地方は「都会のスローフード好き」のためのテーマパークをつくるよりも「平成」的なライフスタイルを更新するほうが先決なのではないか、という話
ここ数年、僕は都市開発や地方創生に関係する仕事が多い。2019年から参加したMSDと、その中間報告として昨年編集した『2020年のまちづくり』もそうだし、「庭プロジェクト」もそうだ。今月の26日には渋谷ヒカリエで下記のようなイベントも主催することになっている。
さて、その上で今日考えてみたいのは「都市」と階級の問題だ。
たとえば、地方創生について意見を述べるとき僕が一番気をつけているのは、それが「都会のスローフード好きの人の嗜好を押し付ける」ような提案に「ならない」ことだ。僕自身がいまやその類の、つまり「都会のスローフード趣味」に当てはまらくもないことは自覚していて、それを忘れてしまうとオリエンタリズム的に地方を「スローフードのテーマパーク」として消費してしまいかねないと思うからだ。
僕は別に「ファスト風土化する郊外」と揶揄されがちな自動車網と大型店から形成される地方都市が素晴らしいとは思わない。しかし、そのオルタナティブに東京からスローフードを求めて来た人が満足する「シグネチャーな食を堪能できるレストラン(客単価は港区水準)」や港区オヤジが泣いて喜ぶ「イケてるサウナ施設」みたいなものがなるとは到底思えないのだ。
要するにこれは地方はリゾート的、テーマパーク的に都会のクリエイティブ・クラスを接待し得る施設をつくり、カネを落としてもらうというモデルだ。身も蓋もない言い方をすればそれは「植民地」経営的な発想の産物だ。もちろん、昭和の土産物屋と「旅館」がひしめく昭和の観光地よりもそれははるかにその土地の自然と歴史を活かしたものになるのかもしれないし、その意味で「マシ」なのかもしれない。しかしそれははっきり言えばその土地の人々をこの国の「下級国民」として扱う危険思想と紙一重で、いち地方出身者として到底支持できるものではないと僕は思っている。
では、どうするか。
結論から述べると、僕は本当にやるべきことは「ファスト風土」を揶揄されがちな、この国の地方の風景とライフスタイルそのもののアップデートに他ならない。そしてそれは、既存の地方社会の教育や一次産業を中心とした土着のネットワークの解体縮小を前提とする。
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u-note(宇野常寛の個人的なノートブック)
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