見出し画像

サイコパスの脳波と正常な思春期にある青少年の脳波に類似性がある

キリスト教徒とイスラム教徒に長年迫害されてきたヤジディ教徒は、神以外に屈服することを拒んだターウース・マラクという名前の大天使を崇めている。彼らに敵対する人々はターウース・マラクを悪魔とみなし、ヤジディ教は悪魔崇拝だと非難している。学者の意見では、この宗教はアブラハムの宗教───キリスト教、ユダヤ教、イスラム教───よりも古い起源を持ち、後代のたくさんの伝統を吸収してきたのだという。 ターウース・マラクはクジャクの姿をしているのだが、クジャクよりも東方から来た外来種の鳥で、早くも紀元前二〇〇〇年にはラリッシュから南に五〇〇マイル(約八〇〇キロ) 離れたウルへ持ち込まれていた(中略)ヤジディ教の信仰によると、聖なるクジャクがラリッシュに降り立ったのちにエデンの園のアダムに会い、太陽崇拝について説き示したのだという(中略)ニワトリは昔もいまも、いわば羽の生えたスイス・アーミーナイフで、与えられた時間と場所に応じて必要なものを提供してくれる万能動物なのだ(中略)「父はこう言いました。 『あいつら(※自分の飼育しているニワトリ)のことを好きなのは、飼いならす方法がないからだ』。 そしてこう言ったんです。『あいつらのありのままの姿が好きなんだよ───野生の姿が』 」※引用者加筆.

ありのままの姿が好きなんだよ───野生の姿が

教える前に、「考える」ことを教えなければならない(中略)科学的な思考におけるスイス・アーミーナイフ「さまざまな機能を持ったナイフ」も持たせなければならない。あちこちで、教授たちはこの挑戦を始めている(中略)(※コンピューター・サイエンスを担当するコロンビア大学教授ジャネット・)ウイングは広範な「計算論的思考」を、思考のスイス・アーミーナイフとして推奨する(中略)「計算論的思考では、複雑で大きな問題に取り組む時、その問題を抽象化し、分解し、問題を適切に象徴することがらを選び出す」※引用者加筆.

教える前に、「考える」ことを教えなければならない

しばらく前に、私は『新スタートレック』の脚本家を一シーズン務めた。はじめて出席した打ち合わせでは、ほかの脚本家やプロデューサーが大勢並ぶ前で、自分でこれはいいと思ったアイデアを提案した。太陽風に関する実験の天体物理学が関係したエピソードだ。その場でただ一人の物理学者だった新顔の私は、全員の視線を浴びながら、そのアイデアとそのおおもとにある科学を熱心に細かく説明した。まくし立てて一分足らずで説明を終え、満足して、かつてニューヨーク市警の殺人課の刑事だったぶっきらぼうな中年プロデューサーのほうを誇らしげに見た。するとプロデューサーは不可解な表情で一瞬私をにらみつけ、大声で言った。「黙れ、くそインテリ野郎!」 動揺が収まると、プロデューサーがこの一言で何を言わんとしたのかがようやくわかった。私を雇ったのは執筆能力を買ったからであって、恒星の物理に関する公開講座をさせるためではない。なるほどそのとおりだと思い、それからはそのことを肝に銘じて物書きをしている(中略)著者のレナード・ムロディナウは、一九五四年アメリカ生まれの物理学者・作家。一九八一年にカリフォルニは大学バークレー校で博士号を取得したのち、カリフォルニア工科大学やドイツのマックス・プランク物理学研究所などで量子力学の理論研究をおこなった。しかしエンターテイメントの世界に惹かれて一九八五年に転身、科学の知識を生かして『新スタートレック』『冒険野郎マクガイバー』などの脚本を書いたりコンピュータゲームの制作に携わったりした。その間も物理学の研究を続けるとともに、一般向けや子供向けの科学書の執筆を始め、二〇〇五年にカリフォルニア工科大学に戻ってきて教鞭を執るようになった。

