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1-27 エジプト末期王朝時代

  • 前671年:ティルスがエジプトの支援を受けてアッシリアに叛乱したため、エサルハドン率いるアッシリア軍がティルスを攻略後、シナイ半島に侵入し、これを占領。デルタ地帯にまで到達し、タハルカ王と約15日間激闘を繰り広げる。最終的にエサルハドンはメンフィスでタハルカ王を撃破し、エジプト王家の王子などを捕らえた。結果、エサルハドンは「エジプトの王」を一時称する。タハルカはナパタにまで逃亡し、アッシリア軍はテーベまで進軍するも、タハルカを捕らえることには失敗。エサルハドンはシリア・パレスチナでの反乱に対処するために、サイスの支配者ネカウ(ネコ)1世(第24王朝の末裔か)に毎年の貢納と引き換えに自治を許すなど、エジプトを小王に分治させる。しかし、後にタハルカがエジプトに帰還し、支配を奪還

上図:新アッシリア帝国の最大版図(前671年)

出典:Wikipedia
  • 前669年:ティルスがアッシリアに背いてエジプトと同盟を結んだため、エサルハドンがティルスを討伐。この後、エジプトへ進軍するも途上で陣没。後継者のアッシュルバニパルは間もなく撤兵

  • 前667年:アッシリア王アッシュルバニパルがエジプトに侵攻し、メンフィスを占領。再びタハルカ王を南に追いやり、タハルカはナパタにまで逃れた。この時にアッシュルバニパルは、ネカウ1世以外の高位の貴族を全員処刑し、テーベの市長メンチュエムハトはアッシリアに降伏。この後、アッシュルバニパルはアッシリアに叛いたティルス王バアル1世を攻撃し、降伏させる

  • 前665年:アッシュルバニパルがネカウ1世と息子のプサメテク1世のエジプトにおける自治権を認める。ネカウ1世をサイスの、プサメテク1世をアトリビスの王とした

  • 前664年:アッシュルバニパルがエジプトに再び侵入

  • 前664年:タハルカ王が死去し、共同統治者であった従兄弟のタヌタマニ(タヌトアメン)王がナパタで即位。彼はアッシリア軍撤退後のエジプトに侵入し、アスワンとテーベを奪回。更にメンフィスのアッシリア軍と対決し、メンフィスをも奪回した。アッシリアを支持する下エジプトの豪族を成敗している

  • 前664年:ネカウ1世が死去し、リビア系エジプト人のプサメテク1世サイスにて即位。アッシリアは彼のエジプト支配を承認し、エジプト第26王朝(サイス朝)が成立。以後、エジプト末期王朝時代となる。なお、当時のテーベでは第25王朝期よりメンチュエムハトが事実上支配

  • 前663年アッシュルバニパルがメンフィス及びテーベを攻略。アッシリア帝国が全エジプトを支配。タヌタマニはナパタに撤退した。この侵攻の際に、テーベが略奪され、アメン大神殿が破壊されている。以後、アッシュルバニパルはエジプトの管理をプサメテク1世に委ねる。プサメテクはサイスとメンフィスを中心に勢力を拡大し、自身の娘とテーベの豪族メンチュエムハトの間に同盟を結ばせる

  • 前656年:タヌタマニが死去し、エジプト第25王朝が終焉。しかし、クシュ王国はヌビアを支配し続ける

  • 前656年:プサメテク1世が娘のニトクリスをテーベの「アメン神の聖妻」シェペンウェペト2世の養女とし、次の「アメン神の聖妻」とする。これにより、上エジプトとテーベを支配下とし、第26王朝がエジプト全土を統一。なお、テーベは前年までタヌタマニ王の治世年を年号としていた

