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1-16 イスラエル統一王国

  • 前1263年頃:エジプトにいたヘブライ人が、モーセに率いられてエジプトを脱出(出エジプト)。彼らはヤハウェを崇拝する民族共同体を形成

  • 前1258年頃:ラメセス2世とヒッタイト王ハットゥシリ3世が平和同盟条約を締結。オロンテス川以南がエジプト領と確定

  • 前1250年頃:「海の民」の大移動が始まる。「海の民」の一派に、ペレセト(ペリシテ人。クレタ島出身とも)がいた

  • 前1230年頃:モーセの後継者ヨシュアがイスラエルの軍団を率いて、アマレク人を打ち破ったという。この後、ヨシュアに率いられたイスラエル人は、ヨルダン川西に入り、カナーンの中部、南部、そして北部を順番に奇襲攻略。ギベオン付近の町々を除いて、征服を完了する(山地、ネゲブ、シェフェラ、傾斜地を含む全域を征服)。ヨシュアはイェリコ(イェリコは「契約の箱」を担いだ祭司が城壁を7周したことで、城壁が崩壊し、町は陥落したと伝わる)とアイを滅ぼし、ユダの山地や低地の都市の王たちからなる連合軍を撃破。北方のハツォルで最後の戦闘を行い、ハツォルのヤビン王を殺害、ハツォルの町は炎上した(他にもアヤロンの西寄りの谷での戦闘が伝わっている)。征服後にヨシュアはイスラエルの全部族をシケム(ヨシュアの数世代前のシメオンとレビがシケムの町の男子全員を殺害し、征服したか)に集め、ヤハウェに忠誠を誓わせた(部族同盟の成立か)。考古学的には、ヨセフ族(エフライム族とメナシェ族)を中心とする北方諸部族とユダ族を中心とする南方諸部族が別々にカナーンに侵入したという

  • 前1230年頃:イスラエル史における士師時代(英雄時代)が始まる。モーセとヨシュアの後継者である士師(地方レベルの指導者であったか)と呼ばれる12人の指導者がカナーン人、ペリシテ人、トランスヨルダンのアラブ系遊牧民アンモン人と戦う。イスラエル諸部族は、外敵の侵攻に対して、士師の指導のもとで、地方的部族同盟を形成した。士師エフドはトランスヨルダンのモアブ王(族長か)エグロンのイェリコ侵略に対し、エグロンを暗殺し、エフライム山地の男らを用いてモアブ軍を打倒、ベニヤミン族を解放した可能性がある

  • 前1230年頃:「海の民」(特にペリシテ人)がカナーン地方にて侵入と破壊を行う

  • 前1209年頃:エジプト王メルエンプタハがパレスチナに遠征。カナーンは掠奪され、アシュケロンは移動させられ、ゲゼルは取り除かれたという。結果として、ヤノアムは破壊され、イスラエル人などが征服された

  • 前1200年頃:トランスヨルダン北部の集団がカナーンに移住。イスラエル民族もこの集団に加わっていた

  • 前1200年頃:「海の民」が東地中海全域を混乱させ、多くの都市国家を滅ぼす(前1200年のカタストロフ)

  • 前1190年頃:ハットゥシャが放棄され、ヒッタイト帝国が滅亡。シリア・パレスチナではセム語族の先住民に加えて、新たな移住民の入植を受けて都市が発展

  • 前1190年頃:「海の民」の一派ペリシテ人がエーゲ海(クレタ島かキプロス島か)からカナーンに侵入

  • 前1177年頃「海の民」がアムル地方からシリア沿岸を南下し、エジプトを目指す。また、海からもエジプトに侵入。この中の一派がペレセト(ペリシテ人)だが、彼らはラメセス3世に撃退され、エジプト定着には失敗。ペレセトやチェケル(トロイア人)はベドウィンの侵略に対する備えとしてパレスチナ南部の海岸地方に植民された。特にペリシテ人はガザからカルメル山南方のドルまでの東地中海沿岸南部に定住。ガザ、アシュケロン、アシュドド、エクロン、ガトの都市を形成し、都市同盟(五市連合)を形成。それぞれ、自治権を持ち、セレンという王のもとにあった。彼らの軍事的主力は傭兵であった。また、ヒッタイト滅亡後から次第に鉄製武器を導入し、鉄の製造を独占している。ペリシテ人はイスラエル諸部族を圧迫し、カナーンを支配。彼らは馬や兵車を用いており、5人の君侯による連立支配体制であった。テル・アヴィヴ近郊のテル・カシレまでがペリシテ人の勢力圏で、ベト・シェアンなどパレスチナ内陸部にまで進出することも。また、この撃退の後に、ラメセス3世は海の民をレヴァントに追い返す戦いを展開したと考えられる

