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1-31 イシン第2王朝とその後のバビロニア

  • 前1158年頃:エラム王シュトルク・ナフンテ1世が、アッシリアの内紛に乗じてバビロニアに侵攻し、バビロンをはじめとするバビロニア諸都市が占領。シッパルから『ハンムラビ法典』碑や「ナラム・シン王の戦勝碑」が掠奪され、スサに運ばれる

上図:メソポタミア要図

出典:『古代オリエント全史』
  • 前1157年頃:マルドゥク・カビト・アッヘシュがイシンでイシン第2王朝(バビロン第4王朝)を樹立

  • 前1155年頃:エンリル・ナディン・アヒ統治下のカッシート王朝がエラムの攻撃によって滅亡。エラムの王子クティル・ナフンテ2世はバビロンを攻撃し、エンリル・ナディン・アヒ王とマルドゥク神像を捕囚。これにより、エラムはオリエント世界最大の軍事勢力となる(エラムの最盛期)。なお、イシン第2王朝もエラムの攻撃を受ける

  • 前1150年頃:エラム王シルハク・インシュシナクが即位。バビロニアからアッシリアにまで侵攻し、イラン高原の北方までを支配下とする

  • 前1139年頃:イシン王イッティ・マルドゥク・バラトゥが即位。彼はバビロンを首都とし、カッシート王朝の支配領域をほぼ支配下とする

  • 前1133年頃:ニヌルタ・トゥクルティ・アッシュルが、イシン第2王朝の保護のもとに、アッシュル・ダン1世からアッシリア王位を簒奪。しかし、ムタッキル・ヌスフ(アッシュル・ダン1世の子)が王位を奪還する

  • 前1131年頃:イシン王ニヌルタ・ナディン・シュミが即位。彼はアッシリアに侵攻し、アッシリア王アッシュル・レシュ・イシ1世と戦う

  • 前1120年頃:イシン王ネブカドネザル1世(ナブー・クドゥリ・ウツル1世)がバビロニアからエラム勢力を駆逐。エラムに攻め込み、スサを支配し、マルドゥク像を奪還。彼は馬で引く戦車隊を用いていた

    • ネブカドネザル1世とアッシリアの抗争

      • ネブカドネザルがアッシリアにも攻め込み、北方に追撃して首都アッシュルを攻略。しかし、おそらく他のアッシリアの城塞攻略には2度試みたが失敗。だが、アッシリアの実質的な支配には成功

上図:ネブカドネザル1世

出典:Wikipedia
  • 前1115年頃アッシュル・レシュ・イシ1世が死去。彼はイシン王ネブカドネザル1世の支配を脱し、「諸国の征服者」となる

  • 前1100年頃:遊牧民集団アクラムの内のアラム人が主導権を掌握。彼らはイシン第2王朝時代の飢饉を契機として、メソポタミアにまで大挙侵入を開始し、ハブル川流域に定住

  • 前1099年頃:イシン王マルドゥク・ナディン・アッヘが即位。治世初期にはアッシリアに侵攻し勝利。しかし、治世後半にはアッシリア王ティグラト・ピレセル1世と戦い敗北、バビロンを攻略され、バビロンの王宮は炎上。こうして、ティグラト・ピレセルはバビロニア北部を征服したが、南部の支配は叶わず。この直後、メソポタミアで大飢饉が起こる

  • 前1082年頃:アラム人がバビロニアに大挙侵入。混乱の中、イシン王マルドゥク・ナディン・アッヘは消息不明に。これ以降、イシンとアッシリアとの友好関係が保たれる(アラム人、カルデア人が流入してきたことによる脅威が要因か。カルデア人はアラム人と同じセム語族とされるが特定できない)

  • 前1077年頃:アラム人が北シリア、メソポタミア、バビロニアに侵攻。結果、肥沃な三日月地帯の主要部を占領した。アッシリアはティグラト・ピレセル1世の治世末に発生した大飢饉の影響もあり、衰退。領土はティグリス川流域周辺にまで縮小

  • 前1076年頃:ティグラト・ピレセル1世が殺害される。以後、アッシリアは短期間に王の交替が起こり、衰退

  • 前1050年頃:バビロニア南部に、アラム系のカルデア人が移住。ウルク近郊にビート・アムカニ、バビロン近郊にビート・ダクリ、ウル及び沼沢地付近にビート・ヤキンなどの部族が定住

