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キリスト教では、神が世界を創造した瞬間が存在する

カースト制度に固執するヒンドゥー教徒は、人知を超えた宇宙の究極の力がカーストの優劣を定めたと信じている。有名なヒンドゥー教の創造神話によれば、ブルシャという原初の人間の体から神々が世界を造り上げたという。太陽はプルシャの目から、月は脳から、バラモン(僧侶)は口から、クシャトリヤ(武士)は腕から、ヴァイシャ(農民と商人)は腿から、シュードラ(隷属民)は脚から造り出された。この説明を受け容れれば、バラモンとシュードラの社会的な違いは、太陽と月の違いのように自然で永遠のものとなる(中略)とはいえ、私たちの知るかぎり、これらのヒエラルキーはすべて人類の想像力の産物だ。バラモンとシュードラは、本当に神によって原初の人間の異なる体の部位から造られたわけではない。実際には、これら二つのカーストの区別は、約三〇〇〇年前にインド北部の人間が考案した法律と規範によって生み出された。

SAS〔特殊空挺部隊、第二次世界大戦中のイギリスの特殊部隊〕の元隊員で、サバイバル技術の専門家であるジョン・「ロフティ」・ワイズマンが語ってくれたように、「ビッグバンのあとまだ立っていたら、生き残ったことになる。だが、どれだけ生き残り続けるかは、どれだけ知識があって、何をするかしだいだ」

重力は一種の孤高を気取っており、自分以外の物理学との断絶を決め込んだ力

初期宇宙の場合には、いったい何が(あるいは誰が)、低エントロピーという特別な配置をお膳立てしたのだろうか? 宇宙の起源に関する完全な理論が得られていないため、科学はこの問いに答えることができない(中略)科学は、この問いにはそもそも頭を痛めるだけの価値があるのかどうかさえ判定できずにいる。なぜ何もないのではなく何かががあるのかがわからないということは、何かがあるという現実の状態が異常なことなのか普通のことなのかを判定するすべがないということだ。初期宇宙の詳細な条件は、肩をすくめてやり過ごすべきものなのか、あるいはハッとして振り返るべきことなのかを判定するためには、それらの初期条件が設定されたプロセスを明らかにする必要がある(中略)秩序だった均一な低エントロピーの配置が実現するためには、到底起こりえそうもない驚くべき偶然が重ならなければならない。同様に、激しく変動するインフラトン場の値が、空間の小量域のいたるところで同じになり、インフレーションの膨張をスタートさせるためには、やはり到底おこりそうもない驚くべき偶然が重なる必要があっただろう。そんな特別で、秩序が高く、エントロピーの低い、領域全体で均一な配置が実現することに対して何の説明もない(中略)仕組まれた陰謀論のようなその出来事が起こったのは、われわれがビッグバンと呼ぶ急激な空間の膨張が始まる前

キリスト教では、神が世界を創造した瞬間が存在する。カトリックの神学者にして物理学者でもあったジョルジュ・ルメートルはビッグバン理論を打ち立てたひとりであり、アインシュタインの理論は聖書の創世記と矛盾しないと考えていた(中略)「無」における量子ゆらぎ(中略)われわれの宇宙が「無」における量子ゆらぎから生まれた(中略)神の存在証明は、何世紀も持ちこたえた。やがて十八世紀になってようやく、イヌマエル・カントが存在的証明に欠陥を見出した。完璧さと存在はふたつの異なる概念であると。※引用者加筆.

ある意味で、統一こそが理論物理学の究極の目的

発明の大半はまったく異なるものに注目して、そのあいだに思いも寄らない関係を見出すことから生じる。私たちはこれを、科学の分野で、たとえばE=mc² などの公式を用いるときに行なっている(中略)アリストテレスは比喩をどこか特別なものと考えていた。「この能力だけは、他人から学んで獲得できるものではなく、恵まれた素質の印である。というのも、優れた仕方で語を転用し比喩を用いることは、事物の類似を見て取ることにほかならないからである」。類推的思考が専門である。ノースウェスタン大学のデドレ・ゲントナー教授は類似性について、このように述べている。「さまざまなことを関係で考える能力こそが、人間が地球を支配している理由の一つだと思う」※引用者加筆.

