1-26 エジプト新王国時代までのヌビア
前3500年頃:ヌビア各地に小国家が成立していたか
前3000年頃:ナルメル王がエジプト第1王朝を創始(初期王朝時代の始まり)
前3000年頃:エジプトのアハ王が第1急湍地方に遠征隊を派遣。ヌビアには何度か戦争を仕掛けている
前2975年頃:エジプトのジェル王がヌビアの第2急湍のワディ・ハルファ付近にまで遠征隊を派遣。ヌビアへの遠征では船も用いられており、敵が船から海に投げ込まれている様子が記されている。この遠征は交易目的でもあったが、奴隷獲得も目的の一つであった
前2700年頃:エジプト第2王朝のカセケムイ王がヌビアに侵攻
前2686年頃:ジェセル王がエジプト第3王朝を創始(以後、エジプト古王国時代)。ジェセルは第1急湍のアスワン付近まで版図を拡大し、エジプトの南境を画定
前2613年頃:エジプト第4王朝が始まる。初代王はスネフェルで、彼はヌビアに遠征を行った。また、ヌビアのブーヘンはスネフェル王の治世から植民地化された
前2589年頃:エジプト第4王朝のクフ王が即位。ピラミッドを建設するなど、古王国時代最盛期を創出
前2500年頃:第3急湍南郊のケルマに人々が定住を始める。やがて、彼らがクシュ王国を建設
前2487年頃:エジプトのサフラー王が即位。彼は紅海沿岸の南方、現在のエリトリア周辺にあった国プントへの最初の遠征隊を派遣
前2345年頃:エジプト第6王朝が成立。第6王朝期にはヌビアに対して、軍事と交易を目的とする遠征隊が派遣された
前2287年頃:エジプト王メルエンラー1世が即位。メルエンラー1世はアスワンにて、ヌビアの首長らの臣従を獲得。3度にわたってヌビア首長国最南端のイアムに向けて交易遠征隊が派遣された
前2278年頃:エジプト王ペピ2世が即位。治世当初にはアスワン知事ハルクフによる南スーダンへの遠征が4度行われており、第2急湍にまでエジプトの勢力が及ぶ。しかし、彼の代に中央集権体制の崩壊は加速。プント遠征のための船を建造していた官僚が遊牧民に殺害される事件も発生し、ヌビアでの反乱を鎮圧するために遠征隊が派遣される
前2181年頃:ペピ2世が死去し、エジプト第6王朝が終焉。古王国時代も終わり、エジプトでは州侯が割拠(第1中間期)
前2042年頃:エジプト第11王朝のメンチュヘテプ2世の治世にアビュドスで反テーベ王朝の反乱が発生。メンチュヘテプは反乱の鎮圧を開始し、第10王朝と第11王朝の戦争が再発。第10王朝のメリカラー王に対して、メンチュヘテプ2世は下ヌビアの傭兵を用いつつ有利に戦闘を展開
前2035年頃:メンチュヘテプ2世がエジプトを再統一。以後、エジプト中王国時代が始まる。この後にメンチュヘテプは、第ニ急湍までの下ヌビアや紅海に通じるワディ(涸谷)を確保し、ヌビアやプントまで交易遠征隊を派遣
前2017年頃:メンチュヘテプ2世が第1急湍の南にあるアビスコに遠征。他にも王はシャッタ・アル=リーガルにも遠征しており、その際には宰相アクトイを伴っている
前1997年頃:エジプト王メンチュヘテプ3世がプントに遠征隊を派遣
前1985年頃:アメンエムハト1世がエジプト第12王朝を創始。王はナイル川を遡り、抵抗していた州侯ら、アジア人やヌビア人を制圧
前1966年頃:アメンエムハト1世が長男のセンウセレト1世を共同統治者とする。センウセレトは採石のための遠征隊を派遣しつつ、下ヌビア征服を目指した遠征などを実施
前1947年頃:センウセレト1世がヌビアに遠征
前1939年頃:センウセレト1世がケルマを首都とするクシュ王国に遠征し、第2急湍を越えて進軍、第3急湍にまで到達した。結果、セムナ以北の下ヌビアを初めてエジプト領とする(第2急湍は船の通行が困難なため、天然の要害となっている)
この後のエジプトの政策
セムナ、ブーヘン、クバン、アニバ、イックルなどに少なくとも13の要塞を建設し、守備隊を駐屯させる。これらの要塞の司令部はブーヘン城にあったと考えられ、ヌビア総督の居城であったか
前1884年頃:エジプト王アメンエムハト2世がプント国に遠征隊を派遣
