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1-22 新アッシリア帝国の拡大(前744年~前681年)

  • 前744年:アッシリア王ティグラト・ピレセル(トゥクルティ・アピル・エシャラ)3世が即位。彼はおそらく将軍で、王位を簒奪したか。一方で、彼の治世から新アッシリア帝国は勢力を取り戻す(帝国期の幕開けとも)

  • 前743年:ティグラト・ピレセル3世がサルドゥリ2世統治下のウラルトゥを征圧。ウラルトゥに内通したシリアの諸都市、ザグロス山脈方面にいたイラン系のメディア人を破り、強制移住政策を実施した後に、新たな行政州を設置することで併合している(防備のために周辺地域に移住させられ、兵力として用いられた者もいた)。シリア北部にも侵入し、この遠征によって、アルパド、メリド、クンムフ、グルグムなどで構成されたウラルトゥ連合軍を破る。更に西方ではシリア、パレスチナ地方での覇権も回復。また、ハマト、ダマスクス、ビブロス、ティルス、イスラエル王国から貢納を受けた。後にシリアでパッティナ(ウンキとも)とハマトが反乱を起こすと、両国を攻撃して諸都市を略奪。住民らをイランなどに強制移住させた。こうした政策により、シリアは征服された。内政面では州長官の権限を削減し、中央集権化を促進。さらに征服地の属州化も進めた。軍事的には、属州や臣従国などから徴募した兵で常備軍を構成している。加えて、戦車を改造し、攻城用兵器の実用化も行った。対外的には、ほぼ毎年軍事遠征を実施し、大規模な強制移住政策を行っている

上図:黄色の部分がウラルトゥ王国の最大版図(前743年頃)

出典:© Sémhur / Wikimedia Commons
  • 前742年:アッシリア軍がハマトを占領。これに対し、イスラエル王メナヘムはアッシリアに降伏し、貢納する

  • 前742年頃:イスラエル王ペカフヤが即位。アッシリアに隷属

  • 前740年:ティグラト・ピレセルがアルパドを占領

  • 前740年頃:イスラエルのペカがアッシリアへの抵抗を名目としてクーデタを起こし、イスラエル王ペカフヤから王位を簒奪(父王メナヘムがアッシリアへの朝貢のために裕福な市民から銀を徴集したことなどが反感を買ったか)

  • 前739年頃:ユダ王ヨタムが即位。彼の治世にシリア・エフライム(ダマスクス・イスラエル)連合軍がユダを攻撃

  • 前738年:ティグラト・ピレセルがシリア・パレスチナに遠征し、シリア北部の連合軍を撃退。シリアとアナトリア東部に朝貢を強制。この年までに、クエ、タバル、トゥワナ、サムアル、メリド、クンムフ、グルグム、カルケミシュ、ハマト、ダマスクス、カシュカ、イスラエルなどのシリア・パレスチナの諸王がアッシリアに朝貢。ビブロスを除く北部フェニキアの沿岸都市はアッシリアの属州となった。また、新ヒッタイト諸国のウンキも併合された

  • 前738年頃:この年以降に、フェニキアのシドン、ティルスを「ヤワナ」が襲撃。ヤワナとは小アジア沿岸かキプロスに定着したギリシア人であったか(キプロスに住むギリシア人はアッシリアの宗主権を認めていた)

  • 前735年頃:アッシリアがユダ王国と組んで、イスラエル王国を攻撃

  • 前734年:ユダ王アハズがアッシリアに朝貢

  • 前733年頃:アッシリアがガザを占領。これに対し、ダマスクス王レツィンとイスラエル王ペカが他の諸国とともに反アッシリア同盟を結成。しかし、ユダ王国の王アハズはこの同盟に参加せずに親アッシリア政策をとった。そのため、同盟諸国はイェルサレムを包囲(シリア・エフライム戦争)。ティグラト・ピレセルはイェルサレム神殿の宝物と引き換えにアハズを救援。反アッシリア同盟軍を破り、イェルサレムを攻囲から解放した。その上、アッシリア軍はイスラエルを劫掠する。また、ティグラト・ピレセルはガリラヤ地方やトランスヨルダンの征服を進めた。以後、ユダ王国はアッシリアに臣従