  • 前655年:プサメテク1世が、リディアやイオニア人傭兵らの援助を受け、アッシリアより独立を達成。以後もプサメテクはギリシア人や小アジアのカリア人の傭兵らを用いて勢力を拡大。一方で、エジプト本土の防衛にも注力し、ペルシウム支流の東側のダフネ(テル・アル=デフェンネ)に要塞を建設し、アスワンのエレファンティネには守備隊を駐屯させる。ダフネにはイオニア人とカリア人の傭兵が、エレファンティネにはユダヤ人の傭兵が定住させられた(エレファンティネ島はユダヤ人の軍事植民地に)

上図:プサメテク1世。第26王朝の諸王は古王国の浮き彫りを模倣するなど復古主義政策を採ったが、これらの動きは「サイス・ルネサンス」と呼ばれている

出典:Wikipedia

上図:末期王朝時代のエジプトとヌビア要図

出典:『古代エジプト全史』
  • 前642年:ユダ王マナセがアッシリアに背き、捕らえられる。この後、ユダ王にはアモンが即位

  • 前633年:アッシリアで内乱が勃発。これを契機として、スキタイ人がシリア・パレスチナに侵入

  • 前630年頃:ギリシアのテラ島(サントリーニ島)からの移住者らが、リビアに植民市キュレネを建設。植民指導者のバットスが自身の王朝を樹立

  • 前629年:バビロニア南部の「海の国」の首領ナボポラッサル(カルデア人か)が南パレスチナにまで進軍(~前627年)

  • 前627年:エジプト軍がアシュドドにてナボポラッサルの軍隊を撃退

  • 前626年:スキタイ人がシリア・パレスチナを破壊し、エジプト国境にまで支配領域を拡大

  • 前626年10月26日新バビロニアがアッシリアから独立し、勢力を拡大。これに対し、エジプトはアッシリアと同盟を締結

  • 前621年頃:ユダ王ヨシヤがアッシリアの衰退に乗じて、版図を北に広げ、イスラエルを奪回

  • 前616年:エジプトがアッシリアを支援

  • 前612年:アッシリア帝国の首都ニネヴェが陥落。一部のアッシリア人はハランに逃れる

  • 前611年:アッシリアの残党が集ったハランにてアッシュル・ウバリト2世(アッシリアの貴族)が即位。彼らは帝国西部の属州をいくつか支配しつつ、エジプトのプサメテク1世に援軍を要請

  • 前610年:エジプト王ネカウ2世がアッシリアの残存軍を支援するため、ハランを目指し進軍

  • 前610年:メディア・新バビロニア連合軍がハランを攻撃し、その一部を破壊

  • 前610年頃:イオニア地方のミレトスが、ナイル・デルタ西部にナウクラティス市の原型となる砦を建設

  • 前609年夏:ユダ王ヨシヤがネカウ2世の進軍を妨害。これに対し、ネカウ2世はメギド郊外にて、ヨシヤを敗死させる(メギドの戦い)。ユダ王国を属国とした。富裕な地主らはユダ王にヨアハズ(ヨシヤの子)をつけるも、ネカウはヨアハズをリブラに幽閉し、3ヶ月で退位させる。そして、別の子であるエリヤキム(改名させてヨヤキムとした)を即位させた(ユダはエジプトの属国に)。ヨヤキムはユダ領内で軍事的・政治的権利を与えられていたアム・ハアーレツ(自由民)を弾圧し、エジプトに対して忠誠を示す。一方のエジプト軍は更にカルケミシュやハランにまで侵攻したが、ハラン救援に関しては果たせず、新バビロニアがエジプトの援軍を破る。その後、エジプトの支援を受けたアッシュル・ウバリト2世はニネヴェを2ヶ月間包囲するも、撃退される。以後、アッシュル・ウバリトは消息不明となる。新バビロニア・メディア連合軍によってハランも陥落し、アッシリア帝国は完全に滅亡。しかし、エジプト軍は以後もシリアに残留

上図:ネカウ2世。彼は初めてイオニア系ギリシア人の傭兵からなるエジプト海軍を創設

出典:ブルックリン美術館, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前607年:ネカウ2世がユーフラテス川西岸のキムフで新バビロニアのナボポラッサルと会戦

