1-36 インダス文明とヴェーダ時代
前4000年頃:メヘルガル遺跡にて銅が使用され始める
前3000年頃:南ロシアの草原地帯で原インド・ヨーロッパ語を話す集団が確立。西方への移動を開始し、ヨーロッパ各地に移住
前3000年頃:ハラッパー、コート・ディジーなど北西インド各地に周壁で囲まれた集落が出現
前2800年頃:パンジャーブ(インダス川中流域)やシンド地方(インダス川下流域)で青銅器が普及。槍先などに用いられ、剣なども作られるように
前2750年頃:イラン高原を中心としたトランス・エラム文明が成立。この文明の人々がインダス文明の成立に影響を与えたか
前2600年頃:ドラヴィダ系の人々が、インダス川流域でインダス文明(ハラッパー文明)を創始(メヘルガル遺跡の担い手らが創始したとも)
インダス文明の特徴
代表的な都市遺跡はモエンジョ=ダーロやハラッパーで、この両都市が中枢であった。また、モエンジョ=ダーロがインダス文明における共通信仰の頂点に立っていたか
インダス文明の都市は一定の計画に基づいて建設されており、日干しレンガの規格はどの都市でも共通であった
パンジャーブ地方の集団がインダス地域を一つにまとめようとしていた意図が見られる
都市内の城塞部は戦時の避難所としても用いられていたとの説もある。しかし、都市の防壁は低く、武器類も貧弱なため、軍事的に強大な王権や専制君主は存在していなかったと考えられるが、聖俗の力を併せ持った支配者は存在していたとみられる
インダス文明圏の全域を覆う国家が一時期存在していた可能性もあるが、基本的には文明圏内に勢力が割拠していたか
前2500年頃:メヘルガル遺跡が放棄される
前2200年頃:西アジアの広い範囲で気候変化が発生。これに伴う乾燥化がインダス文明の衰退を招いたか
前2000年頃:インド・ヨーロッパ語族の遊牧民が中央アジアに移住。彼らはやがてアーリヤと自称(アーリヤ人)
前2000年頃:インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン人(アーリヤ人)が東北イランに移動を開始。後からやってきたイラン人に押されたことが要因とする説もある。アーリヤ人らは馬と二輪戦車(チャリオット)の活用を習得。馬は中央アジアの草原地帯で家畜化された
前2000年頃:中央アジアからイラン高原、メソポタミアを繋ぐ陸上交易路が衰退。代わって、ペルシア湾を介した海上交易路が発達し、ディルムン(現在のバーレーン)やマガンが盛んに
前2000年頃:インダス文明において、都市活動が衰退を開始。城塞・市街地の棲み分けの統制が失われ、様々な都市機能が放棄され始める。イラン高原からの遊牧民の度重なる侵攻が衰退要因とする説もある
前1900年頃:インダス文明が消滅。原因は環境破壊やインダス川の洪水の頻発など、諸説あり。文明終末期からポスト文明期にかけて、暴力と疾病が増加。気候の悪化によって穀物の量が低下し、社会内で争いが増加したか
インダス文明崩壊後の展開
文化の中心地は東部のガッガル地方とグジャラート地方に移っている
なお、ポスト文明期のサナウリー遺跡では、戦車(チャリオット)が発見されている
前1500年頃:中央アジアのアーリヤ人が東に移動を開始。アーリヤ人(インド・アーリヤ人)は中央アジア方面から南下し、カイバル峠(ハイバル峠)を通ってインドのガンダーラに進出。徐々にインドに移住していく。移動の原因として、人口増加や環境の悪化、部族間の抗争などが考えられている
その後のアーリヤ人
やがてパンジャーブにまで進出して、「プル」(柵塁。土石を盛り、木の柵を巡らせたもの)に立て籠もったダーサやダスユと対決。ダーサ及びダスユの名称はイラン系の一種族が由来だが、彼らは主に先住民であったか