  • 前1143年頃:ラメセス6世が即位。この時期にエジプトは西アジアに対する宗主権を喪失。東部デルタまでがエジプトの国境となる

  • 前1120年頃:デボラ(女性の士師)とバラクに率いられた北方諸部族軍(エフライム、ベニヤミン、メナシェ、ゼブルン、イッサカル、ナフタリ。参加部族は諸説あり)がイズレエル平原のタナクにて、カナーン諸都市連合軍率いるシセラ将軍を破る。カナーン連合軍は豪雨に阻まれ、キション川に流されたという。シセラはヤエルという女性に暗殺されたと伝わる。この後、士師ギデオンの時代には東方から遊牧民(ミディアン人とアマレク人と伝わる)が来襲したが、イズレエルの谷にてこれを奇襲し、撃破。その後、トランスヨルダンにミディアン人の王ゼバとツァルムナを追って遠征を行い、2人を殺害。このときに協力を拒んだスコトとペヌエルの町には罰を下している。ギデオンの子アビメレクはシケムの親族にギデオンの他の息子らに反逆するようにけしかけると、山賊を用いて息子らを殺害した。この後、アビメレクはシケムの人々から王とされるが、後に対立。シケムを破壊し(考古学的証拠はない)、テベツの町に進軍した際に殺害された。後の士師エフタはアンモン人の侵略に対し、ギレアドの全住民の頭となって、これを撃破。しかし、ヨルダン川西岸のエフライム族とエフライムの森(トランスヨルダン)で抗争になり、これを皆殺しにした

  • 前1100年頃:遊牧民集団アクラムの内のアラム人が主導権を掌握。彼らは新ヒッタイトの都市をいくつか占領し、新たな都市を建設。一方、シリア海岸では先住民のカナーン人が支配を維持しており、彼らはやがてフェニキア人と呼ばれることとなる

  • 前1069年頃:エジプト新王国時代が終焉。エジプト第21王朝が成立するも、国内は混乱していく

  • 前1050年頃:トランスヨルダンにアンモン人の小王国が成立

  • 前1050年頃:パレスチナ北部の港湾都市ドルが突然破壊される。この後、この都市にはフェニキア人が居住している。なお、この時期には周辺の遺跡にも破壊の痕跡があり、フェニキア人の進出の結果とする説もある(軍事力を用いた進出か)

  • 前1050年頃:ペリシテ人とイスラエル人の敵対関係が強まる。ペリシテ人は北方と東方に勢力を広げ、ダン族とユダ族に圧力を加えている。士師サムソン(史実ではダン族の英雄であったか)によるペリシテ人殺害から、両者の抗争が始まり、サムソンは落命する(ユダの人々によってペリシテ人に売られた結果か)。後の士師サムエル(ベニヤミン族の一員。複数の人間の寄せ集めか)はミツパ(ベニヤミン族の領地)の戦いでペリシテ人を撃退

  • 前1050年頃:ペリシテ人がイスラエル人の中心地シロを破壊。この時期には「契約の箱」がペリシテ人に奪われたが、イスラエル人は奪還に成功している(送り返されたとも)

  • 前1030年頃:エフライム族を中心に組織された、対ペリシテ人のイスラエル部族同盟であるシロ同盟(祭司エリが率いる)がペリシテ人に敗北

  • 前1020年頃:ベニヤミン族のサウルが預言者サムエルの支持を得て、イェリコ近郊のギルガルでイスラエル人の王に即位(イスラエル統一王国時代の始まり)。サウルはギブア(ベニヤミン族の中心地)に城砦と宮殿を設け、ペリシテ人と転戦。南方諸部族もサウルの王権を認めたことで、イスラエル諸部族の統一なる。外征ではアマレク人に勝利し(アマレク王アガグは殺さず)、アンモン人に包囲されたヤベシュ・ギレアドの町からの救援要請に応え、アンモン人を撃退。ペリシテ人との戦いにおいては、サウルの子ヨナタンが峡谷を通ってミクマスにあるペリシテ人要塞を奇襲攻撃している(ミクマスの戦い)。一方、兵卒であったダビデはペリシテ人のゴリアトをエラの谷にて、投石器だけで倒すという伝承が残る。こうしたダビデの活躍にサウルは嫉妬し、殺害を企てたためにダビデは逃亡。自らの軍団を編成し、冥加金の取り立てなども行った。しかし、やがてはペリシテ人の土地に逃れて、ガト王アキシュに仕えたが(ペリシテ人アキシの部隊の傭兵隊長に)、イスラエルの民を攻撃することは避ける。なお、サムエルとは後に仲違いしている

  • 前1000年頃:パリシュティン国の王タイタが、トルコ最南端のアムーク平原を中心にユーフラテス川からハマトまで領域を拡大。パリシュティンとは「海の民」碑文の「ペレセト」(ペリシテ人)である可能性もある