ラテン語で「どれだけの量か」を意味する “quantum”(量子)

(読者は驚くかもしれないが)。意識がそうだし、重力もその正体は誰も知らない

すべては特異点から始まったという考え方は、現在の宇宙の膨張を観測した結果に、重力を記述するアインシュタインの方程式を適用し、時間を遡って敷衍(※ふえん)して得られたものだ。しかし、そのような特異点などまったく存在しなかったかもしれない(中略)したがって、特異点というのはすべてを始動させたであろうものについての一つの痕跡にすぎず、確実なことは何もいえない。さらに、特異点の「前」は何だったのかという疑問もある。この疑問は、誰に訊ねるかによって、とんちんかんなナンセンス(特異点は空間のみならず時間の始まりでもあるので、それより「前」などないから)にもなりうる(中略)さしあたって特異点については、「それは起こったかもしれない」という以外に話すことはあまりない(中略)ある意味で、統一こそが理論物理学の究極の目的(中略)アインシュタインに悪気はなかった。宇宙定数を加えたのは、宇宙が悲劇的な収縮を起こさないようにするためだ。もう少し正確にいえば、「(※重力、引力により宇宙や銀河は)とっくに収縮していなければならなかった」ということから逃れるためだ(中略)理論的な観点から、宇宙定数の項がそのような値でなければならないのはなぜかを説明できるものは何もない(中略)こんどは、一般相対性理論が、次の大きな理論へと差し替えられる番だ。ところが、これまでのところ、一般相対性理論はこのような努力に抵抗を示し続けている。もしかすると私たちは、代わりに宇宙全体を配置換えすることになるのかもしれない(中略)それ(※実在ですが根本的ではない時空)が何でできているかをほんとうに理解することができたなら、ある深いレベルにおいて、「時空が何かまったく別のもののように見える」(中略)重力は一種の孤高を気取っており、自分以外の物理学との断絶を決め込んだ力(中略)(※この重力に対する考えについては)とりあえずいまのところは、そういう考えは「人類存亡に関わる緊急時には、ガラスを割って使用してください」と書いた頑丈な箱の中にしまって、触れないでおくのがよさそうだ(中略)「問題なのは私たちの重力理論なのだ。一般相対性理論には、修正もしくは差し替えが必要で、それが実施された暁には、きちんと他の力と統一されるだろう」(中略)惑星の軌道には近日点移動という「ズレ」があり、ズレの大半はニュートン力学で説明できるが、説明しきれないぶんの解決には一般相対性理論が必要だった(中略)衝突のエネルギーは、E=mc²のレートで粒子のエネルギーに変換される、通貨のようなもの(中略)一般相対性理論には、宇宙救済のための微調整(※空間のすべての小片が重力に対抗できる反発エネルギーを持っている)を加える余地があることに彼(※アインシュタイン)は気づいた。宇宙に存在する何物も重力に抗うことはできないが、宇宙そのものにはきっとそれができるだろう、というわけだ(※しかし宇宙は定常的ではなかった)(中略)物理法則は、それらがどのような条件下で観測されるかに依存する。その条件とは、具体的には、周囲のエネルギー、すなわち温度 ※引用者加筆.