  • 前732年ティグラト・ピレセル3世が攻城術を駆使して、ダマスクス王国を征服し、属州とする。ダマスクス王ラヒアヌは殺害され、アッシリアはガリラヤなどイスラエル北部を制圧。イスラエルはサマリア周辺のみの領土となる。更にセム系諸民族も破ったアッシリアが全シリアの制圧に成功した。また、彼はアラビア半島北部、シナイ半島に住むアラブ人諸部族からも貢納させることに成功。一方で、ティグラト・ピレセルの治世には各地で反乱も起こっており、王は鎮圧を迫られた

上図:ティグラト・ピレセル3世。彼は大規模な強制移住政策をとったが、アッシリアが行った強制移住は記録に残るだけでも150件以上、総数120万人以上という

出典:Wikipedia

上図:ティグラト・ピレセル3世の版図

出典:Joelholdsworth, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前732年:バビロニアのE王朝が滅亡

  • 前731年:アラム人のナブ・ムキン・ゼリがバビロニア王に即位し、バビロン第9王朝を創始。彼はアッシリアに反抗した

  • 前731年:イスラエル王ホシェアがアッシリアに朝貢

  • 前730年頃:アナトリアにリディア王国が成立

  • 前729年:ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを破り、属州とする

  • 前728年:ティグラト・ピレセル3世が自らバビロニア王を兼ね、プルと名乗る(~前727年)。結果、ザグロス山脈からアナトリア南部、地中海沿岸、更にはエジプト国境にまで至る大帝国の建設に成功した

  • 前727年頃:エジプトのサイスにてエジプト第24王朝を創始。これに対し、第25王朝のピイ王がエジプトに侵攻を開始し、メンフィスを占領。一時的にエジプト統一に成功した

  • 前726年:アッシリア王シャルマネセル5世が即位。引き続き、バビロニアを支配(ウルライアという王名で君臨)。内政面ではアッシリア本土の兵役免除の特権を廃止

  • 前724年頃:ホシェア王がエジプトと結び、アッシリアへの貢納を拒否。これに対し、アッシリア王シャルマネセル5世はホシェアを捕らえ、イスラエル王国の首都サマリアを包囲

  • 前722年頃:アッシリア王シャルマネセル5世(次王のサルゴン2世とも)がサマリアを攻略し、イスラエル王国が滅亡。多くの住民が強制移住させられた。また、ユダ王国と他の小国がアッシリアの属国に。加えて、シャルマネセルは各地の反乱を鎮圧

  • 前721年:アッシリア王サルゴン2世(シャル・キン)が即位。サルゴンはシャルマネセル5世が廃止した、アッシリア本土の兵役免除の特権を再確認。首都をアッシュルとした(後にカルフ、ニネヴェへと移す)。一方、当時はエジプトとエラムがウラルトゥと結び、アッシリアに征服された国々に反乱をそそのかしていた。また代替わりの影響として、ハマト王ヤウビディが指揮する叛乱が発生しており、ハマトの北にあるアルパド、南のダマスクス、サマリアなどがこの反乱を支援。こうした不穏な情勢に対し、サルゴンはほぼ毎年、国境付近に親征し、東方の山岳地帯では小部隊の先頭に立って戦ったという

上図:サルゴン2世

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:古代オリエント要図

出典:『古代メソポタミア全史』

上図:シリア・パレスチナ要図

出典:『古代オリエント全史』
  • 前721年:アッシリア軍がエラム人を破る

  • 前721年:カルデア人部族であるビート・ヤキンの首領メロダク・バルアダン2世(マルドゥク・アプラ・イディナ)がバビロンに入城。サルゴンの軍を破り、エラムと同盟を結びバビロニアを掌握。事実上のバビロニア王となる。一方で、大都市に重税を課したことからメロダク・バルアダンは人気を失っていく

  • 前720年:ハマト率いる反アッシリア連合軍がサルゴン2世に敗北。サルゴンはハマトを襲撃し、城塞を破壊。ハマト王国は滅亡し、ハマト王ヤウビディは処刑された。多くの住民がアッシリアに強制移住させられ、代わりに他の地方の住民がシリア・パレスチナに移住させられた。ユダ王国やシリア・パレスチナの小国はアッシリアに服属。一方、フリュギア(ムシュキ)王ミダス(ミタ)はゴルディオンを都に定め、隣国タバルの王キアッキをアッシリアから離反させようとした。しかし、サルゴンはキアッキを王位から引きずり降ろし、より忠実な支配者をタバル王とする。これに対し、ミダスはカルケミシュのピシリとともに干渉を続ける

