので、物件はURで決めることにした。

大阪市のUR物件は多数あったが、大阪市住之江区の南港に物件があると知り、住む場所はほぼ確定になった。

わたしにとって南港は特別な場所だった

何を隠そう、わたしは大阪市住之江区南港の団地で幼少期を過ごしていた。0歳から7歳まで。当時もURの団地に住んでいた(と、後から知った)。だから、住之江区のニュートラム走行エリアには思い出がある。自動運転のモノレールがありながら都会の限界集落と言われる咲洲エリアに、わたしは郷愁を感じるのだ。

全体的にパイン材っぽい色で揃えた

入居を決めた団地は住んでいた団地ではなかったが、かつて通った幼稚園のとなりにあった。

住んでみると、幼少期の頃の記憶とのギャップを感じた。幼稚園のころ1キロあると思っていた駅から幼稚園までの道は、たった300メートルしかなかった。迷路のようだと思っていたスーパーは、こぢんまりした田舎のスーパーだった。

自分の身体的成長を感じるエモさと「かつて家族で住んでいた団地に、今は一人で住んでいるんだぜ」という勝手な凱旋感もあって、団地での暮らしは特別な時間だった。

愛おしい団地での暮らしを見てくれ

手前がくつろぎダイニング、右奥が仕事スペース、左の戸の奥は寝室。

間取りは、かつて2DKだった間取りをリノベーションした1LDK。たたみの8畳間は寝室にして、ダイニング部分にテーブルを、リビング部分には仕事用のデスクチェアを置いた。

照明の色味もちょっとこだわって、ダイニングは暖色、寝室は間接照明のみ、仕事をするリビングだけは蛍光灯にした。

朝日とともに起きる週間に磨きがかかった

毎日起きるとサイコーな気持ちだった。東向きの物件を選んだので、容赦ない朝日が差し込んで起きる。たしか7階とかだったから、目の前の公園を見下ろしながら一服。広々としたキッチンで同時並行に何品か料理を作ることできた。

「絶対掃除しないといけないから」という理由でコンロは白に。
ちゃんと掃除が習慣になりました。

当時のパートナーにDIYを頑張ってもらい、コンロの油よけとシンクの横に作業台を作ってもらった。ペリカンのスポンジ置き、ガチョウの鍋つかみ(前の家の写真参照)、キツツキの吹きこぼれ止めなど、やたら鳥のモチーフが集まるキッチンだった。

玄関の戸棚は扉を取り払い、平置きスペースに

17平米の家でミニマリストになったわたしにとって、49平米の家の収納は広すぎた。タンス代わりの衣装ケースも押入れに入れて、飾り棚以外の収納は隠すことができた。
もはや何でも平置き収納ができる。憧れの「落ち着いた玄関での身支度」が実現した。平置きにすると、忘れ物がなくなることを知った。

丁寧な暮らしは団地にあった

一番奥にあるドライフラワー、あれドライフラワーじゃなくて
サウナの「ヴィヒタ」なんですよね……

丁寧ではないときももちろんあったし、ガザツなので丁寧ではないときの方が多かったのだが、やりたい暮らしをほとんどできた。

水耕栽培もしたし、ドライフラワーも季節の花も飾ったし、ベランダでご飯を食べたこともあった。近くの公園で芝生にシートを敷き、読書をしたりもした。その暮らしの様子を、YouTubeをやっていたこともあった。

もともと住んでいた場所で一人暮らしをした「凱旋感」と、やりたい暮らしを実現して、噛み締めていた日々と。夢を叶えたといったら大げさすぎるけど、自分の暮らしを自分の手で変えた喜びを経験できたのだと思う。
だからこそ、旅暮らしも叶えてみようと思えたのだ。

たった半年間の団地生活。手放してしまったけれど、素敵な思い出としてずっと覚えていると思う。

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