  • 前605年:新バビロニアの王子ネブカドネザルがシリアに遠征。シリアにまで進出していたエジプト軍(アッシリアの残党軍と合流)をカルケミシュで破る(カルケミシュの戦い)。更に新バビロニアは退却するエジプト軍を追撃し、ハマトで破る。これにより、新バビロニアはシリア・パレスチナの支配を一部確立

  • 前605年8月1日ネブカドネザル2世が新バビロニア王となる

  • 前605年:エジプト王ネカウ2世の勧めで、フェニキア人がアフリカを時計回りに周航

  • 前604年:ネブカドネザルがシリア・パレスチナに数次にわたる遠征を開始(~前601年)。シリアにてネカウ2世を破り、パレスチナを南下、ペリシテ地方のアシュケロンを占領する。アシュケロンやエクロン、アシュドドやティムナなどのペリシテ地方の諸都市は恐らくこの時に破壊されたと考えられている(エジプトと結びつきの強いペリシテ地方を消滅させることが狙いであったか)。また、この時にユダ王ヨヤキムが新バビロニアに臣従したと考えられている。ネブカドネザルはパレスチナからエジプト勢力を一掃すると、更にエジプトの川にまで到達し、エジプト軍を南方まで追撃した

  • 前601年:新バビロニア王ネブカドネザル2世のエジプト侵攻軍をエジプト軍が東デルタの国境線で迎撃。更にフィリスティヤ南部にて、エジプト軍が新バビロニア軍を撃破。結果的に新バビロニアによるエジプト遠征は失敗に終わった。これを受けて、ユダ王ヨヤキムが叛乱を宣言し、エジプトと結ぶ

  • 前599年:ネブカドネザルがシリア・パレスチナ諸国及びアラブ遊牧民に対する遠征を開始(~前598年)

  • 前598年12月:ネブカドネザル2世が西方遠征を開始し、ユダ王国のイェルサレムを目指す。新バビロニア軍はネゲヴの重要都市アラドを破壊し、イェルサレムを包囲。この包囲戦の最中に、ユダ王ヨヤキムが死去したか(殺害されたとも)。なお、この頃の新バビロニアにはティルスやガザ、シドン、アルワドやアシュドドらが服属していた

  • 前597年3月16日:ネブカドネザル2世がイェルサレムを陥落させ、ユダ王国の王ヨヤキンや有力者らをバビロンに連行(第1次バビロン捕囚)。ユダ王国は新バビロニアに臣従

  • 前592年:エジプト王プサメテク2世がクシュ王国を制圧するために第3急湍付近にまで遠征。おそらくこの遠征が原因で、クシュ王国は首都を第5急湍より南のメロエへと移す(以後のクシュ王国はメロエ王国とも呼ばれる)。南方遠征にはギリシア人、フェニキア人、カリア人の傭兵が用いられており、アマシスがエジプト人の軍団を率いる将軍として参加している。他にもユダ王国の兵士もヌビア遠征に派遣されており、これはユダとエジプト両王の間の密約の一部であったか

上図:プサメテク2世。彼は全ての記念碑からヌビアのエジプト支配者の名を削除させた

出典:Wikipedia
  • 前591年:エジプト軍がユダ王ゼデキアを支援するために、南パレスチナに向かう。これにより、ユダ王国の新バビロニアへの反抗が活発に

  • 前589年2月:エジプト王アプリエス(ウアフイブラー)が即位。彼はキプロス、フェニキアに軍事遠征を実施。一方で、アスワンの駐屯軍が反乱を起こしたためにこれを鎮圧

上図:アプリエス王

出典:ルーヴル美術館, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前589年:ユダ王ゼデキアがエジプトの教唆でエドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの諸王らと共に反バビロニアの陰謀を企て、新バビロニアに叛乱。ゼデキヤは再びエジプトの属王となり、イェルサレムに籠城する