前1877年頃:エジプト王センウセレト2世が即位。彼の治世には、侵略活動はあまり行われず。しかし、プントや採石場には遠征隊が派遣されている。また、ヌビアの諸部族が王の治世に北上を開始
前1863年頃:クシュ王が再び北進を開始。これに対し、エジプト王センウセレト3世は第1急湍付近に軍船のための水路を掘り、この年に遠征を行う
前1861年頃:センウセレトによる2度目の対クシュ遠征
前1855年頃:センウセレトによる3度目の対クシュ遠征
前1852年頃:センウセレトによる4度目の対クシュ遠征。結果、セムナ以北がエジプト領であることをクシュ王に再確認させる。セムナ南、クンマ、ウロナルティ、ミルギッサからブーヘンまでといったナイル川流域に多くの要塞を新設・増強
前1773年頃:エジプト第13王朝が成立。セベクヘテプ1世とその後継の2代目王アメンエムハト・セネブエフの治世まではエジプト全土から第2急湍までを支配
前1732年頃:この頃、第13王朝の王ネフェルヘテプ1世が即位。彼はヌビアの第1急湍の南にも碑文を残す
前1721年頃:この頃、第13王朝の王セベクヘテプ4世が即位。彼の治世にはヌビアで反乱が起こり、ケルマのクシュ王国がエジプト領の一部を攻略
前1710年頃:クソイス(アヴァリスとも)を首都とするエジプト第14王朝が成立
前1648年頃:エジプト第13王朝及び第14王朝が滅亡し、中王国時代が終焉。第2中間期に入る。一方で、セム系の異民族ヒクソスが東デルタのアヴァリスを都としてエジプト第15王朝を創始していた。ヌビアのクシュ王国はこの機に独立しており、アスワンまで領土を拡張。そのクシュと第15王朝は同盟を結んでいる
前1648年頃:上エジプトにエジプト第16王朝が成立。主にテーベを中心に支配していたか。第16王朝(第17王朝とも)に対して、クシュ王国らヌビアの連合軍が対決を挑み、ルクソール南のアル=カブ付近にまで侵攻したという
前1580年頃:第15王朝の宗主権下に、テーベのラーヘテプ王がエジプト第17王朝を創始
前1560年頃:エジプト第17王朝のセケンエンラー・タアア王が第15王朝からの独立戦争を開始。セケンエンラーは、ヌビア人を傭兵として用い、アシュートの北にあるクサエまでを第15王朝から奪取
前1555年頃:第17王朝の王カーメスが即位。第15王朝のアペピ王との戦争を再開
前1553年頃:カーメス王がクシュ王へ対カーメスの共同戦線を提案しようとしていたヒクソスの使者を捕らえ、この謀略を阻止。この後、テーベ軍は水路にて第15王朝の首都アヴァリス周辺まで進軍し、略奪した後に撤退した。こうした一連の遠征により、上エジプトはほぼ完全に解放される。また、カーメスはこの年までにクシュ王国へも遠征を行っている
前1550年頃:テーベにてイアフメス1世が即位。彼の代からエジプト第18王朝とされ、エジプト新王国時代が始まる
前1541年頃:イアフメス1世がアヴァリスを陥落させ、エジプトを再統一
前1538年頃:イアフメスがヒクソス最後の拠点シャルーヘンを占領し、ヒクソスを完全に滅ぼす。この後、王はクシュ王国に対して親征し、第3急湍近くのサイ島まで遠征したが、途上でエジプト北部の州侯テティアンが反乱したために撤退。反乱自体は鎮圧された。結果、ヌビアは再征服され、以後は「南の異国の王子」の称号をもつヌビア総督が統治
前1525年頃:エジプト王アメンヘテプ1世が即位。王位交替に伴い、ヌビアで反乱が起こるも鎮圧される(王の親征か)
前1518年頃:アメンヘテプ1世がヌビアに遠征し、これを平定。サイ島に要塞を建設した
前1502年頃:エジプト王トトメス1世が即位。再び王位交替に伴うヌビアの反乱が発生するも、鎮圧される。トトメスはシリアにまで遠征する一方、ヌビアでは第3急湍のトンボスの南にまでその領土を拡大。ケルマを滅ぼし、ケルマの東の砂漠を南下。第4急湍と第5急湍の間のクルガスにまで進出した
前1492年頃:エジプト王トトメス2世が即位。王位交替に伴うヌビアの反乱が起こったが、トトメス2世はこれを徹底的に鎮圧。クシュ王国は止めを刺され、以後、ヌビアの反乱は終息
