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1-29 フリュギア王国とリディア王国

  • 前1190年頃:ヒッタイト帝国が滅亡。アナトリアにはトラキア方面から印欧語族のフリュギア(ムシュキ)人が侵攻を開始

  • 前1177年頃「海の民」がアムル地方からシリア沿岸を南下し、エジプトを目指す。この「海の民」には、チェケル(トロイア人)、デネン(キリキア人)やルッカ人などアナトリアの住民も含まれていた。エジプト王ラメセス3世は「海の民」を破り、チェケルらをベドウィンの侵略に対する備えとしてパレスチナ南部の海岸地方に植民している

  • 前1175年頃:東地中海沿岸で行われた破壊活動が終焉。キリキアなども崩壊

  • 前1120年頃:ドーリア人がギリシア本土に侵入(~前950年頃)。ミケーネの王城などが破壊された。追いやられた住人たちはエーゲ海の島々や小アジアに移住し、砦を建設した。アカイア人はアテネを経て、トルコの西海岸に移住。イオニア(アナトリアのエーゲ海沿岸南西部)やアイオリス(アナトリアのエーゲ海沿岸北西部)という地方を形成した。また、後にはドーリア人も小アジアなどに植民地を建設した

上図:アナトリアの各地域名。黄色の部分がイオニア地方

出典:コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、Roke~commonswikiだと推定されます(著作権の主張に基づく), CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前1114年頃:アッシリア王ティグラト・ピレセル1世が即位。彼はアッシリアの北方からアナトリア東部までの地域に遠征。また、アナトリア南部の国家ムシュキ(フリュギア人か)も圧倒。フリュギア人はティグラト・ピレセルとの抗争を経て、アナトリアの中央高原に定住。アッシリアに対抗するため、アラム人に接近した

  • 前1100年頃:黒海沿岸にインド=ヨーロッパ語族のキンメリア人が出現。オリエント北辺を荒らしまわる

  • 前1100年頃:トロイア市が地震、あるいは敵の襲撃によって破壊される

  • 前1050年頃:アテネがイオニアに植民。ギリシア人の小アジアへの植民活動が活発となる(第1次植民。~前900頃)

  • 前1000年頃:伝承ではゴルディオスがフリュギア王国を建設

  • 前850年頃:ヴァン湖沿岸にフルリ系のウラルトゥ王国が成立

  • 前800年頃:ウラルトゥ王メヌアが首都トゥシュパ(現ヴァン)を整備。アッシリアから領土を奪取し、統一王国を建設した

  • 前756年頃:ミレトスが黒海方面に植民し、植民市キュジコスやシノペを建設。更にシノペは植民市トラペズスを建設

  • 前750年頃:ギリシア人が地中海沿岸や黒海沿岸に進出を進める(第2次植民。~前550年頃)

  • 前750年頃:フリュギア人がフリュギア王国を築く

  • 前738年頃:この年以降に、フェニキアのシドン、ティルスを「ヤワナ」が襲撃。ヤワナとは小アジア沿岸かキプロスに定着したギリシア人であったか(キプロスに住むギリシア人はアッシリアの宗主権を認めていた)

  • 前730年頃:アナトリアにリディア王国が成立。都はサルデス(現イズミル市近郊)

  • 前720年:シリアのハマト率いる反アッシリア連合軍がサルゴン2世に敗北。サルゴンはハマトを襲撃し、城塞を破壊。ハマト王国は滅亡し、住民は強制移住させられる。一方、フリュギア(ムシュキ)王ミダス(ミタ)はゴルディオンを都に定め、隣国タバルの王キアッキをアッシリアから離反させようとした。しかし、サルゴンはキアッキを王位から引きずり降ろし、より忠実な支配者をタバル王とする。これに対し、ミダスはカルケミシュのピシリとともに干渉を続ける。なお、大王を名乗ったタルフンタッシャ王ハルタプがミダスを破ったとする説もある

上図:フリュギア王国の版図(橙線)

出典:コンピュータが読み取れる情報は提供されていませんが、Amizzoni~commonswikiだと推定されます(著作権の主張に基づく), CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:ゴルディオンの古墳

出典:Archaeologist1950, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前718年:アッシリアのサルゴン2世がアナトリア進出を図り、タバルを征服

  • 前717年:アッシリアのアナトリア進出に対し、フリュギア王ミダスが反アッシリア同盟に入り、新ヒッタイトの諸王と結んでアッシリアと対立

  • 前717年:アッシリア王サルゴン2世が、フリュギア王ミダスと通じて謀叛を企てたとして、カルケミシュ・フリュギア連合軍を撃破し、カルケミシュを征服。アッシリアの属州とし、住民と王族は捕囚された。この後、タバル王アンバリスがミダスとウラルトゥのルサ1世に使者を送ったために、サルゴンはアンバリスを王位から退ける。なお、後にミダスはアッシリアがクワ王アワリクを征伐するのに協力している(当時アワリクは亡命中であった)

