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流行り廃りの先にあるもの

 流行り廃りって確実にあるよな、という話。

 あんなに熱を帯びていた好きなバンドへの愛が、気がついたらそんなことあったなぁなんて思い出す程度に冷めていたり。二年前に好きだったあの人のことを今思い返してみても、なぜ、あんなヤツに熱を上げていたのだろうかと、まったく見当もつかなかったり。知名度が欲しい(単なる承認欲求)と思い、YouTubeのVlogを上げるのに熱心になっていたり(見返して恥しか感じないものは全て非公開にしたw)。

 だからこそ、すべてのことは今しか推せないしやれない。ほっかほかの好きだという気持ちを、そこだけにフォーカスすることが叶う情熱を、ちゃんと今まさにここで抱き締めてあげたらいい。昇華してやったらいい。すべてはそうやっていつか必ず変化していくものだから。
 諸行無常の理。今目の前にある愛着や愛おしさが、いつかなくなってしまうという事実に寂しさを覚えないではないが、どこまでも変わらないものなんてつまらないとも思うから、変化という刹那はあってもそれこそが人生の輝きだな、とそう思う。

 そういうわけで、僕は今まさにとあるものにお熱である。
 僕が熱を上げることが多いのは、物質的かつ無機質な「モノ」よりも、特定の誰かであったり特定の思想であったり、なにかを作り上げる創造や表現などの行為であったりする。
 思想というのは少々判然としない曖昧なものであるから妄信に至ることはないが、未知に触れるワクワクとした面白い体感があってよい。新しい考えや視点を得て自分の視野や世界が広がっていくのは楽しい。正しさというのは、存在の数だけあるのだな、と知って、世界に対する許容も広がる。すべてあって良いんだな、間違いなどないのだな、と。


 うん、まあこんなふうに話がよく飛躍してしまうのだがそれはさておき、今お熱になっているな、とふと俯瞰して自覚できるタイミングがあったので今日はこれを書いている。

 お熱になってからしばらくというもの、僕は自分の内から湧き上がる感情に翻弄されていた。まさしく右往左往という言葉があっていると思うほどに、もともとあった至極穏やかで優しい愛にも似た感情が、変容するキッカケ、つまり熱を上げてしまうタイミングというのを持ってしまったのだ。

 しかしお熱状態を俯瞰して自覚できた今、僕はこれがただの承認欲求から来る愛されたい願望だとか、示された好意(少なくとも嫌悪ではない温かい類のもの)に対するいわゆるミラーリング的な好意の返報性から来る想いであると理解できる。

 「モシカシテボク、、スキニナッチャッタノデハ?!」だなんて思った瞬間もあって、好きなら相手にも好きでいてほしいとか(当たり前)、冬のせいか寂しさ故にもっと抱き締めて欲しいとか(枯渇)、返事が来るのを期待して一喜一憂してみたりだとか、どうせこんな僕では愛されないとか、過去のコイビト達への嫉妬!とか、、なんだか本当に色々考えてモヤモヤしてしまっていたけれど、甚だ勘違いだな。と。

 まあでも、恋というのは勘違いのオンパレードなので間違ってはいないのかもしれない。けれど、それを自覚できるくらいには違和感のある感覚だったということ。そう、きっと恋ではない。
 きっと、というのは、あまり感情を定義しすぎるのも違うと思っていて、それこそ移り変わっていくものであるし、関係性も変容していくものだからである。決めつけてしまうにはもったいないのだ。期待も少し残しつつ。僕はエゴの塊だ。

 甚だ勘違いなのはそれが、真に相手に対する愛情かといわれるとそのお熱に限って言えば現状そうではないはずだからだ。間違いなく、本能的反射的に起こるものであった。それは致し方ないことのように思う。母性なり、父性なり、性欲なり、承認欲求なり、様々なものが反応した結果である。きっと相手も同じことのはずだ。
 誰も悪くないし、少なからず自分の中の感情に変化が起きたからといって、自ら関係性を壊す必要も終わらせてしまう必要もないのだ。相手がそれを望むのなら話は別として。


 それと同時に気付いたことがあった。僕がそのお熱の相手「君」に対してもともと持っていた、「至極穏やかで優しい愛にも似た感情」をひとつも失っていないことだった。

 僕は君に対して、果てしなく温かい気持ちで、まなざしで、見守りたいような本当に穏やかな感情を持っている。君がやることを応援したい、何かできるなら力になりたい、見返りを期待しなくていい感情なのだ。

 君に熱を上げてからの僕は、その穏やかな愛とは別の場所に芽生えた感情の上で君に求める要素ばかり起こしていた。
 それってやっぱりなんか違うな、苦しいし、全然あったかくないし、優しくもない。一方的で、身勝手で独りよがり、より一層寂しさが増してしまうような感覚じゃないか。そう思わない?

