見出し画像

1-31 新バビロニア王朝

  • 前629年:カルデア人がバビロンを占領

  • 前629年:バビロニア南部の「海の国」の首領ナボポラッサル(カルデア人か)が南パレスチナにまで進軍(~前627年)。ナボポラッサルはウルク知事の子であったが、反乱を起こしウルクを追放されたとも

  • 前627年:アッシリア王アッシュルバニパルが死去

  • 前627年:バビロニア王カンダラヌがアッシリアに謀反を起こした果てに死去。以後、1年間バビロニア王位が空位に

  • 前627年:エジプト軍がアシュドドにてナボポラッサルの軍隊を撃退

  • 前627年9月:ナボポラッサルがアッシリア軍とニップルで激突し、ウルクにまで撤退

  • 前626年:メディア人がアッシリアの首都ニネヴェを攻撃

  • 前626年:ナボポラッサルがウルクにてアッシリア・ニップル連合軍を撃破

  • 前626年9月:ナボポラッサルがバビロン近郊でアッシリア軍を撃破し、バビロンを掌握

  • 前626年10月26日ナボポラッサルがバビロニア王に即位し、新バビロニア王朝(カルデア王朝、バビロン第11王朝)を樹立(首都はバビロン)。アッシリアからの独立を宣言した。即位直後にアッシリアはバビロニアに攻め込むも、ナボポラッサルはこれを退け、10年間もアッシリア軍の攻撃に耐え抜く。これに対し、エジプトはアッシリアと同盟を締結

  • 前625年頃:ダマスクスが新バビロニアに服属

  • 前625年:メディア王フヴァ・フシュトラ(ギリシア語でキャクサレス)が即位。彼はスキタイ王マドイェスを宴会に招き謀略で殺害、その支配から脱する(メディア王国の再建)。その後、メディアはスキタイ人をコーカサス山脈の北方に撃退。なお、キャクサレスはアッシリアの軍隊組織を模範とし、メディア軍を槍兵・弓兵・騎兵の三軍から成る常備軍に改める軍制改革を実施

  • 前623年:新バビロニアが、バビロニアからアッシリア人を追放

  • 前616年:ナボポラッサルがアッシリアに対して反撃を開始。以後、毎年アッシリアに遠征

  • 前616年:メディア王国がニネヴェを攻撃

  • 前616年:エジプトがアッシリアを支援

  • 前615年:ナボポラッサルがアッシュルを攻撃するも、攻略に失敗。ナボポラッサルはタクリタイン(現ティクリート)に拠点を確保し、その要塞に避難

  • 前614年:メディア軍がアッシリアの諸都市を掠奪し、ニネヴェ近郊のタルビツを占領後にアッシュル市を攻略。ナボポラッサルはアッシュル陥落後に到着した。これを受けて、ナボポラッサルはメディア王キャクサレスと同盟を結ぶ(メディア王女が新バビロニアの王子ネブカドネザルに嫁ぐ)

  • 前612年メディア王国の王キャクサレスと新バビロニアのナボポラッサルの同盟軍(スキタイ、ペルシアも参加していた)がアッシリアを攻撃し、3ヶ月の包囲戦の末にニネヴェを陥落させる(氾濫したティグリス川にて、破城槌を筏に乗せて攻撃したとも)。このときにアッシリア王シン・シャル・イシュクンは殺害された。ニネヴェは破壊されたものの、一部のアッシリア人はハランに逃れる

  • 前611年:アッシリアの残党が集ったハランにてアッシュル・ウバリト2世(アッシリアの貴族)が即位。彼らは帝国西部の属州をいくつか支配しつつ、エジプトに援軍を要請

  • 前610年:エジプト王ネカウ2世がアッシリアの残存軍を支援するため、ハランを目指し進軍

  • 前610年:メディア・新バビロニア連合軍がハランを攻撃し、その一部を破壊

  • 前609年の夏:ユダ王ヨシヤがネカウ2世の進軍を妨害。これに対し、ネカウ2世はメギド郊外にて、ヨシヤを敗死させる(メギドの戦い)。ユダ王国を属国とし、エジプト軍は更にカルケミシュやハランにまで侵攻したが、ハラン救援に関しては果たせず。新バビロニアがエジプトの援軍を破る。その後、エジプトの支援を受けたアッシュル・ウバリト2世はニネヴェを2ヶ月間包囲するも、撃退される。以後、アッシュル・ウバリトは消息不明となる。新バビロニア・メディア連合軍によってハランも陥落し、アッシリア帝国は完全に滅亡。しかし、エジプト軍は以後もシリアに残留

