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1-14 アラム人とフェニキア人、新ヒッタイト(前702年~前332年)

  • 前702年頃:エジプト王シャバタカが即位。彼はパレスチナやフェニキアのアッシリアに対する反乱を支援

  • 前701年春:センナケリブが、叛乱を起こしていたフェニキア地方に遠征、ティルス領を侵犯。フェニキア地方以外のシリア・パレスチナ地方にも進軍。フェニキアやパレスチナ南部の諸都市、トランスヨルダンのモアブ人やアンモン人を従わせる。フェニキア諸都市はティルスから離反し、シドンやティルスの本土部分ウシュ、南方のアクジヴ、アッコなどはアッシリアの支配下に。ティルス王ルリはキプロスにまで逃れたが、やがて死去。一方、センナケリブはルリの後継としてトゥバル(エトバアル)をシドン王とし、傀儡とする(ティルス・シドンの同君連合は終焉)。また、ユダ王ヒゼキヤはエジプト軍の支援を得ていたが、エジプトの援軍はアッシリア軍にエルテケにて敗退。この後、センナケリブはイェルサレムまで包囲するも、撤退した。しかし、結果的にユダ王国はアッシリアへの臣従を余儀なくされる

上図:ニネヴェの宮殿に描かれていたフェニキアの商船と軍船のスケッチ画。どちらも二段櫂船であった

出典:Wikipedia
  • 前700年頃:アッシリア帝国がペリシテ人の領域を属州化

  • 前696年:アッシリア王センナケリブがヒラックを中心とする反乱鎮圧のためにキリキアへ遠征。カラテペの支配者アザティワダはアッシリア側についたか。なお、アザティワダはアダナワの国境を東西に広げたと豪語している

  • 前692年:カルデア人のムシェジブ・マルドゥブがバビロニア王に即位。カルデア人、アラム人、エラム人の援助を受ける

  • 前689年:アッシリア王センナケリブが数度のバビロニア遠征の後に、エラム軍を破り、バビロニア支配を回復

  • 前685年:キンメリア人の攻撃を受けたフリュギア王国が滅亡

  • 前681年:アッシリア王センナケリブが息子らによって暗殺される。センナケリブはメディアにも遠征を行っていた。センナケリブ暗殺後、子のエサルハドンは一時亡命

  • 前680年頃:スキタイ人がパレスチナに侵入

  • 前679年:アッシリア王エサルハドンがタバルに侵攻し、キンメリア人と対決、これを破ったか。結果、キンメリア人の南進は阻止された。しかし、タバルとメリドは独立を保っており、一つの国家としてまとまっていたと考えられる。この後、クエにあった都市クンドゥとシッスの支配者サンドゥアリ(アザティワダと同一人物か)が、シドンのアブディ・ミルクッティとともに反乱を起こす

  • 前677年:アッシリアが反旗を翻したシドンを破壊

  • 前676年:アッシリアがアブディ・ミルクッティを処刑

  • 前676年:エサルハドンがクエの反乱を鎮圧。サンドゥアリを捕らえて処刑し、クエをアッシリア統治下とする

  • 前671年:ティルスがエジプトの支援を受けてアッシリアに反乱したため、エサルハドンはティルスを攻略した後、ナイル川を渡河し、メンフィスを征服。アッシリア軍はテーベまで進軍した