  • 前588年:ネブカドネザル2世がユダ王国領に侵攻し、ラキシュ、アゼカ、イェルサレム以外のほぼ全域を制圧

  • 前588年1月15日:新バビロニア軍がイェルサレムを包囲。これに対し、アプリエスは自ら出兵。エジプト軍接近の噂によって、イェルサレムの包囲は一時解かれるも、再度包囲される

  • 前587年:アプリエスの軍が新バビロニアに大敗し撤退

  • 前587年7月19日:新バビロニアのネブカドネザル2世がイェルサレムを攻略。ユダ王国を滅ぼし、第2次バビロン捕囚を行う

  • 前573年:ドーリア系ギリシア人の侵入軍に対し、リビアを支援するためアプリエス王がギリシア人植民都市キュレネに遠征するも大敗

  • 前573年頃:ティルス王エトバアル3世が新バビロニア軍の攻囲を受けて降伏。王や王族らはバビロニアに送られた。この後、おそらくネブカドネザルの傀儡であるバアル2世がティルス王となる。また、ネブカドネザルはエジプトのデルタ地方にまで進軍したと考えられている

  • 前570年:戦争に大敗し続けるアプリエスに対し、兵士が反乱を起こす。エジプト人の軍と傭兵部隊との間で内戦に発展。反乱鎮圧のために王は将軍アマシスを派遣するも、却ってアマシスが反乱軍のリーダーとなり、王位を簒奪(イアフメス2世)。アプリエスは北に逃れた。なお、アマシス王はキュレネ出身のギリシア人女性を妃とし、ギリシア商人のためにデルタ地帯にて植民市ナウクラティスの建設を許可した

上図:アマシス王

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前570年:エジプトから逃れたアプリエスが新バビロニア軍の支援を受けて、王位奪還を図る戦いを行うも、その最中にアマシス王に敗死

  • 前562年:ネブカドネザル2世が死去。以後、新バビロニアでは王位継承をめぐり国内が分裂

  • 前553年:新バビロニアのナボニドゥス王がシリアに遠征し、ガザを占領。また、エジプトを牽制するためにアラブ遊牧民に遠征した

上図:この頃のオリエント情勢

出典:Original: User:SzajciEnglish: User:WillemBK, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前550年:キュロス2世がメディア王国を滅ぼし、アケメネス朝ペルシアを建国

  • 前547年:アケメネス朝の拡大に対し、アマシス王が新バビロニアやキュレネ、アナトリア西部のリディア王国やギリシアのスパルタなどと対ペルシア同盟を締結

  • 前546年頃:新バビロニアとエジプトからの援助要請を受けたリディア軍がキュロス2世の軍と激突。リディアは敗れ、キュロス2世がリディアを滅ぼす

  • 前539年10月12日:アケメネス朝ペルシアのキュロス2世がバビロンを無血開城させ、新バビロニアを滅ぼす

  • 前525年カンビュセス2世率いるアケメネス朝ペルシア軍がエジプト領に侵攻を開始し、ペルシウムにてプサメテク3世率いるエジプト軍を破る(ペルシウムの戦い)。ペルシア軍にはエジプトから亡命した傭兵将軍ファネスが助言していたという。プサメテクはメンフィスに逃れるも、ペルシア軍はメンフィスを攻略。これに対し、サイスのネイト神殿の神官ウジャホルレセネトがペルシアに寝返った。結果、プサメテク3世は処刑され、第26王朝は滅亡。エジプトはアケメネス朝の属州となり、カンビュセスがエジプト王となる(エジプト第27王朝)。アケメネス朝はエジプトを国王の代理人に支配させた。なお、カンビュセスはエジプト征服の後、カルタゴや南方のエチオピア(クシュ)、更に西部のシバ・オアシスへの遠征を企てるも、カルタゴ遠征はフェニキア人の拒絶によって頓挫。クシュ遠征では兵糧不足に陥り失敗し、シバ・オアシスへの遠征はリビア砂漠を横断中に砂嵐の中に軍団が消滅したことで失敗した