 僕が君に望むことは、君自身の生活や仕事、ひいては人生が、より一層に向上しよいものとなっていくこと、君が望ましいと考えるものを少しでも多く手にすること、に尽きる。その力になれることがあるなら、やりたいな。そっと遠すぎない距離から、お手伝いでもしながら見守れたらいいな、というような。

 そうであるならば、甚だしい勘違いは手放して、ただこの愛にも似た優しい気持ちに従うだけでいいな、と思う。そういう視点で見れば、君が持つすべての過去が今のその素敵な君を形作った。どんな過去すら尊い。嫉妬のような狭くて卑怯な感情は生まれないはずだ。

 こういう、びっくりするほど矛盾した真逆の気持ちがそれぞれ存在するのが、人間心理の面白いところだな、と思う。どっちが正しいのか、を常に選んでいるのは自分で、それぞれ捨てることも、捨てなくてもそのボリュームを下げることも可能だ。選ぶだけでいい。


 なぜ、君についてそこまで思うのかはわからない。あまり好ましくない言い方をするのなら、僕は君に対して執着しているのだろう。なぜこうも君のことばかりを考えているのか、よく自分でも理解していない。

 分からないけれど、僕は人と違う面白いことを堂々とやってのける人が好きなんだよね。自分にはないものを持っている人。
 僕自身は、何か面白いと思っても躊躇する隙をたくさん持ってしまっている。ためらって行動にブレーキをかけてしまうだけの心配事もそれなりに多い。持っている心配事に対処し終わったら、また別の何かに苛まれていたり。キリがない。

 だからそのブレーキが壊れている人、いや、そもそもブレーキなんてついてなさそうな人、ブレーキはあるけど踏む気がない人、踏まなければならないと分かっていながらも踏まずに突き進む人、なんせよ突出して動いていく人というのは面白い。構造が違う、と思う。そういう人たちから刺激や学びを得たい、とも思っている節がある。


 それでいて、君は僕の生きる感覚に近いものを理解してくれるという、僕にとっての強みも持っている。人としてちゃんと向き合える人というのは、きっとそういう感覚とかニュアンスみたいなところまで分かりあえる人だと思っていて、理解という段階まではいかずとも、その話をできる人だと思っていて。だから君に対する愛情に似た気持ちは、より尽きないし冷めない。そう思う。

 実を言うと、二年前に好きになってしまった人に対する想いというのも、初めはその人が行う取り組みへ対する尊敬の気持ちや、憧れにも似た感情や、それを手伝いたい一心だったものが変容し、勘違いを起こし、それを拗らせ続けた結果であったことをここに告白する。
 その人に対してはもっと、いわゆる色恋の要素の濃い感情を強く持っていたし(たとえばときめくような感覚とか、胸がきゅうとなる感じとか。今君に対してはそれは起こらない)、いろいろ没頭し染められてしまって恋愛感情に変容してしまったのだが。

 それも、ああ、流行り廃りの一部だった、と今になれば思える。何であんな酒癖の悪い、口の悪い、喧嘩っ早い、アラフォーのことをあれほどまでに好いてしまったのか本当に理解ができない。理解ができないけれど、事実、そうなったのだからそれも僕の歴史で、必ずこうして変わり続けて行くものなんだよね。

 だから、今感じている穏やかでこの先も長い間持続していくような気がする君への気持ちというのも(揺らいだうえで根底に残っている愛に似た温かい方の気持ちのことだよ)、きっとどこかで何かしら変容していく。
 気持ちのみならず、君自身が、僕自身の生活が、がらりと変わるタイミングというのは突然訪れたりするもので、そうなると付き合う人たちも、たとえばルーティンも、性格ももしかしたら多少なり変わる。今までのようには話せなくなるかもしれない。会わなくなっていくかもしれない。だけど、そういうものだし、それでいいんだ。


 きっとここまでに書いたような流行り廃りを経ても継続している関係性というのは、いくら互いが変容していこうとも変わらず穏やかな愛を持ち続けられる相手同士だということだと思う。そういう人はそう多くはない。もしも君がそういう存在になるのなら、それはそれでとても嬉しいし、そうならないのならそれもそれで正しいのだし、結局流れに任せる以外にはないのかもしれない。
 いやまあ、継続していくことを望むのであれば、流れに乗るだけでなく努力や歩み寄りや思いやり、それからある程度の距離感が必要だと思うけれど。
 


 なんにせよ、僕たちはまだまだ黎明期であるといえる。お互いに知らないところも多い。相手の過去、汚いところ、見たくないところ、理解しがたいところ、そういうところを知ってしまったときに、それをも含めて許容できるのか。それとも、別に許容なんて言葉が要らないくらい、ごく自然にこれから先も受け入れていけるのか?それがとても関係してくると思う。

 知らない状態のままで嫌悪するところばかり増えればきっとお別れは近い。しかしもっと色々知った上で、嫌悪するところがあってそれでも一緒にいたいとか、一緒に自然といられるのなら、継続していく関係性になりうるのかもしれない。


 流行りというのは本当に一時的なブームであり、一瞬の輝きであり、楽しいし美しくもあると思う。必ず衰退し消え去っていくことを知っていても、流行りが起きることを止めることはできない。だからその一瞬の素晴らしさをまずは味わっていけたなら、それだけでも十分に素敵なことだなと思う。

 すぐ果ててしまおうと、まだこれからももう少し進むことができようと、これから先も長い時間持続する関係性を築くことができようと、どうでもいい。いい意味で、どうでもいいのだ。

 ただただ優しくて温かい気持ちで、これからも僕は君のこと、応援しているね。ただただそう今は思っているんだ。


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