量子力学は、対象物を変えてしまうことなしに観察することは所詮できないのだということを明らかにする(中略)量子力学の不確定性は、原理上は働いているのだが、無視して問題ないこともある(※レーザー、iPhone、GPSなど)。私たちは象の位置と運動量を、あらゆる実際的な目的に十分役立つ程度に、同時に正く測定することができる。これらの物理量の不確定性は、その物理量の値に比べて無視できるほど小さい。しかし、原子のなかの電子の場合はまったく違う話である(中略)物理的には、宇宙定数を導入することは、空間そのものにゼロではない密度を与えることに相当(中略)何も存在していない(ように見える)場合も含めて、空間は質量を持っている(中略)宇宙定数は、一般相対性理論によれば湾曲し、押し、振動する物質である時空そのものは慣性を持つだろうという可能性をただ追認するだけである(中略)アインシュタインの一般相対性理論(※時空の幾何学は物質の影響、あるいは時空のなかを伝わる歪みの波によって湾曲しうる)によれば、空間は一種の物質だ。それは曲がったり運動したりできる動力学的な存在(中略)量子力学の原理によれば、運動できるものはすべて、おのずと運動する(※変動もする量子揺らぎ→ユークリッド幾何学。これを特殊・一般相対性理論により不適切さを理論的に暴露したアイシュタインは距離を測定する際、何をいかにして測定するのか?空間ではなく時空のなかで測定を構築するように、と説いた。ブラックホールの近傍で空間を考えなければ小さい揺らぎは実生活上の問題に対処している限り無視できるのがユークリッド幾何学)(中略)一般相対性理論を量子力学と結びつけて計算すると、空間は震えるゼリーのように、常に動いていることが明らかになる(中略)一般相対性理論は、空間の平均曲率、その内部の物質の平均密度、そして宇宙の膨張速度とのあいだの驚くべき関係を予測(中略)光子、グルーオン、そして重力などの最も重要な素粒子の一部は、質量がゼロである。だからといって、これらの粒子が慣性を持たないとか重力を及ぼさないというわけではない。じつのところ、これらの粒子は慣性も重力も持っている(※粒子の重力とは、それが他の粒子に及ぼす普遍的な引力、質量が大きいほどその重力は大きい)(中略)相対性理論によれば、慣性(※運動が変化することへの抵抗の大きさの尺度)と重力を支配しているのは質量ではなくてエネルギー(※m=E/C²)(中略)E=mc² にしたがって、(※物体が高速に比べてゆっくり運動している場合、おおよその近似の)比例関係にある。そのため、この場合は慣性質量と重力質量は同じになり、両者を区別せず使うことができる(中略)しかし、速度が高速に近い物体の場合は、E=mc²はまったく成り立たない(※質量ゼロの光子には慣性があり重力も及ぼすため、より精緻化された方程式が必要)※引用者加筆.

ニュートンが私たちの第三の原理(※局所性・法則を定式化する際に宇宙全体、あるいは、歴史全体を考慮する必要はなく、より厳密に言えば、今この場で適切な予防策を講じておくことで、関連するすべての条件の制御を目指すことができるということ)───作用は局所的だという原理───に信念を持っていたことは、驚くほど先進的だった。彼の死から何十年も経った一九世紀ごろになると、物理学者たちは、ニュートンが不平を述べた受動的な「真空」───無、または虚空───を、場と呼ばれる力を媒介する物質で満たすようになった。そして現代物理学においては、粒子よりも場が根本的な物質の構成要素になったのである(中略)少数の単純な要素から実在を構築するやり方については、「単純な要素」とは何を意味するのか、そして、いかにして「構築」するのかという両方を再考する必要がある(中略)本書(※『すべては量子でできている』)を要約すれば、驚くほど広大で複雑な世界は、驚くほど少数の単純な根本原理によって説明されるが、謎も残っており、私たちが生まれ変わって思考のブレークスルーを成し遂げることで根本原理は書き換えられ、謎が解明されていくだろう、ということではないだろうか。そして新しい根本原理で見てみると、また新たな謎が生まれ、このサイクルが終わることはないだろう(中略)先入観を捨てて、もう一度世界に対して心を開けば───自分を生まれ変わらせることができたなら───、私たちは世界を違うかたちで理解するようになるはずだ ※引用者加筆.

私の名前は綴るのも発音するのも難しいので、レストランの予約をするときにはよくマックス・プランクという名前を使う。気づかれることはほとんどないが、あるとき「量子論を発明したあの人の親戚ですか」と聞かれた。「私がその本人だ」と答えても、20代前半のそのウェイターは信じなかった。そんなに若いはずがないという。そして、「量子論は一九六〇年頃に発明されたんです。第二次世界大戦中にマンハッタン計画の一環として」と言ってきた。それ以上言葉を交わすことはなかったが、私がよく話のネタにするのは、このウェイターが歴史をあまり知らなかったことではなく、物理理論を「発明する」という言葉の意味が曖昧だったことである。「発明」という言葉は、それまで存在していなかったものを作り出すという意味だ。それに対して「発見」というのは、それまで知られていなかったことに気づくという意味である。理論はどちらにもとらえることができる(中略)発見は探求によって、ときに偶然によって成し遂げられるが、発明は計画された構想と積み重ねを通じておこなわれ、偶然の果たす役割は試行錯誤の場合よりも小さいのだ。アインシュタインは相対論を思いついたときには、自分が何を目指していて何を成し遂げたかったかをもちろんわかっていたので、相対論は発明であると言えるかもしれない。しかし量子論はそれとは違う。量子論の発展へつながるそれぞれの段階には、「発明」よりも「発見」のほうが、もっと言うと「偶然出くわす」という言葉のほうがよく当てはまることが多い。その(数多い)発見者は、プランクと同じように、見つけたいと願って思い浮かべていたものとは正反対の事実に出くわした(中略)プランクはそのエネルギーの基本的な量を、ラテン語で「どれだけの量か」を意味する “quantum”(量子)と名づけた。一言で言うと、こうして量子という概念は誕生した。量子論は、一人の科学者が深遠な原理からその論理的結論を導こうとたゆみなく努力したことで誕生したのでもなければ、物理学の新たな哲学を発見したいという衝動から生まれたものでもない。はじめて顕微鏡を覗いて、驚いたことに小麦粉も結局は卵と同じくばらばらの単位からできており、その微小な塊の倍数でしか分けられないことを発見した料理人のような人物の手で、量子は産声を上げたのだ(中略)結局のプランクの研究は、ジェイムズ・ジーンズを苛立たせただけでたいした騒動は起こさなかった。無意味だと考える物理学者も、ありきたりの説明があるはずだと考える物理学者も、まるでロックフェスティバルでドラッグ禁止法を守っているファンのようにまったく興奮しなかったのだ。そのドラッグが届けられるまでにはかなりの年月がかかった。