上図:オリエント及びメソポタミア要図

出典:『古代メソポタミア全史』
  • 前1026年頃:アラム人の侵入などによって衰退していたイシン第2王朝が滅亡。ナブー・シュム・リブルが最後の王であった

  • 前1025年頃:バビロニアにて、シムバル・シクが海の国第2王朝(バビロン第5王朝)を創始

  • 前1005年頃:海の国第2王朝が滅亡。最後の王はカッシュウ・ナディン・アヒ

  • 前1004年頃:エ・ウルマシュ・シャキン・シュミが即位し、バビロニアにてバジ王朝(バビロン第6王朝)が成立。バジはティグリス川東方にあったか

  • 前986年頃:バビロニアのバジ王朝が滅亡。最後の王はシンリクティ・シュカムナ

  • 前985年頃:バビロニアにて、マル・ビティ・アプラ・ウスルがエラム王朝(バビロン第7王朝)を創始。この頃にはアラム人がバビロニア地方に侵攻し、諸都市を掠奪

  • 前980年頃:マル・ビティ・アプラ・ウスルが統治したエラム王朝が滅亡

  • 前979年頃:バビロニアにて、ナブ・ムキン・アプリがE王朝(バビロン第8王朝)を創始、長期政権となる。しかし、この頃のバビロンはアラム人によって孤立させられており、南部と東部に定着したアラム系諸部族の軍事行動を王朝は十分に抑制できず

  • 前934年頃:アッシリア王アッシュル・ダン2世が即位。以後、新アッシリア時代となる(新アッシリア帝国

  • 前930年頃:アッシリアとバビロニアがこの頃から前904年頃までに2度衝突

  • 前911年:アッシリア王アダド・ニラリ2世が即位。彼はバビロニアの領土を奪い、アラム人への反撃を続行

  • 前904年頃:バビロニアがアッシリアの属国に

  • 前890年:アッシリア王トゥクルティ・ニヌルタ2世が即位。彼はバビロンと対立

  • 前851年:バビロニア王マルドゥク・ザキル・シュミ1世が即位。しかし、即位直後には内乱が勃発。アッシリア王シャルマネセル3世は、マルドゥク・ザキル・シュミを助ける目的でバビロニアに遠征し、バビロニアの宗主権を獲得

  • 前850年:シャルマネセルが再びバビロニアに遠征。内乱の鎮圧に成功する。シャルマネセルはマルドゥク・ザキル・シュミと条約を結んでいる

上図:シャルマネセル3世と握手をするマルドゥク・ザキル・シュミ1世(左)

出典:Osama Shukir Muhammed Amin FRCP(Glasg), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で

上図:新アッシリア帝国の版図拡大

出典:『古代メソポタミア全史』
  • 前824年:シャルマネセル3世が死去。王の末年から息子らの間で王位継承争いがあり、王の没後には内乱が勃発。以後、アッシリアは縮小の時代に突入

  • 前823年:アッシリア王シャムシ・アダド5世が、王位継承争いを勝ち抜いて即位

    • シャムシ・アダド5世の統治

      • シャムシ・アダドの治世初めにはバビロニア王マルドゥク・ザキル・シュミ1世の援助を受けて王子の叛乱を鎮圧。マルドゥク・ザキル・シュミはシャムシ・アダドと新条約を結び、アッシリアに対して優位な立場を築く(後にシャムシ・アダドはバビロニアに軍事遠征を繰り返し、勢力を拡大)

      • シャムシ・アダドの治世からアッシリアの内政が混乱し、勢力は衰退

  • 前810年:アッシリア王アダド・ニラリ3世が即位。彼の治世には、再びアッシリアがバビロニアの宗主権を得た

  • 前783年:アダド・ニラリ3世が死去。国内は分裂し、疫病の流行もあって、アッシリアの国力は衰退

  • 前745年:ナブ・ナツィルが統治するバビロニアのE王朝が、アッシリア王アッシュル・ニラリ5世の侵攻を受けて、アッシリアの宗主権を認める

  • 前744年:アッシリア王ティグラト・ピレセル3世が即位。彼の治世から新アッシリア帝国は勢力を取り戻す(帝国期の幕開けとも)

  • 前732年:バビロニア王ナブ・シュマ・ウキン2世が即位するも、1ヶ月でその治世は終わり、E王朝が滅亡

  • 前731年:アラム人のナブ・ムキン・ゼリがバビロニア王に即位し、バビロン第9王朝を創始。彼はアッシリアに反抗した

  • 前729年:アッシリア王ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを破り、属州とする

  • 前728年ティグラト・ピレセル3世が自らバビロニア王を兼ね、プルと名乗る(~前727年)。結果、ザグロス山脈からアナトリア南部、地中海沿岸、更にはエジプト国境にまで至る大帝国の建設に成功した