  • 前669年:ティルスがアッシリアに背いてエジプトと同盟を結んだため、エサルハドンがティルスを討伐。この後、エジプトへ進軍するも途上で陣没

  • 前667年:アッシリア王アッシュルバニパルがエジプトの反乱を鎮圧。この後、アッシュルバニパルはアッシリアに叛いたティルス王バアル1世を攻撃し、降伏させる

  • 前664年:エジプトでプサメテク1世が即位。アッシリアは彼のエジプト支配を承認し、エジプト第26王朝(サイス朝)が成立。以後、エジプト末期王朝時代となる

  • 前663年:アッシュルバニパルがエジプトの反乱を鎮圧し、テーベを征服。これにより、アッシリアがエジプト全土を支配下に

  • 前655年:プサメテク1世率いるエジプトがアッシリアからの独立を達成

  • 前654年:伝承ではカルタゴがバレアレス諸島のイビサ島に植民地を建設(考古学的には前6世紀頃)。西地中海に交易圏の建設を開始する

  • 前652年:バビロニア王シャムシュ・シュム・ウキンがアッシリアに叛乱(兄弟戦争)。バビロニア側を「海の国」の首領ナブー・ベール・シュマティ(メロダク・バルアダン2世の孫)らカルデア人とアラム人の諸部族、エラム人、西方のアラブ人諸部族が支援

  • 前648年:アッシリア軍によって、バビロンが陥落。バビロンは炎上し、シャマシュ・シュム・ウキンは死去。バビロニアはアッシリアのもとに戻るも、ナブー・ベール・シュマティはエラムに逃亡。以後もアッシュルバニパルはアラブ討伐のために、長期の遠征に出立。やがて残存したバビロニアの反アッシリア勢力は降伏した

  • 前633年:アッシリアで内乱が勃発。これを契機として、スキタイ人がシリア・パレスチナに侵入

上図:スキタイ人の版図。細い線がシリア・パレスチナへの侵入経路を示す

出典:Antiquistik, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前629年:バビロニア南部の「海の国」の首領ナボポラッサル(カルデア人か)が南パレスチナにまで進軍(~前627年)

  • 前627年:エジプト軍がアシュドドにてナボポラッサルの軍隊を撃退

  • 前626年:スキタイ人がシリア・パレスチナを破壊し、エジプト国境にまで支配領域を拡大

  • 前625年頃:フェニキア地方が一時独立(~前586年)

  • 前625年頃:ダマスクスが新バビロニアに服属

  • 前612年:メディア、新バビロニアの連合軍がアッシリアの首都ニネヴェを攻略。一部のアッシリア人はハランに逃れる

  • 前611年:アッシリアの残党が集ったハランにてアッシュル・ウバリト2世(アッシリアの貴族)が即位。彼らは帝国西部の属州をいくつか支配しつつ、エジプトに援軍を要請

  • 前610年:エジプト王ネカウ2世がアッシリアの残存軍を支援するため、ハランを目指し進軍

  • 前610年:メディア・新バビロニア連合軍がハランを攻撃し、その一部を破壊

  • 前609年夏:ユダ王ヨシヤがネカウ2世の進軍を妨害。これに対し、ネカウ2世はメギド郊外にて、ヨシヤを敗死させる(メギドの戦い)。ユダ王国を属国とし、エジプト軍は更にカルケミシュやハランにまで侵攻した。しかし、新バビロニアがエジプトの援軍を破る。その後、エジプトの支援を受けたアッシュル・ウバリト2世はニネヴェを2ヶ月間包囲するも、撃退される。以後、アッシュル・ウバリトは消息不明となる。新バビロニア・メディア連合軍によってハランも陥落し、アッシリア帝国は完全に滅亡。しかし、エジプト軍は以後もシリアに残留

  • 前607年:ネカウ2世がユーフラテス川西岸のキムフにて新バビロニア王ナボポラッサルと激突

  • 前605年:新バビロニアの王子ネブカドネザルがシリアに遠征。シリアにまで進出していたエジプト軍(アッシリアの残党軍と合流)をカルケミシュで破る(カルケミシュの戦い)。更に新バビロニアは退却するエジプト軍を追撃し、ハマトで破る。これにより、新バビロニアはハマト地域を制圧し、シリア・パレスチナの支配を一部確立