  • 前522年:ペルシア本国で内乱が発生。そのため、カンビュセスは急ぎ本国に帰還を試みるも、途上のシリアで自殺。後継としてダレイオス1世が即位

  • 前521年:ペルシア帝国の混乱に乗じて、リビア人のパディバステト3世がエジプトの一部を支配下に収めるも、ダレイオス1世がこれを鎮圧。この時、ペルシア軍の捕虜であったプサメテク3世が反乱を支援したとして処刑された。なお、ダレイオスは帝国全土にサトラップという属州知事を設置している

上図:アケメネス朝の最大版図

出典:Kaiser&Augstus&Imperator, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前490年:アケメネス朝軍がマラトンの戦いでギリシアに敗北

  • 前486年:アケメネス朝がマラトンの戦いで敗北したことを受けて、デルタ地方にてエジプトが反乱を起こす。ダレイオス1世はそれを鎮圧する準備中に没する

  • 前484年:ペルシア王クセルクセス1世がエジプトのデルタ地方の反乱を厳しく鎮圧するも、その治世にはエジプトで頻繁に反乱が起こる

  • 前465年:クセルクセス1世が暗殺され、ペルシア王アルタクセルクセス1世が即位

  • 前460年:ペルシア人サトラップのアケメネスの統治が苛酷であったためにエジプトで反乱が勃発。リビアの豪族イナロス(プサメテク3世の子)とサイスのアミルタイオスがサトラップの駐留軍を破り、アテネ艦隊の援軍を得て勢力を拡大

  • 前456年:ユーフラテス川西部のアバル・ナハルの総督がエジプトを侵略

  • 前454年:エジプト反乱を支援するために派遣されていたアテネ軍が壊滅。ペルシア本国からの軍隊によってイナロスが捕らえられ、処刑される。これにより、エジプトの反乱は鎮静化

  • 前450年頃:エジプトのユダヤ人植民者がエレファンティネ島にて軍事植民団を形成

  • 前449年:アテネがペルシアとカリアスの和約を結ぶ

  • 前415年:サイスの豪族アミルタイオス(アメンイルディスウ)がペルシアに反乱を起こす

  • 前410年:エジプト人がペルシアの総督アルシャムが召還された隙に反乱を起こす

  • 前407年6月頃:エレファンティネ島のクヌム神殿の神官らが、エレファンティネの砦の司令長官ビダラナグと策謀をめぐらし、島にあったヤハウェの神殿を破壊

  • 前404年:サイスのアミルタイオスがスパルタの支援を受けて、独立に成功。王として即位し、エジプト第28王朝を創始

  • 前399年:東部デルタのメンデスを根拠地とするネフェリテス(ナイエフアアウルウジュウ)1世がアミルタイオスを追放し、エジプト第29王朝を創始(メンデスを首都とする)。彼は土着のエジプト人による王朝復興を目指しつつ(サイス朝の再興者と自称)、スパルタと同盟。スパルタに食料を送るなど、スパルタの対ペルシア戦争を支援

  • 前393年:ネフェリテス1世が死去。この後の1年間、彼の息子と簒奪者プサムティスとの間で内紛が続く

  • 前393年:ネフェリテス1世の子と簒奪者プサムティスがアコリス(ハコル、ハコリス)に敗北。アコリスはエジプト王に即位。彼はキプロス島のサラミスの僭主エウアゴラスと反ペルシア同盟を締結するも、後にキプロスは離反してペルシア側と同盟を結んだため、カブリアス率いるアテネの傭兵隊を用いてペルシア軍の侵攻を撃退。また、この時に傭兵隊への報酬のために初めてエジプトで貨幣が鋳造されている

