見出し画像

誰かを「安易に政治化しやがって」と冷笑するその前に、サブカル/オタクがやっておくべき自己点検について

先週の6月9日(日)に、銀座の単向街書店でトークイベントに出席した。ここは中国の書店の東京支店で、扱っているのは主に中国で出版された中国語の書籍だ。しばらく前に、僕の『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』という、その名の通り大学の講義を再録した本が翻訳出版されたので、その刊行記念イベントとが開催されたのだ。

会場に集まったのはほぼ中国の人たちで、特にマンガやアニメやゲームを研究する若い留学生が目立った。会場でも、その後の立ち話でも充実した意見交換ができたのだけれど、今日はそれに関係して考えたことを書いてみたい。

それは「オタク」という主体の在りかた、についてだ。世の中には、この21世紀になっても「オタク」的なものを叩いて、自分たちを正当化したいと考えている「サブカル」おじさんもまだいるようだけれど、さすがにいまさらこのレベルの人を相手にする必要はないだろう。

僕が考えているのはもう少し歴史的なことだ。つまり、中森明夫が「80年安保」と呼んだ80年代前半のポップカルチャーの爆発の仮想敵は60年代の「政治の季節」のメンタリティと70年代の「シラケ」とときに形容されるニヒリズムだった。これらに対して「80年安保」では「遊ぶ」ことこそが時代への知的なコミットメントであり、そしてそれは表面的には非政治的であるからこそ倫理的で、そして一周回って正しく「政治的」であるとされた。

このとき、都市のライブカルチャーと受け手のナルシシズムに依拠したものが「新人類」的なものと呼ばれ今日の「サブカル」のルーツになり、全国区のメディアカルチャーと受け手のコンプレックスを基盤にしたものが「オタク」的なもののルーツになった。今日においては、後者が前者を量的にも質的にも圧倒しているために、前述の「オタク」を攻撃することで「サブカル」を正当化する……といったメンタリティも発生しているようだが、当然問題はそんなところにはない。そもそもこの種の人たちはそういう「勝った」「負けた」という次元で文化を見ている時点でいろいろ(知的にも、誠実さ的にも)ゲームオーバーなので、他の生き方を探したほうがいいだろう。

で、僕が気になるのはこうした80年代的な「文化」が、2010年代的な「政治」化の中で変質してしまった点だ。「比喩的な言い方をすれば」サブカルが放射能と反ワクの温床になり、オタクがヘイトスピーカーと歴史修正主義者の温床になってしまったという問題だ。要するに「文化」に退避して「政治」を回避してきた結果免疫をつけられず、日本の政治経済的な停滞と自身の高齢化を前にしたとき、その不安からあっさりとイデオロギーに依存してしまった人たちが大量発生した、というわけだ。

「サブカル」的な自意識とナルシシズムは左翼的なものと、オタク的なコンプレックスは右翼的なものと親和性が高いのはもはや自明なのだけれど、これらを「安易に政治化しやがって」と冷笑しても、彼らをそこに追い詰めた社会状況が改善しない(冷笑するその人のプライドしか救われない)ことは肝に銘じておく必要があるだろう。

結論から述べると、僕はサブカルチャーを「サブカル」的なナルシシズムや「オタク」的なコンプレックスから離陸させることを考えるべきだと思う。「それを取ったら何ものこらなくなるのでは」と思った人がいたとしたら、それはあなたが無知と無思慮に開き直っている証拠だ。

で、僕はどうするべきかと言うと、これらの80年代のポップカルチャーをルーツに持つ文化(に依存する主体)を批判的に検証して、そのポテンシャルをしっかり引き出す、といった作業が必要だと思うのだ。

たとえば、「オタク」について考えてみよう。いわゆる「ネトウヨ」的な感性の背景にこじらせた男性性の問題があることは自明だと思う。しかし、「オタク」的な表現は性的なコンプレックスに依存したものばかりだろうか?

ここから先は

972字
僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。