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わたしのペースで、すきなことを。

『なにか好きなことはありますか?』
『趣味はなんですか?』

学生の頃、この手の質問には即答することができた。
なぜならその時々でいろいろなことにハマっていたから。

絵を描くこと。
文章を書くこと。
写真を撮ること。
映画を観ること。
ドラマを観ること。
美術館に行くこと。

むかしハマっていたことを書くとキリがない。

でも、今は?

今、質問されると
とたんに回答に窮する。

だって、わからないから。
自分が何を好きなのか。
どんなことが趣味なのか。

いや、好きなことはあるにはある。

料理を作ること。
マンガを読むこと。
ドラマや映画を観ること。

文章を書くことや絵を描くことは、
今でもやっぱり好きだ。

でも、それが趣味なのかと問われると
「趣味レベルではないのかもしれない……(ゴニョゴニョ)」
と弱気になってしまうのだ。

だって、どれもこれもなんとなくやっていることで、
「私はこれが好きだ!楽しい!最高だ!」
という気持ちからやっているわけではないように思うから。

子どもができてから、
【思いっきり好きなことをやる時間】がほとんどなくなったのも大きい。

絵を描くことにいたっては、
「たぶん好き」
という気持ちがそこにあるだけで、実際に描いたりはしていない。

だって、ほら。
「やりたくてやりたくてウズウズして、
気づいたらもうやっていたんだよ!」
趣味と言うには、そうした強い気持ちが必要でしょう?

「人からどう見られようと関係ない!」
「私は好きなんだ!」
この気持ち。


……そう。
私はついつい人の評価が気になってしまう。
評価を求めてしまっている自分がいるのだ。

何か発信してみても人の目が気になる。
『こんなこと言って、なんだコイツとか思われないかな』
『反応してもらえるかな』
こんなことばかりが気になり、挙句の果てにその発信を取り下げたりする。

子育てをしていることもあり、
時間が限られているのも自分に素直になれない一因だ。

『こんなことしてる時間あるかな……』
『家事も子どもの相手もあるんだ、無駄なことはできない』
こうした思いから、自分が子どもだった時にハマっていたことや
おそらく今自分が好きであろうことになかなか手が出せないでいる。


やりたいこと、好きなこと。
本当はもっと純粋な気持ちでやっていいのに。

「私が、やりたいと思った」
たったその一言が行動する理由でいいのに。

大人になってからの私は、
どうにも余計なことをグルグル考えてしまうようになってしまった。


こんな話を行きつけの整体院の整体師さんにしたら、
おもしろい言葉が返ってきた。

「誰かにとっては価値のあることかもしれないのに、
その価値を自分で勝手に無価値と判断して発信しないのは
もったいないんじゃないかな」

誰かにとっては価値がある?
自分で勝手に無価値と判断している?

この発想はなかった。
だって、【価値なんてない】と思っていたから。

でも、言われてみると確かにそう。
どうして価値がないなんて言いきれるのか。

もう自分には必要ないと思って、フリマアプリに出したものを
欲しいと言ってくれる人がいるように。

もしかしたら私の発信に興味をもってくれたり
共感してくれる人がいるかもしれないのだ。

「いやぁ~……自分の発信なんて……」
と出し惜しみすることは、とんでもなくケチなことなのかもしれない。

そしてなにより、
もっと自由でいいのではないかと思った。

人の目を気にせず、もっともっと発信していい。
好きなことをしてもいい。

整体師さんのひと言から
どんなに拙い言葉でも
どんなに未熟な絵でも
発信してみていいのかなと思えるようになった。

だれかひとりでもいい。

私の発信で、何かすこしでも心をつつくものがあれば。

ささいなことでいい。

私の発信が、誰かの何かをほんのすこしだけ動かすきっかけになれば。


いや、むしろ何にもならなくてもいい。
私がやりたいからやったという行動の結果であり、
発信することは、私がいまここにいるという証。

その証を残せるだけで、本当は充分なのかもしれない。

だから、今度からもっと発信してみようと思う。
長年の「私の発信なんて……」という考えグセはなかなか抜けないけれど。
すこしずつ、私のペースで。
好きなことを、やっていこう。


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