上図:ティグラト・ピレセル3世の版図

出典:Joelholdsworth, CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前726年:アッシリア王シャルマネセル5世が即位。引き続き、バビロニアを支配(ウルライアという王名で君臨)

  • 前721年:カルデア人部族であるビート・ヤキンの首領メロダク・バルアダン2世(マルドゥク・アプラ・イディナ)がバビロンに入城。サルゴンの軍を破り、エラムと同盟を結びバビロニアを掌握。事実上のバビロニア王となる。一方で、大都市に重税を課したことからメロダク・バルアダンは人気を失っていく

上図:メロダク・バルアダン2世

出典:Wikipedia
  • 前710年:サルゴン2世がバビロニアに遠征し、メロダク・バルアダン2世を破る。バビロン入城を果たし、バビロニアの支配権を奪還。メロダク・バルアダン2世は逃亡した。サルゴンはバビロニアに配慮し、バビロニア総督を名乗る

  • 前703年:バビロニアにメロダク・バルアダン2世が帰還し、バビロニア王として、エラムと結びアッシリアに対抗。しかし、アッシリア王センナケリブはメロダク・バルアダン2世とエラムの連合軍をキシュの平原で破る

  • 前703年:センナケリブがバビロンの宮殿を略奪し、バビロニアの75の要塞都市、420の小都市を陥落させたと豪語した。結果的にメロダク・バルアダンは在位9ヶ月で敗北し、逃亡した。バビロンからはマルドゥク像が持ち去られ、ウルク、ニップル、クタ、シッパルにて反逆したアラブ人、アラム人、バビロニア人は連行されたという

  • 前702年:アッシリアの傀儡ベル・イブニがセンナケリブの援助を受けてバビロニア王となる

  • 前701年:メロダク・バルアダン2世が再びバビロニアに出現するも、アッシリア軍の追撃によってエラムに逃亡

  • 前700年:バビロニア王ベル・イブニがアッシリアに反乱。センナケリブはこれを退ける

  • 前699年:センナケリブが長男アッシュル・ナディン・シュミをバビロニア王とする。アッシュル・ナディン・シュミは南部の反乱を鎮圧した

  • 前694年:バビロニアで反乱が起こり、反乱者がアッシュル・ナディン・シュミをエラム軍に引き渡す。バビロンはエラム軍に攻略された。この後、センナケリブは末子のエサルハドンを後継者とするも、他の息子らが反発

  • 前694年:センナケリブがエラムに侵攻し、諸都市を掠奪

  • 前693年:カルデア人のネルガル・ウシェジブがバビロニア王に即位。エラムはカルデア人と同盟を結び、ディヤラ川のハルレでアッシリア軍と激突するも、エラム・カルデア同盟軍は敗北(ハルレの戦い)。ネルガル・ウシェジブはニップルでアッシリア軍に敗北し、捕らえられる。しかし、アッシリア軍も多くの犠牲を払ったために、センナケリブは戦闘を一時中断

  • 前692年:カルデア人のムシェジブ・マルドゥブがバビロニア王に即位。カルデア人、アラム人、エラム人の援助を受ける

  • 前691年:バビロン軍がセンナケリブの軍を破る(カルカルの戦い)

  • 前689年:アッシリア王センナケリブが挙兵。エラム軍を破り、バビロニア支配を回復。エラム王の死をセンナケリブが知ったことが挙兵のきっかけであった。センナケリブは9ヶ月の攻囲戦の果てにバビロンを破壊。運河の流れを変えてバビロンに放水した。バビロン攻略後、センナケリブはマルドゥク神像を持ち去っている

  • 前688年:センナケリブがバビロニア王を兼ねる

  • 前681年:センナケリブ王が暗殺される

  • 前680年:エサルハドンが父王を殺害した反逆者勢力を一掃し、アッシリア王に即位。彼はバビロニア王でもあり、バビロニア及びエラム人と和睦を結んだ。また、マルドゥク神像を帰還させてバビロンの再建にも着手し、バビロニアに対して融和的な姿勢をとる。一方、エサルハドン王はその治世中に、かつてのバジ王朝の拠点と考えられるバジを攻撃したか