若くして『冒険野郎マクガイバー』というテレビ番組(1985〜1992)を見ていない人々のために言うと、これはガムテープと万能ナイフといろいろなクリップやピンで世界を救うのが得意な科学者にして秘密情報員の話だった。

美術や音楽や文学において「プリコラージュ」とは、手に入る多様なものを結びつけたり寄せ集めたりして作品を構築したり創造したりすることを指す(中略)「プリコラージュ」を理解してもらううえで、私が好んでよく引き合いに出すのは、子供の頃によく見ていたテレビドラマ「冒険野郎マクガイバー」だ

ピカソは本物の新聞紙と他の著作権で保護されているものを組み合わせてコラージュを完成させた。誰も訴えなかった(中略)皆さんも、クリエイティブなキツネになることができる。1976年の合衆国著作権による公正使用の原則に基づいて、「盗んだ」ものの形を変えて別の目的に使い、社会的あるいは文化的に役立つものにすればいいだけだ。

ピカソのパピエ・コレ(引用者撮影)↑

使えるモノや人を最大限活かす(「ブリコラージュ」)というとき、その対象にはスキルや人材も含まれる

ティンカリングとは、その場で手に入る道具や材料をいじくりまわして、改造を施したり新たなものを作り出したりすること。人類学者のレヴィ=ストロースが用いた「ブリコラージュ(器用仕事)」と同様の意味

ラファエロのように描くには4年かかった。子供のように描くには一生かかった。───ピカソ

狂気が隠れているのではなく、九歳から十歳の子供が隠れているにすぎない

成人のサイコパスの脳波と正常な思春期にある青少年の脳波に類似性があるということだ。たとえば、ハーヴァード大学の心理学者ロバート・キーガンは、クックレーの〝正気の仮面〟の裏には狂気が隠れているのではなく、九歳から十歳の子供が隠れているにすぎないと言っている。

サイコパシーは物事の解釈の仕方が健常者とは根本的に違う

サイコパスが占める割合は人類のたった1%にすぎないにもかかわらず、彼らが引き起こす混乱の影響は甚大で、実際、社会がつくり変えられる(中略)「サイコパスは、世の中には肉食動物とそれに喰われる者がいると言う。もし彼らがそう言ったなら、それは現実に基ずいた話だと考えたほうがいい」

自分自身も軽んじないことが同じくらい重要

サイコパシーは社会生活や対人関係を表面的にうまく築くことに長けている(中略)サイコパシーは物事の解釈の仕方が健常者とは根本的に違うのである。

問いの答えは、私は好運なサイコパスであるということである

私は誰も殺害したり、傷つけたりしようとは思わない。盗みや嘘をつくことも好きではない。それは敗北者の行為である。もしそんなことをする羽目になったら、サイコパスとして失格となる。暴力は粗暴で、面白みを破壊してしまう。私の関心は道徳ではなく、活動にあって、もっとぞくぞくするような快感を得ることが目的である。私は実際は不親切ではない。もしあなたが、「ヨーッ、ジム、メキシコにドライブしてコヨーテ狩りや、他のことを愉しもうぜ」と言うなら、私は喜んでそこに連れていく(中略)私は怒りをコントロールすることが可能で、犯罪歴もない。チェックリストにはないが、私は自分の魅力や他人操縦術、快楽主義を良いことに利用しており、悪行のためにではない。私には愉しみがあり、善行を行っており、何か困らせるようなことをしても、それらはまったくの偶発なものでしかない。とはいうものの、さきほどの問いの答えは、私は好運なサイコパスであるということである(中略)こうして私は、「幸運」とはまったくの幸運ではないと考えている。それは目的に沿った養育環境で、成績不良や、逸脱、犯罪の人生を醸成するような定めをもっているように思える者たちも含めた、ほとんどの家庭や地区でも作られうるものである(中略)つまり、悪いカードの組み合わせをもって生まれてきても、それは養育によって実際に克服可能(中略)私が天使でないことは確かである。しかし私はもっとワルになっていた可能性があったのだ。サイコパシーに関連する諸特性や遺伝子を社会から除去すべきだ、とは私は思わない。そんなことをすれば、社会は停滞し、私たちは排除されてしまう(中略)いうまでもなく、彼らはその家族や友人に、私がそうであるように、ストレスを与えるが、しかしマクロのレベルでは社会に利をもたらすのである。これは私の自己愛からそう言っているのかもしれないが、サイコパシー・スペクトラムにはスイートスポットというものがある、と信じている。ヘア尺度で二十五〜三〇点のものは危険であるが、これが二〇点台の者たちは私たちの周囲には数多く必要なのである。それは、人間をわくわくさせ、適応力のあるものにし、生気を保つための大胆さや活気、法外さをもつ人なのである。だから私は人に好かれている。