  • 前720年:アッシリアがガザでエジプト軍を撃破

  • 前718年:アッシリアのサルゴン2世がアナトリア進出を図り、タバルを征服

  • 前717年:アッシリアのアナトリア進出に対し、フリュギア王ミダスが反アッシリア同盟に入り、新ヒッタイトの諸王と結んでアッシリアと対立

  • 前717年:アッシリア王サルゴン2世が、フリュギア王ミダスと通じて謀叛を企てたとして、カルケミシュ・フリュギア連合軍を撃破し、カルケミシュを征服。アッシリアの属州とし、住民と王族は捕囚された。この後、タバル王アンバリスがミダスとウラルトゥのルサ1世に使者を送ったために、サルゴンはアンバリスを王位から退ける。なお、後にミダスはアッシリアがクワ王アワリクを征伐するのに協力している(当時アワリクは亡命中であった)

  • 前716年:サルゴン2世がウラルトゥ国内の混乱に乗じて、ウラルトゥに侵攻

  • 前715年:アッシリアがタバルを再度征服。ミダスがタバルの反乱を後押ししていたか

  • 前715年:サルゴン2世がアラビア人をサマリアに定住させる。サルゴンはアラビア地方にも遠征していた

  • 前715年:スキタイ人に逐われたインド=ヨーロッパ語族のキンメリア人が黒海南岸に現れ、ルサ1世統治下のウラルトゥ王国を攻撃し、黒海南岸に定住。このキンメリア人を追って、騎馬民族のスキタイ人がカフカス山脈を越えて西アジアに侵入。なお、キンメリア人はカッパドキアに入る前にリディアを掠奪し、シリア北部にまで進出している

  • 前715年頃:エジプト第25王朝のシャバカ王がエジプト第24王朝のボッコリス王を滅ぼし、エジプトを再統一。首都をナパタからメンフィスに遷す。この後、エジプトはフィリスティヤ平野と、エジプトへと通じる街道を巡ってアッシリアと争う

  • 前715年頃:ユダ王国がエジプトと結び、反アッシリア同盟を確立しようとする試みを開始

  • 前714年:タウルス山脈の諸小国を討伐したサルゴン2世のアッシリア軍が、ルサ1世率いるウラルトゥ軍とウルミエ湖南西で会戦し、アッシリア側が勝利。首都ムツァツィル市の神殿を掠奪し、ウラルトゥ王国を征服するも完全勝利はできず。ルサ1世はじきにアッシリアに征圧された地域の支配権を回復

上図:前715年頃のウラルトゥ王国(黄)。赤線がサルゴン2世の進路で、ピンクの線がキンメリア人の侵入経路を示す

出典:© Sémhur / Wikimedia Commons
  • 前714年:ウラルトゥ王国がキンメリア人に屈服。キンメリア人の脅威に対し、アッシリアとウラルトゥは友好的な外交関係に転換したという

  • 前713年:サルゴン2世がタバルを併合

  • 前713年:サルゴンが新都ドゥル・シャルキン(現コルサバド)の建設を開始

  • 前713年:サルゴン2世がザグロス山脈中央部を突破し、ケルマンシャー市やエクバタナ市(現ハマダン)付近の町々や小王国を支配、メディア人も撃退した

  • 前713年頃:ユダ王ヒゼキヤがエジプトの支援を受けて、トランスヨルダンのエドム人やモアブ人、都市アシュドドとともにアッシリアに反旗を翻す。また、彼はアッシリアやカナーンの神々を追放して、ヤハウェ神崇拝の復活も図っている