  • 前672年:エサルハドンが王位継承に関する誓約儀礼を行う。アッシュルバニパルをアッシリア王に、シャマシュ・シュム・ウキン(おそらくアッシュルバニパルの異母兄弟で、シャマシュ・シュム・ウキンの方が年上であったか)をバビロニア王とすることを誓わせた

上図:新アッシリア帝国の最大版図(前671年)

出典:Wikipedia
  • 前668年:アッシリア王アッシュルバニパルが即位

  • 前667年:バビロニア王シャマシュ・シュム・ウキンが即位。アッシュルバニパルが即位させたという形をとっており、バビロニアはアッシリアに従属。アッシュルバニパルはバビロニアにスパイまで送って内政干渉を図る

  • 前664年:テプティ・フンバン・インシュシナク(テウマン)がエラム王に即位。彼はエラム全土を統一した

  • 前653年:アッシュルバニパルがエラム遠征を実施。エラム軍をウライ河岸のティル・トゥーバにまで追い詰め、テウマンとその子タンマリートゥを打倒し殺害(ティル・トゥーバの戦い。ウライ川の戦いとも)。この後、エラムは2つに分割され、アッシリアの属国となる

  • 前652年:バビロニア王シャマシュ・シュム・ウキンがアッシリアに叛乱(兄弟戦争)。バビロニア側を「海の国」の首領ナブー・ベール・シュマティ(メロダク・バルアダン2世の孫)らカルデア人とアラム人の諸部族、エラム王フンバン・ハルタシュ3世、西方のアラブ人諸部族(シリア・アラビア砂漠の遊牧民)が支援。アッシュルバニパルはウル、ウルク、エリドゥなどのバビロニア南部の諸都市を味方につけることに成功

  • 前651年:アッシリア軍がニップルを占領

  • 前650年:アッシリア軍がバビロン、ボルシパ、クタ、シッパルなどの都市を包囲

  • 前648年アッシュルバニパル率いるアッシリア軍によって、バビロンが陥落。バビロンは炎上し、シャマシュ・シュム・ウキンは死去。バビロニアはアッシリアのもとに戻るも、ナブー・ベール・シュマティはエラムに逃亡。以後もアッシュルバニパルはアラブ討伐のために、長期の遠征に出立。やがて残存したバビロニアの反アッシリア勢力は降伏した

  • 前647年:バビロニア王としてカルデア人の代官カンダラヌが即位

  • 前647年:アッシュルバニパルがエラムに侵攻

  • 前646年:アッシリアがエラムを崩壊させる

  • 前639年:アッシュルバニパルがエラム軍を破り、スサなどのエラム諸都市を破壊。これにより新エラム王国は滅亡。エラム人をアッシリアに強制連行した

    • 戦争の原因

      • アッシリアのエラム侵攻のきっかけは、エラム王フンバン・ハルタシュ3世がナブー・ベール・シュマティを匿い、反アッシリア勢力を結集させようとしたことであった

      • フンバン・ハルタシュはアッシリアからナブーの引き渡しを要求されるも、ナブーが自害を選んだために、彼の遺体をニネヴェに送った。しかし、アッシリアはエラムを許さなかったためにアッシュルバニパルの遠征を招いた

  • 前633年:アッシリアで後継者を巡り、アッシュルバニパルの4人の息子の間で内乱が勃発

  • 前629年:カルデア人がバビロンを占領

  • 前629年:バビロニア南部の「海の国」の首領ナボポラッサル(カルデア人か)が南パレスチナにまで進軍(~前627年)。ナボポラッサルはウルク知事の子であったが、反乱を起こしウルクを追放されたとも

  • 前627年:アッシュルバニパルが死去

  • 前627年:バビロニア王カンダラヌが謀反を起こした果てに死去。以後、1年間バビロニア王位が空位に

  • 前627年:エジプト軍がアシュドドにてナボポラッサルの軍隊を撃退

  • 前627年9月:ナボポラッサルがアッシリア軍とニップルで激突し、ウルクにまで撤退

  • 前626年:メディア人がアッシリアの首都ニネヴェを攻撃

  • 前626年:ナボポラッサルがウルクにてアッシリア・ニップル連合軍を撃破

  • 前626年9月:ナボポラッサルがバビロン近郊でアッシリア軍を撃破し、バビロンを掌握

  • 前626年10月26日ナボポラッサルがバビロニア王に即位し、新バビロニア王朝(カルデア王朝、バビロン第11王朝)を樹立(首都はバビロン)。アッシリアからの独立を宣言した

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