  • 前609年:新バビロニア軍がウラルトゥ南西部に遠征(~前607年)。諸部族の反乱を制圧

  • 前607年:ナボポラッサルと王子のネブカドネザルが山岳地域(ザグロス山地の一部か)に遠征

  • 前607年:ネカウ2世がユーフラテス川西岸のキムフにて新バビロニア王ナボポラッサルと激突

  • 前605年:新バビロニアの王子ネブカドネザルがシリアに遠征。シリアにまで進出していたネカウ2世のエジプト軍(アッシリアの残党軍と合流)をカルケミシュで破る(カルケミシュの戦い)。更に新バビロニアは退却するエジプト軍を追撃し、ハマトで破る。これにより、新バビロニアはハマト地域を制圧し、シリア・パレスチナの支配を一部確立

  • 前605年7月8日:ナボポラッサルが没する。ネブカドネザルは急ぎバビロンに帰還

  • 前605年8月1日ネブカドネザル2世(ナブー・クドゥリ・ウツル)が新バビロニア王となる。以後、ネブカドネザルはシリアに進軍し、軍事行動を継続(~前604年1月)。なお、リディア王アリュアッテスはネブカドネザルと講和

上図:ネブカドネザル2世

出典:Wikipedia

上図:イシュタル門。ネブカドネザル2世が建設した

出典:User:Hahaha, CC SA 1.0 <http://creativecommons.org/licenses/sa/1.0/>, ウィキメディア・コモンズ経由で

出典:イシュタル門に描かれたムシュフシュ(竜)

出典:Raffaele pagani, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前604年:ネブカドネザルがシリア・パレスチナに数次にわたる遠征を開始(~前601年)。シリアにてネカウ2世を破り、パレスチナを南下、ペリシテ地方のアシュケロンを占領する。アシュケロンやエクロン、アシュドドやティムナなどのペリシテ地方の諸都市は恐らくこの時に破壊されたと考えられている(エジプトと結びつきの強いペリシテ地方を消滅させることが狙いであったか)。また、この時にユダ王ヨヤキムが新バビロニアに臣従したと考えられている。ネブカドネザルはパレスチナからエジプト勢力を一掃すると、更にエジプトの川にまで到達し、エジプト軍を南方まで追撃した

  • 前601年:新バビロニア王ネブカドネザル2世のエジプト侵攻軍をエジプト軍が東デルタの国境線で迎撃。更にフィリスティヤ南部にて、エジプト軍が新バビロニア軍を撃破。結果的に新バビロニアによるエジプト遠征は失敗に終わった。これを受けて、ユダ王ヨヤキムが叛乱を宣言し、エジプトと結ぶ

  • 前600年:ネブカドネザルがバビロンで軍の再編に努める

  • 前599年:ネブカドネザルがシリア・パレスチナ諸国及びアラブ遊牧民に対する遠征を開始(~前598年)

  • 前598年12月:ネブカドネザル2世が西方遠征を開始し、ユダ王国のイェルサレムを目指す。新バビロニア軍はネゲヴの重要都市アラドを破壊し、イェルサレムを包囲。この包囲戦の最中に、ユダ王ヨヤキムが死去したか(殺害されたとも)。なお、この頃の新バビロニアにはティルスやガザ、シドン、アルワドやアシュドドらが服属していた

  • 前597年3月16日:ネブカドネザル2世がイェルサレムを攻略。ユダ王ヨヤキンはネブカドネザルに降伏。ヨヤキンなどの王族らはバビロンに連行された(第1次バビロン捕囚)。この後、ネブカドネザルはヨアハズの実弟マッタニヤ(ゼデキヤと改名させる)をユダ王とし、ユダ王国は新バビロニアに臣従

  • 前596年:新バビロニア軍がエラムを攻撃

  • 前595年:バビロニアで一ヶ月に及ぶ内乱が発生するも、ネブカドネザルに鎮圧される

  • 前595年:ネブカドネザル2世が再びシリアに遠征

  • 前594年:ネブカドネザル2世のシリア遠征。示威的な遠征で、諸王国に貢納させ、バビロニアの覇権を確認するためのものか

  • 前592年:ユダ王ゼデキヤが、エジプトのヌビア遠征に援軍を派遣。両国の間に密約が存在したか

  • 前591年:エジプト王プサメテク2世がユダ王ゼデキアを支援するために、南パレスチナに派兵。これにより、ユダ王国の新バビロニアへの反抗が活発に

  • 前589年2月:エジプト王アプリエス(ウアフイブラー)が即位。彼はキプロス、フェニキアに軍事遠征を実施

  • 前589年:ユダ王ゼデキアがエジプトの教唆でエドム、モアブ、アンモン、ティルス、シドンの諸王らと共に反バビロニアの陰謀を企て、新バビロニアに叛乱。ゼデキヤは再びエジプトの属王となり、イェルサレムに籠城する

  • 前588年:ネブカドネザル2世がユダ王国領に侵攻し、ラキシュ、アゼカ、イェルサレム以外のほぼ全域を制圧

  • 前588年1月15日:新バビロニア軍がイェルサレムを包囲。これに対し、アプリエスは自ら出兵。エジプト軍接近の噂によって、イェルサレムの包囲は一時解かれるも、再度包囲される