サイコパシーには殺人犯の印があるわけではないし、実際に殺人に手を染めるとも限らない。彼らの多くは礼儀正しく、魅惑的な微笑みを持ち合わせている(中略)行為は歳をとるにつれて弱まっていくことも研究の結果で明らかになっている。具体的には40歳を過ぎたあたりからである(中略)教育や生きている環境が人間をサイコパシーに育てることは不可能である。子供を持つ親はこの分野に関して勉強をする必要がある(中略)残念ながらサイコパシーは治るものではない。

キリストはかつてこう言った。「自分がしてほしいと思うことを、彼らにしてあげなさい」。 なんて素晴らしいお言葉だ! 他人を軽んじるのは、良いサイコパスのマニュフェストには含まれない。しかし自分自身も軽んじないことが同じくらい重要だ(中略)私たちの多くは、はっきりと自己主張することを恐れるが、サイコパスは他人が自分のことをどう思おうと気にしない。彼らは恐れることなく、自分の意見を言うのだ(中略)彼らは自分の得意なことに集中し、実行する。感情の余韻にひたることはない。

延長意識は規模が大きいこと、優れていることが中核意識とちがう(中略)延長意識は、後方にも前方にも、中核意識の「いま・ここ」を超えている。「いま・ここ」もあるが、一方には「いま」を効果的に照らすのに必要なだけの過去があり、もう一方には予期される未来がある(中略)結局、延長意識は大きな範囲の実在物と事象を知る能力、つまり、中核意識におけるものより大きな範囲の知識に対する個人的視点の感覚、所有の感覚、作用の感覚を生み出す能力である。

初めは火花にしか過ぎない小さな意識から、どんどんとその影響が広がる。その影響があるポイント、発火点まで到達すると、意識の火は次から次へと急速に燃え広がり、ついには意識の白熱が地球全体をおおう。

シンフォニーとは、バラバラの断片をつなぎ合わせる能力である。「分析する」というよりも「統合する力」であり、「一見、無関係に思える分野に関連性を見出す力」、「特定の答えを出す」というよりも「広範なパターンを見つける力」、そして「誰も考えなかったような要素の組み合わせから新たな者を創造する力」なのだ(中略)絵を描くことと同様、「調和(シンフォニー)」とはおもに関連性をとらえることである。「コンセプトの時代」に成功したいのなら、一見バラバラで多様な秩序の間にある関連性を理解しなければならない。明らかに無関係な要素を結びつけて、新しいものを作り出す方法を知っている必要があるのだ。また、類推力、つまり、ある物事を他の観点からとらえることにも長けている必要がある。言い換えれば、次の三タイプの人は成功する可能性が大だということだ。それは、「境界を超えられる人」「発明できる人」「比喩を作れる人」である(中略)「共感」とは、相手の状況に自分を置き換えられる能力であり、その人の気持ちを直感的に感じ取れる能力である。また、だれかの立場に立ち、その人の視点で考え、その人が感じるように物事を感じ取ることのできる能力でもある。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?