前1471年頃:エジプトの女王ハトシェプストが対外遠征を中止。代わって、中王国以来中断していたプントへの交易隊派遣を再開する。女王の治世中はアジアへの対外遠征は行われず、資源獲得や交易のための遠征隊が派遣された。その際にもアジアよりアフリカとの交易を重視。ヌビアへは一度遠征隊を派遣したという
前1438年頃:エジプト王トトメス3世の第17回アジア遠征が行われる。一方、トトメスはヌビアにも懲罰的な遠征を実施し、第4急湍のナパタ地方までを征服。これによってエジプト史上最大版図を達成した
前1390年頃:エジプト王トトメス4世がヌビアに遠征
前1384年頃:エジプト王アメンヘテプ3世がヌビアに遠征(この後にも再びヌビア遠征を実施した可能性がある)。また、イブヘトでの反乱は、ヌビア総督メリメス(アメンヘテプ3世の子)によって厳しく鎮圧されている
前1351年頃:エジプト王アメンヘテプ4世が即位。彼は太陽神アテンを奉じて、アメン信仰に挑戦(アマルナ革命)
前1340年頃:シリア、ヌビア、エーゲ諸島などの使節団の貢租献上の儀式がエジプトにて挙行される
前1333年頃:エジプト王ツタンカーテン(トゥトゥアンクアテン)が即位。将軍ホルエムヘブはヌビアへの軍事遠征を行ったようで、ヌビアを屈服させることに成功している
前1319年頃:ホルエムヘブがエジプト王に即位。2人の司令官が領土の北と南を担当する体制とする。遠征では、クシュ遠征(王の巡幸か閲兵程度の可能性がある)及び南方への交易隊を派遣した程度にとどまる
前1295年頃:ラメセス1世がエジプト第19王朝を創始
前1294年頃:エジプト王セティ1世が即位。彼はヌビアに遠征している
前1236年頃:ラメセス2世がヌビアに侵攻
前1209年頃:リビアの首長メリウイ率いるリビア諸部族と「海の民」の連合軍がデルタ西部に進出。また、これによってヌビアや西方オアシス地域での反乱が助長された。リビアの動きに対し、エジプトのメルエンプタハ王がペルレイルで迎え撃ち、撃退に成功。ヌビアはリビアを支援しようとするも、リビア軍の壊滅によって為す術を失った
この後の展開
メルエンプタハはヌビアに向かい、反乱軍に打撃を与えている
前1186年頃:エジプト第20王朝が成立
前1184年頃:エジプト王ラメセス3世が即位。治世前半にはハトシェプスト女王以来のプント遠征が行われているが、これは海上遠征であった
前1153年頃:エジプト王ラメセス4世が即位。彼は遠征隊を各地に多く派遣し、ヌビアのブーヘンの砦にも遠征隊を送った
前1089年頃:エジプト王ラメセス11世の治世にて、テーベの秩序回復(リビア人の遊牧民の侵入が相次いでいた)のためにヌビア総督パネヘシがテーベを支配することに
前1083年頃:ヌビア総督パネヘシがアメン大司祭アメンヘテプを追いやる(~前1081年頃)。アメンヘテプはラメセス11世に助けを求めたため、事実上の内戦状態に(「アメン大司祭戦争」)。パネヘシは王に反乱し、中部エジプトの北部にまで進出したが、ピアンク将軍率いる国王軍に敗北し、ヌビアに撤退。結果、アメンヘテプは追放から6~9ヶ月後に大司祭職に復帰
この後の展開
ピアンク将軍がパネヘシのヌビア総督の称号を引き継ぎ、宰相職に就任、アメンヘテプの死後にはアメン大司祭の称号を得る
ピアンクの死後には義理の息子ヘリホルがピアンクの称号を全て引き継ぐ
前1081年頃:アメン大司祭兼ヌビア総督(副王)で宰相のヘリホル(妻はラメセス11世の姉妹)がテーベにおいて支配を拡大し、「ウヘム・メスウト(新紀元)」という元号を採用。アメン大司祭が上エジプトを支配する体制が確立(アメン神権国家)。ヘリホルは一時王を名乗るも、以後のアメン大司祭も北の王権を承認はしている
前1069年頃:ラメセス11世が死去。これにより第20王朝は終焉し、エジプト新王国時代が終わりを迎える。新王国時代の終焉とともにエジプトによるヌビア支配も終焉
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