  • 前716年:サルゴン2世がウラルトゥ国内の混乱に乗じて、ウラルトゥに侵攻

  • 前715年:アッシリアがタバルを再度征服。ミダスがタバルの反乱を後押ししていたか

上図:新アッシリア帝国の版図拡大

出典:『古代メソポタミア全史』
  • 前715年:スキタイ人に逐われたインド=ヨーロッパ語族のキンメリア人が黒海南岸に現れ、ルサ1世統治下のウラルトゥ王国を攻撃し、黒海南岸に定住。このキンメリア人を追って、騎馬民族のスキタイ人がカフカス山脈を越えて西アジアに侵入。なお、キンメリア人はカッパドキアに入る前にリディアを掠奪し、シリア北部にまで進出している

  • 前714年:タウルス山脈の諸小国を討伐したサルゴン2世のアッシリア軍が、ルサ1世率いるウラルトゥ軍とウルミエ湖南西で会戦し、アッシリア側が勝利。首都ムツァツィル市の神殿を掠奪し、ウラルトゥ王国を征服するも完全勝利はできず。ルサ1世はじきにアッシリアに征圧された地域の支配権を回復

  • 前714年:ウラルトゥ王国がキンメリア人に屈服。キンメリア人の脅威に対し、アッシリアとウラルトゥは友好的な外交関係に転換したという

  • 前713年:サルゴン2世がタバルを併合

  • 前709年頃:アッシリアと抗争していたフリュギア王ミダスが、キンメリア人の侵入を受けてアッシリアと和睦

  • 前708年:アッシリアがクンムフを征服。これまでのアッシリアによる新ヒッタイト諸国への侵略により、新ヒッタイト諸国は滅亡

  • 前707年:フリュギア王国がアッシリアに服属

  • 前705年:サルゴン2世がミダスの誘いでタバルに軍事介入し、アナトリアに遠征。キンメリア人と対峙するも、山岳地帯で敵の罠にかかって戦死。アナトリアの諸都市は、ウラルトゥ王国の援助を得てアッシリアに反逆していた。サルゴンの死後、各地の属州で叛乱が勃発。ユダ王ヒゼキヤもアッシリアからの独立を宣言。以後、アッシリアはタバル、メリド、クエなどの支配を断念

  • 前700年頃:イオニア地方のギリシア人都市ミレトスが繁栄。ミレトスなどのイオニア諸市はマルマラ海沿岸と黒海沿岸への植民活動を積極的に展開

上図:エーゲ海沿岸のギリシア人植民市

出典:Alexikoua, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前696年:キンメリア人がフリュギア侵略を開始

  • 前695年:キンメリア人がゴルディオンを破壊し、フリュギア王ミダスが自害。フリュギア王国が実質的に滅亡する。キンメリア人はさらにリディア王国にも進出し、略奪

  • 前685年:インド・ヨーロッパ語族系のリディア人であるギュゲスが、サルデスの僭主カンダウレスを殺害し、リディア王に即位(メルムナダエ王家の成立)。また、ギュゲスはアッシリアの援助を受けて、ウラルトゥやキンメリア人を撃退。さらに東方ではフリュギア王国の旧領の大半を併合し、アナトリア西岸のギリシア人都市であるミレトスやスミュルナを攻撃し、コロフォンを占領

  • 前685年:キンメリア人の攻撃を受けたフリュギア王国が滅亡

  • 前679年:アッシリア王エサルハドンがタバルに侵攻し、キンメリア人と対決、これを破ったか。結果、キンメリア人の南進は阻止された。しかし、タバルとメリドは独立を保っており、一つの国家としてまとまっていたと考えられる。この後、クエにあった都市クンドゥとシッスの支配者サンドゥアリ(アザティワダと同一人物か)が、シドンのアブディ・ミルクッティとともに反乱を起こす

  • 前676年:エサルハドンがクエの反乱を鎮圧。サンドゥアリを捕らえて処刑し、クエをアッシリア統治下とする

上図:新アッシリア帝国の最大版図(前671年)とフリュギア王国の版図

出典:Wikipedia
  • 前668年:アッシリア王アッシュルバニパルが即位。治世中、彼は9度遠征を実施(フリュギア、リディア、ウラルトゥ、メディアにも遠征)

  • 前660年頃:メガラが植民市ビザンティオンを建設

  • 前657年:ギュゲスが再度アナトリアに侵入したキンメリア人によって敗死

  • 前655年:エジプトのプサメテク1世が、リディアやイオニア人傭兵らの援助を受け、アッシリアより独立を達成。以後もプサメテクはギリシア人や小アジアのカリア人の傭兵らを用いて勢力を拡大。ペルシウム支流の東側のダフネ(テル・アル=デフェンネ)に要塞を建設し、イオニア人とカリア人の傭兵を定住させた

  • 前650年頃:スキタイ人がリディア王(アッシュルバニパルと結んでいた)からキンメリア人征討の援助を求められ、アッシリアの承認を得てアナトリアに遠征。結果、キンメリア人を破り、ハリュス川までの領域を支配

