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「東京という地方」の役割は「(まるで)日本ではない場所になる」ことではないかという話

さて、昨日に引き続き「地方」について考えてみたい。僕は昨日述べたように都会のスローフード趣味の人や、資本主義批判が手段ではなく目的になってしまっている人たちが、弱者のケアを忘れて「共同体」とか「贈与」とか、そういったものを持ち上げてウットリするパフォーマンスには軽蔑以上のものを感じていない。

その上で今回は「地方」をどうするかという話をしたい。

結論から述べれば僕は人口30〜50万人クラスの中核都市への集中以外に選択肢はないと思う。その外側に暮らすのは、基本的にその土地の自然と文化を守るために生きている人たちだけでよく、それは極めて少数の人口になる。

そしてそこは極めて不便な場所にならざるを得ない。少なくとも従来のインフラは維持できない。しかし国家はそれでもその土地に残る人たちに敬意をもち、必要なことは「特別に」なんでもするべきだ、というのが僕の考えだ。

比喩的に述べれば1回数百万円かかっても、いざというときはためらいなくドクターヘリを飛ばす、という発想が必要になる。それくらい、固有の自然と文化には価値があると考えるべきだ。そしてそれでも、今のレベルでフルスペックのインフラを維持するよりは安上がりにできるだろうし、それ以上にまったく土地に由来のないタイヤ工場やセメント工場を誘致して「雇用」をつくったり、実質稼働率10%台のそれっぽい和モダン木造建築のコミュニティーセンターとか、廃校利用のスローフード施設を何十億円も税金をかけてつくって「経済を回し」て人口を維持する……というグロテスクな現状よりはマシになるだろう。

その上で、今日改めて論じるのは「東京」という「地方」だ。

都知事選が近いのだけれど、行われているものは表面的なイメージ合戦で(まあ、集票を考えたらそうなるし、実質2人以外は売名で出ているのでそうなるしかないのだが)議論の多くは無意味なものに終止している。要するに「東京をどうしたいのか」という議論が「いや、それは誰が知事やっても同じ当たり前のことでしょ」といったレベルのものをなかなか超えないのだ。

で、いち都民として考えてみたのだが、僕の考えは要するに「東京だけが〈日本的〉じゃない場所になる」ということだ。

東京では男尊女卑もないし、東京では「飲みニケーション」なんて悪しき慣習を強要されないし、東京ではさびしいおじさん管理職やオーナーのケアのために出勤させられないし、東京では首長の出身高校を気にするような人は軽蔑しかされないし、東京では町内会に入らないとゴミ捨て場を使わせないなんてイジメはないし、東京では「転職」が悪い事のように言われないし、東京では多様な性が前提になっているし、東京では婚外子が差別されないし、東京では外国人が排除されない。そして東京にはPTAがない……。

要するに僕は「さすがに東京に出れば日本の昭和的な部分が全部キャンセルされている」というのが、一番価値を持つと思うのだ。日本の「嫌なところ」「古いところ」が東京だけでは全廃されている。これがいちばんいいビジョンだと思う。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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