  • 前712年:アッシリアがメリドを征服

  • 前712年:キャクサレス1世がメディア王に即位。イラン高原に版図を拡大

  • 前711年:アッシリアがグルグムを征服

  • 前711年:サルゴン2世がアッシリアの支配に反発したアシュドドを攻略

  • 前711年頃:ユダ王国らのアッシリアへの反乱が鎮圧される。アッシリアがユダに侵攻したか

  • 前710年:サルゴン2世がバビロニアに遠征し、メロダク・バルアダン2世を破る。バビロン入城を果たし、バビロニアの支配権を奪還。メロダク・バルアダン2世は逃亡した。サルゴンはバビロニアに配慮し、バビロニア総督を名乗る

上図:サルゴン2世の版図(緑)。ティグラト・ピレセル3世の版図は黒で表現されている

出典:IchthyovenatorSémhur (base map), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前709年頃:アッシリアと抗争していたフリュギア王ミダスが、キンメリア人の侵入を受けてアッシリアと和睦

  • 前709年:アッシリアがキプロス島を支配。サルゴンはキプロス島にまで遠征し、7人の王から直接貢物を受け取ったという

  • 前708年:アッシリアがクンムフを征服。これまでのアッシリアによる新ヒッタイト諸国への侵略により、新ヒッタイト諸国は滅亡

  • 前707年:フリュギアがアッシリアに服属

  • 前705年:サルゴン2世がミダスの誘いでタバルに軍事介入し、アナトリアに遠征。キンメリア人と対峙するも、山岳地帯で敵の罠にかかって戦死。アナトリアの諸都市は、ウラルトゥ王国の援助を得てアッシリアに反逆していた。サルゴンの死後、各地の属州で叛乱が勃発。ユダ王ヒゼキヤはアッシリアからの独立を宣言した。以後、アッシリアはタバル、メリド、クエなどの支配を断念

  • 前704年:アッシリア王センナケリブ(シン・アヘ・エリバ)が即位。造営中のドゥル・シャルキンを捨て、ニネヴェに遷都

上図:ニネヴェ遺跡

出典:Fredarch, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前703年:バビロニアにメロダク・バルアダン2世が帰還し、バビロニア王として、エラムと結びアッシリアに対抗。しかし、センナケリブはメロダク・バルアダン2世とエラムの連合軍をキシュの平原で破る。その後、バビロンの宮殿を略奪し、バビロニアの75の要塞都市、420の小都市を陥落させたと豪語した。結果的にメロダク・バルアダンは在位9ヶ月で敗北し、逃亡した。バビロンからはマルドゥク像が持ち去られ、ウルク、ニップル、クタ、シッパルにて反逆したアラブ人、アラム人、バビロニア人は連行されたという

  • 前702年:アッシリアの傀儡ベル・イブニがセンナケリブの援助を受けてバビロニア王となる

  • 前702年:アッシリア軍がペルシア西部に遠征

  • 前701年春:センナケリブが、叛乱を起こしていたフェニキア地方に遠征、ティルス領を侵犯。フェニキア地方以外のシリア・パレスチナ地方にも進軍。フェニキアやパレスチナ南部の諸都市、トランスヨルダンのモアブ人やアンモン人を従わせる。フェニキア諸都市はティルスから離反し、シドンやティルスの本土部分ウシュ、南方のアクジヴ、アッコなどはアッシリアの支配下に。ティルス王ルリはキプロスにまで逃れたが、やがて死去。一方、センナケリブはルリの後継としてトゥバル(エトバアル)をシドン王とし、傀儡とする(ティルス・シドンの同君連合は終焉)。更にユダ王ヒゼキヤがアッシリアの属王エクロンのパディを捕虜としたことを受けて、ユダ王国にも侵攻し、アシュケロンやヤッフォなどのユダの沿岸の町を占領。エジプトのシャバタカ王は息子タハルカ率いる軍をユダ王国への援軍として派遣したが、アッシリア軍はエルテケでこれを破った後、要塞都市の占領を開始。ラキシュはアッシリア軍による攻囲戦の末に占領され(ラキシュ攻城戦)、イェルサレムとその周辺以外は占領された(46の要塞都市が占領されたという)。加えてイェルサレムも包囲したが、攻略には失敗し、アッシリア軍は撤退。ヒゼキヤがセンナケリブに貢ぎ物を贈り、領土の削減を受け入れたことがアッシリア軍撤退の要因の一つか(アッシリア軍の野営地で病気が発生したとも)。なお、この取り上げられた領土は、沿岸平原とシェフェラ地方の属国に与えられている。以後、ユダ王国はアッシリアに臣従