  • 前605年8月1日:新バビロニアのネブカドネザル2世が即位

  • 前605年:エジプト王ネカウ2世の勧めで、フェニキア人がアフリカを時計回りに周航

  • 前604年:ネブカドネザルがシリア・パレスチナに数次にわたる遠征を開始(~前601年)。シリアにてネカウ2世を破り、パレスチナを南下、ペリシテ地方のアシュケロンを占領する。アシュケロンやエクロン、アシュドドやティムナなどのペリシテ地方の諸都市は恐らくこの時に破壊されたと考えられている(エジプトと結びつきの強いペリシテ地方を消滅させることが狙いであったか)。また、この時にユダ王ヨヤキムが新バビロニアに臣従したと考えられている。ネブカドネザルはパレスチナからエジプト勢力を一掃すると、更にエジプトの川にまで到達し、エジプト軍を南方まで追撃した

  • 前601年:新バビロニア王ネブカドネザル2世のエジプト侵攻軍をエジプト軍が東デルタの国境線で迎撃。更にフィリスティヤ南部にて、エジプト軍が新バビロニア軍を撃破。結果的に新バビロニアによるエジプト遠征は失敗に終わった。これを受けて、ユダ王ヨヤキムが叛乱を宣言し、エジプトと結ぶ

  • 前599年:ネブカドネザルがシリア・パレスチナ諸国及びアラブ遊牧民に対する遠征を開始(~前598年)

  • 前598年12月:ネブカドネザル2世が西方遠征を開始し、ユダ王国のイェルサレムを目指す。新バビロニア軍はネゲヴの重要都市アラドを破壊し、イェルサレムを包囲。この包囲戦の最中に、ユダ王ヨヤキムが死去したか(殺害されたとも)。なお、この頃の新バビロニアにはティルスやガザ、シドン、アルワドやアシュドドらが服属していた

  • 前597年3月16日:ネブカドネザル2世がイェルサレムを陥落させ、ユダ王国の王ヨヤキンや有力者らをバビロンに連行(第1次バビロン捕囚)。ユダ王国は新バビロニアに臣従

  • 前595年:ネブカドネザル2世が再びシリアに遠征

  • 前594年:ネブカドネザル2世のシリア遠征。示威的な遠征で、諸王国に貢納させ、バビロニアの覇権を確認するためのものか

  • 前591年:エジプト軍がユダ王ゼデキアを支援するために、南パレスチナに向かう。これにより、ユダ王国の新バビロニアへの反抗が活発に

  • 前589年2月:エジプト王アプリエス(ウアフイブラー)が即位。彼はキプロス、フェニキアに軍事遠征を実施

  • 前589年:ユダ王ゼデキヤがエジプトの教唆を受けて、エドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの諸王とともに新バビロニアに反旗を翻す。ゼデキヤは再びエジプトの属王となり、イェルサレムに籠城する

  • 前588年:ネブカドネザル2世がユダ王国領に侵攻し、ラキシュ、アゼカ、イェルサレム以外のほぼ全域を制圧

  • 前587年7月19日新バビロニアネブカドネザル2世が、反旗を翻したユダ王国を滅ぼし、第2次バビロン捕囚を行う。また、イェルサレム神殿を破壊した

  • 前585年:メディア軍と結んだスキタイの攻撃で、ウラルトゥの首都トゥシュパが陥落。ウラルトゥ王国はメディアに滅ぼされる

  • 前585年:ネブカドネザル2世がティルスを攻囲。島部分のみとなっていたティルスは13年もネブカドネザルの包囲に耐える。一方、モアブやアンモンなどの諸王国もネブカドネザルは征服している

  • 前582年:新バビロニアが第3次バビロン捕囚を行う

  • 前573年頃:ティルス王エトバアル3世が新バビロニア軍の攻囲を受けて降伏。王や王族らはバビロニアに送られた。この後、おそらくネブカドネザルの傀儡であるバアル2世がティルス王となる。また、ネブカドネザルはエジプトのデルタ地方にまで進軍したと考えられている

上図:ネブカドネザル2世統治下の新バビロニアの版図

出典:IchthyovenatorSémhur (base map), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前564年:ティルスにて王政が一時断絶。短期間で5人の裁判官が任命され、統治にあたった