  • 前389年:アコリス王がアテネと条約を締結

  • 前387年頃:ギリシアでの内紛によって、エジプトとアテネの条約が破綻

  • 前386年:ペルシア王アルタクセルクセス2世がギリシア諸都市と講和条約を締結(「大王の和約」「アンダルキダスの和約」)。小アジアとキプロスをペルシアに服属させる代わりに、その他のギリシア諸都市に自由独立を与える。これにより、ギリシアとペルシア間の争いは鎮静化

  • 前385年:アコリス王が脱走したギリシア人傭兵を主力とし、ペルシア側に幾度か反攻を試みる。アルタクセルクセス2世はエジプト奪回を試みるも失敗(~前383年)

  • 前380年:軍人ネクタネボがクーデタによってネフェリテス2世を退け、エジプト第30王朝を創始。ネクタネボ1世(ネケトネブエフ)として即位した。彼はデルタ地帯の北東に要塞を建設。ネクタネボの治世中にはペルシアとギリシアの連合軍がデルタのペルシウムを迂回して、メンデスに侵攻、ネクタネボは敗北した。しかし、連合軍が内部対立で分裂したためにメンフィスへの侵攻が遅滞。この隙にネクタネボは体勢を立て直し、連合軍をエジプトから駆逐した

上図:ネクタネボ1世

出典:Luis García, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前362年:エジプト王テオス(ジェドホル)が即位。彼はペルシアに対する小アジアの反乱を支援。更にギリシア人の傭兵を雇い、シリアに遠征。フェニキアとシリアでペルシア軍と戦うも敗北。更に、傭兵の雇用のために重税を課したため人心を失った

  • 前360年:テオス王の留守中に、王の甥ネクタネボ2世(ネケトホルヘブ)が離反し、王として即位。彼の治世の最初の8年間はペルシア側が内紛で混乱していた

  • 前351年:ペルシア王アルタクセルクセス3世がエジプト侵攻を行うも、ネクタネボ2世がこれを撃退。これに対し、ギリシアの諸都市がペルシアに再挑戦し、当初は成功を収める

  • 前351年:シドンがエジプトと結び、ペルシアに反乱。フェニキア諸都市も同調したとみられる。これに対し、ペルシア王アルタクセルクセス3世はシドンを攻撃・蹂躙。ティルスなどの他のフェニキア諸都市はこの攻撃を受けて降伏したらしい

  • 前343年:アケメネス朝のアルタクセルクセス3世がエジプトに侵攻。ネクタネボ2世はペルシウムに多数のギリシア人傭兵を含むおよそ10万の軍隊を設置。ペルシア側はギリシア人将軍が側面を迂回して、エジプトを攻撃したことで、ペルシウムを攻略。さらにメンフィスも陥落させたため、ネクタネボ2世は上エジプトに逃れた

  • 前341年頃:ネクタネボ2世がヌビアに逃れる

  • 前341年:アケメネス朝のアルタクセルクセス3世の軍隊がネクタネボ2世を捕らえ、第30王朝は滅亡。エジプトは再びペルシアの一部となる(エジプト第31王朝)

上図:ネクタネボ2世。中世の伝説では、ネクタネボはマケドニアの宮廷へと亡命し、マケドニア王フィリッポス2世の妃オリュンピアスと密通、アレクサンドロス大王の父となったという

出典:Photograph by Rama, Wikimedia Commons, Cc-by-sa-2.0-fr, CC BY-SA 2.0 FR <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.0/fr/deed.en>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前334年春:マケドニアのアレクサンドロス3世がアケメネス朝ペルシアに対して東方遠征を開始

  • 前332年11月頃マケドニアアレクサンドロス3世がペルシア軍を駆逐し、エジプトの軍事拠点ペルシウムに入る。サトラップのマザケスは抵抗せずに降伏し、アレクサンドロスがエジプト全域を掌握。これにより、エジプト末期王朝時代は終焉。エジプト人はアレクサンドロスをペルシアからの解放者として迎えた

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