世界全戦争史年表

歴史上の戦争・戦闘を中心に年表形式でまとめています。

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目次

第1章 古代文明の形成と発展1-1 シュメール人とアッカド人の王朝 1-2 イシン・ラルサ時代と古バビロニア時代 1-3 ヒッタイト古王国・中王国時代 1-4 ヒッタイト新王国時代 1-5 カッシート王朝とミタンニ王国 1-6 エジプト先王朝・初期王朝・古王国時代 1-7 エジプト第1中間期・中王国時代・第2中間期 1-8 エジプト新王国時代(第18王朝) 1-9 エジプト新王国時代(第19・第20王朝) 1-10 古代シリア・レバノンの都市国家(前3300年~前1590年

    • 1-35 インダス文明とヴェーダ時代

      前4000年頃:メヘルガル遺跡にて銅が使用され始める 前3000年頃:南ロシアの草原地帯で原インド・ヨーロッパ語を話す集団が確立。西方への移動を開始し、ヨーロッパ各地に移住 前3000年頃:ハラッパー、コート・ディジーなど北西インド各地に周壁で囲まれた集落が出現 前2800年頃:パンジャーブ(インダス川中流域)やシンド地方(インダス川下流域)で青銅器が普及。槍先などに用いられ、剣なども作られるように 前2750年頃:イラン高原を中心としたトランス・エラム文明が成立。こ

      • 1-34 エジプト撤退後のクシュ王国

        前671年:アッシリア王エサルハドンがエジプトを征服。クシュ王国(エジプト第25王朝)のタハルカ王はナパタに逃亡した。エサルハドンはサイスの支配者ネカウ(ネコ)1世(第24王朝の末裔か)に毎年の貢納と引き換えに自治を許すなど、エジプトを小王に分治させる。後にタハルカはエジプトを奪還 前667年:アッシリア王アッシュルバニパルがエジプトに侵攻し、メンフィスを占領。再びタハルカ王を南に追いやり、タハルカはナパタにまで逃れた 前664年:タハルカ王が死去し、共同統治者であった従

        • 1-33 メディア王国

          前3000年頃:南ロシアの草原地帯で原インド・ヨーロッパ語を話す集団が確立。西方への移動を開始し、ヨーロッパ各地に移住 前2000年頃:インド・ヨーロッパ語族の遊牧民が中央アジアに移住。彼らはやがてアーリヤと自称(アーリヤ人) 前2000年頃:インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン人(アーリヤ人)が東北イランに移動を開始。後からやってきたイラン人に押されたことが要因とする説もある。アーリヤ人らは馬と二輪戦車(チャリオット)の活用を習得。馬は中央アジアの草原地帯で家畜化され

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          1-32 エラム王国

          前4000年頃:イラン高原南部で銅斧が作られる 前3500年頃:ウルクの文化に類似した土器がスサなどで発見される。メソポタミアの勢力がスサに侵攻した結果とも 前3000年頃:イラン高原にスサを中心とする都市群のネットワークが確立(原エラム文明) 前2900年頃:シュメール地方にてキシュ第1王朝が成立。キシュ第1王朝はエラム(現在のイスファハーンから南方にかけて広がる勢力)を掠奪したか。この頃のエラムの中心はアワン(現ディズィフルか)で、キシュと戦ったのはアワンの王であっ

          1-32 エラム王国

          1-31 新バビロニア王朝

          前629年:カルデア人がバビロンを占領 前629年:バビロニア南部の「海の国」の首領ナボポラッサル(カルデア人か)が南パレスチナにまで進軍(~前627年)。ナボポラッサルはウルク知事の子であったが、反乱を起こしウルクを追放されたとも 前627年:アッシリア王アッシュルバニパルが死去 前627年:バビロニア王カンダラヌがアッシリアに謀反を起こした果てに死去。以後、1年間バビロニア王位が空位に 前627年:エジプト軍がアシュドドにてナボポラッサルの軍隊を撃退 前627年

          1-31 新バビロニア王朝

          1-14 アラム人とフェニキア人、新ヒッタイト(前702年~前332年)

          前702年頃:エジプト王シャバタカが即位。彼はパレスチナやフェニキアのアッシリアに対する反乱を支援 前701年春:センナケリブが、叛乱を起こしていたフェニキア地方に遠征、ティルス領を侵犯。フェニキア地方以外のシリア・パレスチナ地方にも進軍。フェニキアやパレスチナ南部の諸都市、トランスヨルダンのモアブ人やアンモン人を従わせる。フェニキア諸都市はティルスから離反し、シドンやティルスの本土部分ウシュ、南方のアクジヴ、アッコなどはアッシリアの支配下に。ティルス王ルリはキプロスにまで

          1-14 アラム人とフェニキア人、新ヒッタイト(前702年~前332年)

          1-30 イシン第2王朝とその後のバビロニア

          前1158年頃:エラム王シュトルク・ナフンテ1世が、アッシリアの内紛に乗じてバビロニアに侵攻し、バビロンをはじめとするバビロニア諸都市が占領。シッパルから『ハンムラビ法典』碑や「ナラム・シン王の戦勝碑」が掠奪され、スサに運ばれる 前1157年頃:マルドゥク・カビト・アッヘシュがイシンでイシン第2王朝(バビロン第4王朝)を樹立 前1155年頃:エンリル・ナディン・アヒ統治下のカッシート王朝がエラムの攻撃によって滅亡。エラムの王子クティル・ナフンテ2世はバビロンを攻撃し、エン