この先住民はインダス文明の子孫であったと考えられるが、一部のアーリヤ人は二頭もしくは四頭の馬が引く二輪戦車と青銅製の武器によって彼らを征服(小規模な衝突だけで、平和的な移住が主であっったとも)。以後、前期ヴェーダ時代と呼ばれる
前期ヴェーダ時代の特徴
この時代には先住民との間や、アーリヤ人の他部族との間で戦争(他部族との間の戦争は牛の掠奪が主な目的であった)が起こり、首長(ラージャン)が部族を率いた
ラージャンの地位は世襲されることが多かったが、原則的には部族の仲間から選ばれるもので、その権力は集会によって制限された
上記のような抗争などを通して、「五種族」(パンチャ・ジャナ)と呼ばれる5つの大部族が形成される。「五種族」には、ヤドゥ、トゥルヴァシャ、アヌ、ドゥルフユ、そしてやや遅れて現れたプール族がいた
前1500年頃:ポスト文明期の地域文化群が衰退
前1000年頃:バラタ族が勢力を拡大し、スダース王率いるバラタ族が、プール族を中心とするアーリヤ人諸部族の十王の連合軍と、インダス川支流のパルシュニー川(現パキスタンのラーヴィー川)で激突(十王戦争)
この後の展開
勝利したバラタ族がサラスヴァティー川(かつてインダス川と平行して流れていた川で、インダス川の東端部を流れていた)上流域を中心に覇権を確立。後にガンジス川上流域まで勢力を拡大した
なお、バラタ族の王国の都は、インドラプラスタ(現デリー)とガンジス河畔のハスティナープラであった
前1000年頃:中央アジアからイラン方面へアーリヤ人の一部が移動。彼らは「イラーン」と自称
前1000年頃:インドで鉄器の使用が始まる。初めは武器として用いられたが、後に鉄製農具の使用も始まり、ガンジス河畔の森林の開拓が進む
前1000年頃:アーリヤ人がガンジス川流域に移動を開始。環境の変化や部族の内紛がその原因と考えられている。以後、後期ヴェーダ時代という
この頃の情勢
ガンジス・ヤムナー両河地域を中心に、部族王制の国家が割拠し、ラージャン(王)が権力を掌握
この頃にパリクシット王に始まるクル国(都はハスティナープラ)がデリーの北西にて勢力を拡大し、北インド中央部を支配。クル王らは自らの出自をバラタ族としていたが、クル族はバラタ族が東進の過程でプール族と合体して生まれた部族か
クル国はガンジス川上流域にも勢力を拡大し、やがてそこにはパンチャーラ国が成立。クルと南隣のパンチャーラは婚姻関係などで結ばれた
前900年頃:クル族(バラタ族)内で内紛が発生。デリー北方のクル・クシェートラの平原で部族内での両派が激突。この戦いが後の叙事詩『マハーバーラタ』の原型となる
前800年頃:ガンジス・ヤムナー両河地域にてヴァルナ制が形成され、武士階級としてクシャトリヤ層が形成された。一方、アーリヤ人の支配下に置かれた先住民の多く(パンジャーブのソドライ族などか)は奉仕階級としてシュードラを形成する。一方で、敗戦などが原因でシュードラとされるアーリヤ人もいた。また、同時期にバラモン教も成立
前800年頃:ガンジス川中流域以東にヴェーダの文化が広がり、ガンジス川流域に都市国家が成立。クル・パンチャーラの東にはコーサラ国(都はアヨーディヤー)や、更にその東にはヴィデーハ国が成立
この頃の都市国家の特徴
ガンジス川上・中流域に成立した国々は部族共和制(ガナ・サンガ)国家群とされ、相互に争った。他にもヴァーラーナシー(ベナレス)を都とするカーシ国も成立
前700年頃:身分の最下層にチャンダーラ(アーリヤ人に征服された先住民部族の名前に由来か)が形成される
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