(※アインシュタインの特殊相対性理論の重要性にいち早く気づきアインシュタインの推進者の一人となった)ドイツの物理学者マックス・プランクが、光が「量子」と呼ばれる不連続の小さな単位で存在すると仮定したうえで計算しなければ、高温の物体(赤熱した鉄など)が放つ光の色を説明できないことを示した。当初プランクはこれを、正しい答えを得るための単なる数学上の小技だと思っていたが、一九五〇年になるとアインシュタインが、実際に光が量子化された小さな塊として存在していれば、「光電効果」という不思議な現象を説明できることを示す論文を発表した。別のいい方をすれば、光は粒子の流れだということだ。この粒子は光子と呼ばれている(※実際には、粒子などというものは存在しないとさえいえる。宇宙の真の構成単位は流体のような量子場という振動。場とは空間のあらゆる点において一つの数値を持つ数学的対象)(中略)くりこみ群というのは、ある系をズームインしたり、ズームアウトしたりしたときにどう見えるかを示す数学的概念(中略)系がより長い距離スケールでどう振る舞うかを知りたい場合に、短い距離で何が起こっているかはある意味では重要ではない(中略)ニュートンは惑星の動きを解明するために、クォークについて知っている必要はなかった(中略)つまり、プランク長(※マックス・プランクにより名付けられた単位)のスケールでの宇宙の基本的な材料がなんであるかは重要ではない ※引用者加筆.

不確定性原理によれば、実際の電子の位置をおおよそ原子の大きさに相当する精度で測定すると、その電子の速度は時速およそ一〇〇〇キロメートル以上の精度で決定することはできない。静止しているのか、あるいはジャンボジェットより速く運動しているのかがわからないのだ(中略)量子論の理解が深まるにつれて、量子の世界には確実な事柄など一つもなく、確率しか存在しないことが明らかとなっていった。つまり、「確かにこれが起こる」ではなく、「きっとこれらのうちのどれかが起こるかもしれない」ということだ。ニュートンの世界観では、未来または過去のどんな瞬間における宇宙の状態も、現在の宇宙に刻み込まれており、十分に知能の高い人ならニュートンの法則を使ってそれを読み解くことができるとされている。地球の内部に関する十分なデータがあれば、地震を予知できる。気象に関するあらゆる物理的詳細がわかれば、原理的には、明日、または一〇〇年後に雨が降るかどうかを確実に言い当てることができる。ニュートン科学の中核をなすニュートン的「決定論」は、一つの出来事が次の出来事を引き起こしてそれが次々に続いていき、すべて数字を使って予測できるというものだ(中略)しかし量子論によると、そもそもこの世界は、万物を構成する原子や粒子という基本的レベルでは決定論的ではない。宇宙の現在の状態から未来(および過去)の出来事を決定することはできず、いくつもの相異なる未来がそれぞれ起こる(およびそれぞれの過去が起こった)確率でしか決定できない。この宇宙はビンゴゲームのようなものであると、量子論は言っているのだ。こうした考え方に対してアインシュタインは、ボルンに宛てた手紙の中であの有名な言葉を書き記した。「[量子論は]かなりのものを生み出すが、創造主の秘密にはほとんど近づけない。創造主がサイコロ遊びをするなどとはどうしても信じられない」アインシュタインが神の概念を「創造主」(Old One)と表現しているのは何とも興味深い。アインシュタインは、聖書にあるような旧来の人格神の存在は信じていなかった。アインシュタインにとっての「神」は、我々の人生の私事に介入する存在ではなく、美しくて論理的に単純な宇宙の法則を象徴するものだった。だから、アインシュタインの「創造主はサイコロ遊びをしない」という言葉はすなわち、自然の壮大な体系でランダムさが役割を果たしているという考えは受け入れられないという意味である。