  • 前562年:ネブカドネザル2世が死去。以後、新バビロニアでは王位継承をめぐり国内が分裂

  • 前556年:ティルスで王政が復活

  • 前553年:新バビロニア王ナボニドゥスがシリアに遠征し、ガザを占領

上図:この頃のオリエント情勢

出典:Original: User:SzajciEnglish: User:WillemBK, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前550年:アケメネス朝ペルシアが成立

  • 前539年10月12日:アケメネス朝ペルシアのキュロス2世がバビロンを無血開城させ、新バビロニアを滅ぼす

  • 前525年:ペルシア王カンビュセス2世がエジプト第26王朝を打倒。彼はエジプトへの遠征の道中で、シリア・フェニキアの諸都市を屈服させた(ティルスはアケメネス朝の支配下で自治を達成)。フェニキア諸都市には、戦時に軍艦と船員を提供する義務が課せられる。またカンビュセスは、カルタゴ遠征を計画したが、フェニキア人に拒否され頓挫

  • 前500年頃:シドン王エシュムン・アザル2世が神殿建設などの事業を行う。これに対し、ペルシア王はドルとヨッパの土地を与えたという

  • 前460年:エジプトで反乱が勃発

  • 前456年:ユーフラテス川西部のアバル・ナハルの総督がエジプトを侵略

  • 前454年:ペルシアがエジプトの反乱を鎮圧

  • 前404年:エジプトがペルシアから独立

  • 前385年:エジプトのアコリス王がペルシア側に幾度か反攻を試みる。アルタクセルクセス2世はエジプト奪回を試みるも失敗(~前383年)

  • 前380年:ネクタネボ1世(ネケトネブエフ)がエジプト第30王朝を創始。彼の治世中にはペルシアとギリシアの連合軍がエジプトを侵略するも、連合軍が内部対立で分裂したため、エジプト側が連合軍を駆逐

  • 前362年:エジプト王テオス(ジェドホル)が即位。彼はギリシア人の傭兵を雇い、シリアに遠征。フェニキアとシリアでペルシア軍と戦うも敗北

  • 前351年:シドンがエジプトと結び、ペルシアに反乱。フェニキア諸都市も同調したとみられる。シドンに駐在していたアケメネス朝の役人は処刑された。これに対し、ペルシア王アルタクセルクセス3世はシドンを攻撃・蹂躙。ティルスなどの他のフェニキア諸都市はこの攻撃を受けて降伏したらしい

  • 前343年:ペルシア王アルタクセルクセス3世がエジプトに侵攻

  • 前341年:アケメネス朝ペルシアが再びエジプト全土を統治

  • 前334年春:マケドニアのアレクサンドロス3世が東方遠征を開始

  • 前333年秋:アレクサンドロス3世がフェニキア沿岸部(ペルシア艦隊の根拠地)に到達。アラドス、ビブロス、シドンなどはアレクサンドロスに降伏。特にシドンでは市民自らがアレクサンドロスの側に降ることを望んだ

  • 前332年1月:神殿で犠牲を捧げたいというアレクサンドロスの申し出を、ティルスが拒否。これに対し、アレクサンドロス3世はティルスで7ヶ月もの攻防戦を行う

  • 前332年7月:ティルスが陥落。この時、アレクサンドロスは本土から沖合の島に向かって突堤(アレクサンドロス堤)を築かせた。ティルス人は火船で攻城塔を破壊するなどしたが、キプロス島の艦隊が降伏したため、アレクサンドロスは海からティルスを攻撃。船の上に破城槌を乗せて城壁を攻撃している。なお、ティルスの住民らは虐殺されるなどしたが、ティルス王アゼミルコスには恩赦が与えられている。結果、全フェニキアがアレクサンドロスの手中に。一方、シリア・パレスチナの内陸部は部将のパルメニオンが征服

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