  • 前1000年頃:サウル王が険しい地形であるギルボア山の尾根でペリシテ人と戦うも、敗北し自害(ギルボア山の戦い)。王とその子らの遺体はペリシテ人によってベト・シェアンの城壁に晒されたが、ヤベシュ・ギレアドの者らによって奪還されている。ペリシテ人は中央山岳地帯を再び占領した。ギルボア山で生き残った軍司令官アブネル(サウルの親族)は、東ヨルダンのマハナイムに拠点を遷し、サウルの末子エシュバアルを王としてサウル王家を継承させる。一方で、ペリシテ軍の陣地にいたダビデ(フィリスティアに逃亡していた)は、陣地を脱してマムレにて「ユダの家の王」となり(ユダ王国)、首都をヘブロンとした。ペリシテ人はこの状況を容認したか。ギブオンで、ヨアブ率いるダビデ軍が、アブネル率いるサウル王朝軍と激突し、サウル王朝軍を撃退したが、ヨアブの弟アサエルはアブネルに殺されたため、ヨアブはアブネルを殺害した。この後、エシュバアルもサウル王朝軍の隊長バアナとレカブに殺害された。両者は事の顛末をダビデ王に伝えるも、逆に処刑された

  • 前993年頃ダビデが北方イスラエル諸部族をまとめあげ、「イスラエルの王」となる(ユダ・イスラエル両国を同君連合の形で統治)。対外的にはダビデ王はペリシテ人に叛旗を翻した

  • 前993年頃:ダビデ王がエブス人の町ツィオンの要害イェルサレムを攻略し(ギボンの泉から城壁内まで続くトンネルに通じる竪穴から兵士を送り込んだという)、イェルサレムに遷都。この後、ダビデはペリシテ人を征服し、近隣諸国をも征服した。また、シリアのアラム人も破り、ダマスクスも征服。加えて、エドム、モアブ、アンモンなどの諸部族をも征服した。港湾都市ドルも征服し、紅海からユーフラテス川に達する、東ヨルダンとカナーン人都市国家とを併合した最大の版図を築く。こうした征服活動を展開するにあたり、ダビデ王は実質的な常備軍を整備した。なお、ペリシテ人とダビデが戦った際にシリアとフェニキアはペリシテ人側に加担したと考えられているが、ダビデが勝利すると、ティルスは外交方針を親イスラエルに転換。更にダビデ王はハマトの王らと同盟を結んでいる

  • 前978年頃:エジプト第21王朝のシアメン王が即位。彼は弱体化したペリシテ人からパレスチナのゲゼルを奪取。この頃、ダビデによって攻撃されたエドム王国の王子ハダドがエジプトに逃れてきており、シアメンの王女はハダドと結婚

  • 前969年頃:ティルス王ヒラム1世が即位。彼はティルスの拡張など、内政を充実させる(フェニキアの最盛期)。外交面では、ダビデ王との友好関係を深めた

  • 前961年頃:ダビデ王が死去し、ソロモンが単独統治を開始(イスラエル統一王国の最盛期)。ダビデ王の治世末期には、ダビデがバト・シェバと姦通し、その夫ウリヤを激戦地に送り込んで戦死させたことから王への反感が増大。息子のアブサロムやサウルの一族に率いられた北の部族が反乱を起こしている(アブサロムの乱)。即位したソロモンは自身の即位に反対した者らを粛清した。また、ヤハウェのための第1神殿を造営。軍事面では、軍備の強化、要害の地での要塞都市建設などを行っている。イェルサレムにも導水渠(「C・W・ウォーレンの竪坑たてこう」)が作られ、町の攻囲に備えた。加えて、ガリラヤ北部のハツォル、南西のメギドを併合。版図はアカバ湾頭のエイラトからレバノン・シリア国境付近にまで及んだ。外交面ではティルスのヒラム1世やエジプトの王女と結婚しており、ヒラム1世とは通商条約も締結し、エジプトとも同盟を結んだ。エジプトからは王シメオンが自身の娘であるソロモンの王妃にゲゼルの町を贈っている。一方でハダドとエジプト王女との子で、エジプトで養育されたゲヌバトはエドムを奪還し、即位している。また、神殿と宮殿造営に際し、資材と職人を提供したヒラム1世には、ガリラヤ地方の20の町を贈ったという。他にも南アラビアからはシェバの女王が訪問したと伝わる。しかし、多額の租税徴収やユダ族の徴税及び徴兵を免除したことなどによって、北方諸部族の反発を招く。エフライム族のヤロブアムは北方諸部族の強制労働者らを率いて蜂起するも失敗し、エジプトに亡命した。彼はシロの預言者アヒヤからイスラエルの王として指名を受けていたという

上図:イスラエル統一王国の版図

出典:Regno di Davide.svg: RobertoReggi12 Tribes of Israel Map.svg: Richardprins12_tribus_de_Israel.svg: Translated by Kordas12 staemme israels heb.svg: by user:יוסי12 staemme israels.png: by user:Janzderivative work: Richardprins, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前950年頃:アラム人のレゾンがソロモンからの独立に成功し、ダマスクスに独立王朝を樹立。アラム人勢力の中心がダマスクスに移る

  • 前945年頃:シェションク1世がエジプト第22王朝を創始。一時的にエジプトの再統一に成功

  • 前931年頃:ソロモン王が死去。息子レハベアムが後を継ぐも、北方に入植した10の諸部族とシケムで会談した際にさらなる重税をちらつかせたため、北方諸部族はヤロブアム1世をイスラエル王とし、ヘブライ人の王朝はイスラエル王国(ヤロブアム王朝)とユダ王国(ユダ族とベニヤミン族)とに分裂

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