  • 前587年:新バビロニア軍が2年間包囲したラキシュを攻略し、焼き払う

  • 前587年:ネブカドネザル2世がアプリエスの軍に大勝。エジプト軍は撤退

  • 前587年7月19日:ユダ王国領のアゼカの町が新バビロニアによって陥落した直後、イェルサレムも陥落。市街及び城壁が完全に破壊される(ユダ王国の滅亡)。以後、ユダ王国領は新バビロニアの属州となり、州都はミズパへと移された。しかし、強制移住させられたユダ王国内の人々にはある程度の信仰の自由が保障されていた。ゼデキヤは逃亡するも、イェリコの平野で捕らえられ、ネブカドネザルの本営であるリブラにて残虐な刑罰の後にバビロンに連行された(第2次バビロン捕囚

  • 前585年:ネブカドネザル2世及びキリキアのシエンネ人の仲介で、リディアとメディアが和平条約を締結。両国の境界はハリュス川となり、リディア・メディアは婚姻関係を結ぶ

  • 前585年:ネブカドネザル2世がティルスを攻囲。島部分のみとなっていたティルスは13年もネブカドネザルの包囲に耐える。一方、モアブやアンモンなどの諸王国もネブカドネザルは征服している

  • 前585年:メディア軍と結んだスキタイの攻撃で、ウラルトゥの首都トゥシュパが陥落。ウラルトゥ王国はメディアに滅ぼされる

  • 前582年:ユダ統治を任された属州総督のゲダリヤがダビデ家出身のイシュマエルの奸計によって殺害され(アンモン王の教唆とも)、イェルサレムの上層階級の一部がバビロンに連行される(第3回バビロン捕囚)

  • 前573年頃:ティルス王エトバアル3世が新バビロニア軍の攻囲を受けて降伏。王や王族らはバビロニアに送られた。この後、おそらくネブカドネザルの傀儡であるバアル2世がティルス王となる。また、ネブカドネザルはエジプトのデルタ地方にまで進軍したと考えられている

上図:ネブカドネザル2世統治下の新バビロニアの版図。なお、ネブカドネザルは南北に長城を建設し、防備を強化している

出典:IchthyovenatorSémhur (base map), CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前570年:エジプトにてアマシス王がアプリエス王から王位を簒奪。エジプトから逃れたアプリエスは新バビロニア軍の支援を受けて、王位奪還を図る戦いを行うも、その最中にアマシス王に敗死

  • 前562年:ネブカドネザル2世が死去。後継としてエビル・メロダク(アメル・マルドゥク)が即位

  • 前560年:ネブカドネザルの娘婿と考えられるネリグリッサル(メディア人)がアメル・マルドゥクから王位を簒奪

  • 前556年:将軍ナボニドゥス(ナブー・ナイド)がクーデタによって、ラバシ・マルドゥクから王位を奪って新バビロニア王となる。将軍時代のナボニドゥスはアナトリアに遠征したという。しかし、王となったナボニドゥスは政治を顧みずにバビロニアは混乱。また、バビロンのマルドゥク神ではなく、ハランのシン神を信仰していたことで、バビロニア人の反感をかった。他にも神殿行政に介入し、神殿を王権の管理下に置こうとしている

上図:ナボニドゥス

出典:大英博物館, CC BY 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前553年頃:ナボニドゥス王がアナトリア、シリアに遠征し、ガザを占領。また、エジプトを牽制するためにアラブ遊牧民に遠征した。結果、西方の貿易ルートを確保

上図:この頃のオリエント情勢

出典:Original: User:SzajciEnglish: User:WillemBK, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で
  • 前550年:キュロス2世がメディア王国を滅ぼし、アケメネス朝ペルシアを建国

  • 前547年:アケメネス朝の拡大に対し、アマシス王が新バビロニアやキュレネ、アナトリア西部のリディア王国やギリシアのスパルタなどと対ペルシア同盟を締結

  • 前547年:ナボニドゥスが皇太子のベルシャザル(ベル・シャル・ウツル)に国政を任せて、アラビアのタイマに隠居。ナボニドゥスはタイマとその周辺のアラブ系住民を駆逐して、タイマに宮殿を造営

  • 前546年:新バビロニアとエジプトからの援助要請を受けたリディア軍がキュロス2世の軍と激突。リディアは敗れ、キュロス2世がリディアを滅ぼす

  • 前539年:ナボニドゥスがバビロンに戻る

  • 前539年:アケメネス朝のキュロス2世がバビロニアに侵攻。ティグリス川東岸のオピスでバビロニア軍を撃破し、町を掠奪

  • 前539年10月12日アケメネス朝ペルシアキュロス2世が派遣した将軍ゴブリアスがバビロンを無血開城させ、新バビロニアを滅ぼす。ナボニドゥスは捕らえられている

  • 前538年:キュロス2世がバビロンに捕囚されていたユダヤ人を解放(帰還許可勅令)。帰還民の指導者としてシェシュバツァル(ユダ王ヨヤキンの子)を任命し、属州ユダヤの初代総督とする

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?