          1-30 イシン第2王朝とその後のバビロニア

          1-16 イスラエル統一王国

          前1263年頃:エジプトにいたヘブライ人が、モーセに率いられてエジプトを脱出(出エジプト)。彼らはヤハウェを崇拝する民族共同体を形成 前1258年頃:ラメセス2世とヒッタイト王ハットゥシリ3世が平和同盟条約を締結。オロンテス川以南がエジプト領と確定 前1250年頃:「海の民」の大移動が始まる。「海の民」の一派に、ペレセト(ペリシテ人。クレタ島出身とも)がいた 前1230年頃:モーセの後継者ヨシュアがイスラエルの軍団を率いて、アマレク人を打ち破ったという。この後、ヨシュア

          1-16 イスラエル統一王国

          1-29 フリュギア王国とリディア王国

          前1190年頃:ヒッタイト帝国が滅亡。アナトリアにはトラキア方面から印欧語族のフリュギア(ムシュキ)人が侵攻を開始 前1177年頃:「海の民」がアムル地方からシリア沿岸を南下し、エジプトを目指す。この「海の民」には、チェケル(トロイア人)、デネン(キリキア人)やルッカ人などアナトリアの住民も含まれていた。エジプト王ラメセス3世は「海の民」を破り、チェケルらをベドウィンの侵略に対する備えとしてパレスチナ南部の海岸地方に植民している 前1175年頃:東地中海沿岸で行われた破壊

          1-29 フリュギア王国とリディア王国

          1-28 ヒッタイト滅亡後のアナトリア東部とウラルトゥ王国

          前1273年頃:アッシリア王シャルマネセル1世が即位。彼の治世に、アナトリア東部のアルメニア高原に後のウラルトゥにあたるウルアトリが存在したと史料に記される。彼らは未だ部族連合の段階にあったか 前1190年頃:「海の民」による動乱によって治安が悪化したことなどが背景となり、ハットゥシャが放棄され、ヒッタイト帝国が滅亡。ヒッタイトの人々はシリア北部、なかでもカルケミシュに避難したか。この後、ハットゥシャは恐らくカシュカ族によって略奪・破壊されたと考えられている。こうして、ヒッ

          1-28 ヒッタイト滅亡後のアナトリア東部とウラルトゥ王国

          1-27 エジプト末期王朝時代

          前671年:ティルスがエジプトの支援を受けてアッシリアに叛乱したため、エサルハドン率いるアッシリア軍がティルスを攻略後、シナイ半島に侵入し、これを占領。デルタ地帯にまで到達し、タハルカ王と約15日間激闘を繰り広げる。最終的にエサルハドンはメンフィスでタハルカ王を撃破し、エジプト王家の王子などを捕らえた。結果、エサルハドンは「エジプトの王」を一時称する。タハルカはナパタにまで逃亡し、アッシリア軍はテーベまで進軍するも、タハルカを捕らえることには失敗。エサルハドンはシリア・パレス

          1-27 エジプト末期王朝時代

          1-26 エジプト第3中間期とクシュ王国

          前1081年頃:アメン大司祭兼クシュ(ヌビア)の総督(副王)で宰相のヘリホルがテーベにおいて支配を拡大し、「ウヘム・メスウト(新紀元)」という元号を採用。アメン大司祭が上エジプトを支配する体制が確立(アメン神権国家)。アメン神権国家の北端は上エジプト第19州にあった。ヘリホルは一時王を名乗るも、以後のアメン大司祭も北の王権を承認はしている。また、ヘリホルはラメセス11世の姉妹を妃としたか。なお、当時のアメン神官らは、エジプトの全神殿領の3分の2、全ての船の90%、手工場の80

          1-26 エジプト第3中間期とクシュ王国

          1-25 エジプト新王国時代までのヌビア

          前1万6000年頃:ヌビア(エジプトのアスワンからスーダンのハルツームまでの地域)のジェベル・サハバにて争いが発生。食料資源の奪い合いや、より良い環境をもつ居住地を求めての争いがあったか。多くの遺体に石鏃が突き刺さっていた 前3500年頃:ヌビア各地に小国家が成立していたか 前3000年頃:ナルメル王がエジプト第1王朝を創始(初期王朝時代の始まり) 前3000年頃:エジプトのアハ王が第1急湍地方に遠征隊を派遣。ヌビアには何度か戦争を仕掛けている 前2975年頃:エジプ

          1-25 エジプト新王国時代までのヌビア

          1-24 新アッシリア帝国の絶頂と滅亡

          前680年:エサルハドンが父王を殺害した反逆者勢力を一掃し、アッシリア王に即位。彼はバビロニア王でもあり、バビロニア及びエラム人と和睦を結んだ。マルドゥク神像を帰還させてバビロンの再建にも着手し、バビロニアに対して融和的な姿勢をとる。一方、エサルハドン王はその治世中に、かつてのバジ王朝の拠点と考えられるバジを攻撃したか。また、エサルハドンはスキタイ(アッシリアはアシュグサと呼んだか)と同盟を結び、マンナイ(現アゼルバイジャン)にスキタイが建国することを認める 前680年頃:

          1-24 新アッシリア帝国の絶頂と滅亡

          1-23 新アッシリア帝国の拡大(前744年~前681年)

          前744年:アッシリア王ティグラト・ピレセル(トゥクルティ・アピル・エシャラ)3世が即位。彼はおそらく将軍で、王位を簒奪したか。一方で、彼の治世から新アッシリア帝国は勢力を取り戻す(帝国期の幕開けとも) 前743年:ティグラト・ピレセル3世がサルドゥリ2世統治下のウラルトゥを征圧。ウラルトゥに内通したシリアの諸都市、ザグロス山脈方面にいたイラン系のメディア人を破り、強制移住政策を実施した後に、新たな行政州を設置することで併合している(防備のために周辺地域に移住させられ、兵力

          1-23 新アッシリア帝国の拡大(前744年~前681年)