LHCの人たちは、超対称性や暗黒物質が発見されることを約束していたが、少なくとも今のところ、彼らは約束を果たしていない(中略)今から数十年後、未来のコライダーが超対称性粒子を発見したり、あるいはヒッグス粒子はもっと小さな構成単位からできていることを明らかにすることがあれば、還元主義が長く続けてきた行進はさらに続くだろう。前と同じように、私たちは世界をより深く見ることで、もっとよく理解したといえる。しかし、奇妙に思えるかもしれないが、一番わくわくする結果は、そうした巨大なコライダーがまったくなにも発見しない場合だろう。超対称性粒子も余剰次元も見つからず、ただありきたりの昔からある基本的なヒッグス粒子だけ。そして還元主義は破綻して、私たちの住む世界を理解するためのアプローチ全体が根本的な再考を迫られるだろう。あなたは不思議に思うかもしれない。理論家に頼んで、私たちが新しいものをなにも見つけないことを前提としたうえで、その状況に対処する方法を考えてもらえばいいのではないかと。問題は、古い体制をひっくり返す必要があることをしっかりわかっていなければ、革命は始められないことだ(中略)宇宙がどうやって始まったかは決して解明できない可能性がある(中略)プランク長という小さなスケールで何が起こるかを調べるために究極のコライダーを建設しても、非常に多くのエネルギーをそんな小さな空間に押し込めれば、二個の粒子を衝突させてブラックホールを作るはめになる。ブラックホールの内部は「事象の地平面」と呼ばれる防壁に囲まれていて、そこからは光さえも抜け出せない。その結果、プランク長で何が起こっているかは、事象の地平面の向こうに隠れてしまう。それならばと、粒子衝突のエネルギーをさらに高くすれば、問題はもっとひどくなる。もっと大きなブラックホールができるだけだからだ。

ブラックホールは、そもそも一般相対性理論の解として登場した理論的な概念だった(中略)恒星進化の最後に形成されるいわゆる恒星ブラックホールのほかに、質量が何桁も大きな超大質量ブラックホールが、いくつかの銀河の中心に存在することが明らかになった(中略)これらの超大質量ブラックホールは太陽の一〇〇万倍から数十億倍の質量を持っているという。今では、ほぼすべての銀河の中心に巨大なブラックホールが存在すると考えられている(中略)熱力学とカオス理論は、未来は究極的には、そして実際本質的に、予測不可能だという洞察をもたらす(中略)不確定性原理によれば、一つの粒子のさまざまな値は決して正確に測定されることはなく、また、一つの粒子を測定するという行為はすべて、その粒子の状態を変えてしまう(中略)重力はいまだ理解されていない最後の力(中略)重力は意固地に抵抗を続けていた。重力は、統一理論への道を阻む大きな躓きの石だった(中略)キリスト教もイスラム教も、楽園(パラダイス)あるいは天国(ヘブン)があり、さらに死後の生があると教える。ユダヤ教には二つの異なる立場がある。一方は魂の不死を仮定し、魂は死後も生きて、神のもとに帰るとする(中略)仏教徒とヒンドゥー教徒は、我々は何百回も生まれ変わると信じる

原子核と電子の間の空間は縄張りみたいなものがあって入れないんだよ、お互い。無理矢理入るとドカンと爆発するのね。───それが原子爆弾(中略)核融合ね

ワザをかけられた人間の大半は、神が存在するしないにかかわらず、神の存在を信じるようになります。その結果、社会が維持されてきたというのが西洋の歴史だと思っていただいてよいでしょう。なぜなら、本章の冒頭で紹介したように、それが脳にインプットされてしまうと、神の情報が脳の情報に変わり、それが真実であるか否か、情報の出所がどこなのかという点は、いっさい無関係になるからです───苫米地英人博士(著書名失念)

釈迦の悟りがヒンドゥー教に変容したものがブラックホール。


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