上図:スキタイ人の版図

出典:Antiquistik, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前633年:アッシリアで内乱が勃発。これを契機として、スキタイ人がシリア・パレスチナに侵入

  • 前630年頃:リディア王国で貨幣が鋳造される

上図:リディアの硬貨

出典:Classical Numismatic Group, Inc. http://www.cngcoins.com, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前625年:メディア王フヴァ・フシュトラ(ギリシア語でキャクサレス)が即位。彼はスキタイ王マドイェスを宴会に招き謀略で殺害、その支配から脱する(メディア王国の再建)

  • 前610年頃:イオニア地方のミレトスが、ナイル・デルタ西部にナウクラティス市の原型となる砦を建設

  • 前610年頃:リディア王アリュアッテスが即位。彼はキンメリア人をアナトリアから追い払い、ハリュス(クズル・ウルマック)川以西までを支配下に

  • 前609年夏:新バビロニア・メディア連合軍によってアッシリア帝国が完全に滅亡

  • 前605年8月1日:新バビロニアのネブカドネザル2世が即位。アリュアッテスはネブカドネザルと講和

  • 前600年頃:アリュアッテスがアナトリア西部のギリシア人都市スミルナを征服し、破壊。こうした征服活動の結果、リディア王国はイオニアのギリシア人諸都市を制圧、アナトリア南西部のリュキアとキズワトナを除くハリュス川以西のアナトリア西部全域への支配権を確立

  • 前590年:ウラルトゥの獲得を目指すメディア王キャクサレスがリディア王国領に侵攻を開始。ハリュス川にまで到達し、リディア軍と交戦

上図:ウラルトゥ王国末期の版図(黄)。

出典:© Sémhur / Wikimedia Commons
  • 前585年5月28日:リディア軍とメディア軍がハリュス川にて交戦中に皆既日蝕(タレスの日蝕)が発生し、驚いた両軍は戦いをやめる(ハリュス川の戦い)。この後、両軍は和平を急ぐ

  • 前585年:ネブカドネザル2世及びキリキアのシエンネ人の仲介で、リディアとメディアが和平条約を締結。両国の境界はハリュス川となり、リディア・メディアは婚姻関係を結ぶ

上図:ネブカドネザル2世統治下の新バビロニアの版図

出典:IchthyovenatorSémhur (base map), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前585年:メディア軍と結んだスキタイの攻撃で、ウラルトゥの首都トゥシュパが陥落。ウラルトゥ王国はメディアに滅ぼされる

  • 前560年:リディア王クロイソスが即位。彼はアナトリア西岸に点在した全てのギリシア都市を征服し、ハリュス川を越えてアナトリア東部にまで進出(リディア王国の最盛期)

上図:この頃のオリエント情勢。黄色部分がリディア王国の版図

出典:Original: User:SzajciEnglish: User:WillemBK, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前556年:将軍ナボニドゥス(ナブー・ナイド)がクーデタによって、ラバシ・マルドゥクから王位を奪って新バビロニア王となる。将軍時代のナボニドゥスはアナトリアに遠征したという

  • 前550年:キュロス2世がメディア王国を滅ぼし、アケメネス朝ペルシアを建国。メディア王アステュアゲスは捕虜となったが、リディア王クロイソスは彼の救出と復位を企てた。これに対し、キュロスは新バビロニアを中立とすることに成功し、キリキアを占領するとともにリディアへの陸路を全て封鎖

  • 前547年:アケメネス朝の拡大に対し、エジプトのアマシス王が新バビロニアやキュレネ、リディア王国やギリシアのスパルタなどと対ペルシア同盟を締結

上図:前547年頃のリディア王国の版図

出典:Ennomus, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前546年:新バビロニアとエジプトからの援助要請を受けたリディア軍がプテリアでキュロス2世率いるアケメネス朝ペルシア軍と対峙、戦闘(プテリアの戦い)。勝敗は決せず、クロイソスは春を待って反撃することを試みサルデスに退却するも、キュロス2世はクロイソスを追撃。都サルデスにてエジプト、バビロニア、スパルタの同盟軍を交えたリディア軍と激突。射手を中央に配した方陣を敷くペルシア軍はリディア側を破った(サルデスの戦い)。この後、2週間の包囲戦を経て、キュロスはサルデスを陥落させ、クロイソスを捕虜とする。これにより、リディア王国は滅亡(前547年説も)。更にキュロスは西に進軍し、アイオリス地方とイオニア地方のギリシア植民市を征服。ミレトスのみがスパルタの支援を受けて抵抗を続けたために、重い罰を与えている。これにより、キュロス2世はアナトリアを掌握

上図:クロイソス。サルデスの戦いでは、ペルシア軍のラクダの匂いでリディア軍の馬が騒ぎ出し、リディア側の攻撃が混乱。それに加えて射手の攻撃で隊列が乱れてしまった。なお、敗北したクロイソスはキュロス2世の側近になったという

出典:Wikipedia

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