上図:ラキシュを攻撃するアッシリア軍の攻城兵器。ラキシュからはセンナケリブが攻城のために築いた傾斜路、住民が作ったと思われる防御用の傾斜路も発見されている。アッシリア軍は城壁を崩すための大きな槍を前方につけた装甲車(破城槌車はじょうついしゃ)をもち、弓兵や投石兵、たいまつを投げ入れる兵士が遠距離攻撃を行った。なお、アッシリアでは前8世紀末に、騎馬隊が戦車隊よりも重要な地位となった。騎兵の武器としては、複合弓だけでなく槍もあった

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前701年:メロダク・バルアダン2世が再びバビロニアに出現するも、アッシリア軍の追撃によってエラムに逃亡

  • 前700年頃:アッシリアが砂漠での輸送用にひとこぶらくだをメディアから導入。これにより、本格的に砂漠を横断する軍事遠征が可能に

  • 前700年頃:アッシリア帝国がペリシテ人の領域を属州化

  • 前700年:バビロニア王ベル・イブニがアッシリアに反乱。センナケリブはこれを退ける

  • 前699年:センナケリブが長男アッシュル・ナディン・シュミをバビロニア王とする。アッシュル・ナディン・シュミは南部の反乱を鎮圧した

  • 前696年:アッシリア王センナケリブがヒラックを中心とする反乱鎮圧のためにキリキアへ遠征。カラテペの支配者アザティワダはアッシリア側についたか。なお、アザティワダはアダナワの国境を東西に広げたと豪語している

  • 前696年:フリュギアがキンメリア人の侵入を受ける

  • 前695年:キンメリア人がゴルディオンを破壊し、フリュギア王ミダスが自害。フリュギア王国が実質的に滅亡する。キンメリア人はさらにリディア王国にも進出し、略奪

  • 前694年:バビロニアで反乱が起こり、反乱者がアッシュル・ナディン・シュミをエラム軍に引き渡す。バビロンはエラム軍に攻略された。この後、センナケリブは末子のエサルハドンを後継者とするも、他の息子らが反発

  • 前694年:センナケリブがエラムに侵攻し、諸都市を掠奪

  • 前693年:カルデア人のネルガル・ウシェジブがバビロニア王に即位。エラムはカルデア人と同盟を結び、ディヤラ川でアッシリア軍と激突するも、エラム・カルデア同盟軍は敗北(ハルレの戦い)。ネルガル・ウシェジブはニップルでアッシリア軍に敗北し、捕らえられる

  • 前692年:カルデア人のムシェジブ・マルドゥブがバビロニア王に即位。カルデア人、アラム人、エラム人の援助を受ける

  • 前691年:バビロン軍がセンナケリブの軍を破る(カルカルの戦い)

  • 前691年:アッシリア軍がディヤラ川のハルレにてカルデア人とエラム人を破る(ハルレの戦い)。しかし、アッシリア軍も多くの犠牲を払ったために、センナケリブは戦闘を一時中断

  • 前689年:アッシリア王センナケリブがエラム軍を破り、バビロニア支配を回復。エラム王の死をセンナケリブが知ったことがきっかけであった。センナケリブは9ヶ月の攻囲戦の果てにバビロンを破壊。運河の流れを変えてバビロンに放水した。バビロン攻略後、センナケリブはマルドゥク神像を持ち去っている

上図:センナケリブ。ニネヴェに王宮兵器庫を建設し、町の周囲に15の城門を備えた二重の城壁をめぐらせた。サルゴンとは異なり、軍事遠征は積極的に行わず、8回のみであったという

出典:Timo Roller, CC BY 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前688年:センナケリブがバビロニア王を兼ねる

  • 前685年:ギュゲスがリディア王に即位。ウラルトゥやキンメリア人と争いながら、フリュギア王国の旧領の併合を進める

  • 前685年:フリュギア王国が滅亡

  • 前681年:アッシリア王センナケリブが息子らによって暗殺される。センナケリブはメディアにも遠征を行っていた。センナケリブ暗殺後、末子のエサルハドンは一時亡命

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