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粉河酢編

▼唐突ですが、明治後期の健康談義から。

記者 「先月のお話に、自然生は肺病の薬にもなるし虚弱な人の強壮剤にもなると伺いましたから、私は毎日すり芋を三杯酢にして頂きました。しかるに十日も続けたら飽きてしまって仕方がないのを無理に我慢して食べていますと、だんだんお腹が張ってきていけません。あれはどうしたものでしょう」
夫人 「なにもお嫌なのを我慢して三杯酢ばかりにして召し上がるに及びません。煮汁の上にすり芋を載せても山かけになさっても、お料理をお替えになったほうが飽きません。それに三杯酢よりも煮汁に載せたほうがたくさん食べられます」
記者 「三杯酢にしたものをたくさん食べると後で胸が焼けたり、喉が渇いたりしますがどういう訳でしょう」
夫人 「いつでも酢の物を食べ過ぎるとそんなこともありますが、一つは酢が悪いといけません。近頃の酢は品質が悪いものばかりで、ビールや葡萄酒の腐ったのをみんな酢にこしらえるそうですし、中には酢酸と塩を加えた酢もありますし、品質の良い上等物が容易に得られません。悪い酢のお料理を食べると、後で喉が渇いたり胸が焼けたりします」
記者 「お宅ではどんな酢をお使いになりますか」
夫人 「宅では與兵衛寿司の山下さんから教わって、尾州の山吹酢を使っております。紀州の粉川酢も至極良いそうですが、まだ使っていません」
記者 「酢の品質が悪いようなら、なるたけ酢の物を食べない方がようございますね」
夫人 「ところが酢の物は身体に必要なもので、殊に魚を常食とする日本人は魚のアルカリ性を中和させるために、ぜひとも酢を食べねばならんと申します。海岸の地に寿司屋が多いのも、自然とその訳から来ているのだそうですネ」
記者 「季節によっても、酢を食べる必要がありましょうか」
夫人 「春から夏にかけては、のぼせを引き下げるために酢のお料理を食べるのが良いと申しますが、全体日本人の食物には酢の分量がまだ足りないと、胃腸病のお医者がお話なさいました」
(『弦斎夫人の料理談:第三編』130-132頁)

▼ということで、このページでは「粉河酢」を取り上げます。


1.酢(食酢)とは何か

(1)食酢の定義と分類
▼食酢とは、主に酢酸を含む酸性の調味料のことと定義されます。
▼食酢の製造原理は、①まず、原料となる米や清酒などに適量の水を加えるとともに適度な温度を保持することによって糖化作用(原料のデンプンが糖に変わる)が生じます。②次に、麹(こうじ)という微生物(カビ)を入れると原料の栄養分が分解されて酵素ができ、その酵素が酒精発酵を起こすことによって酒精(発酵アルコール)が生成されます。③そして、その酒精に酢酸菌を繁殖させることによって酢酸発酵を生じさせて酢を生成する、というものです。糖化・酒精発酵・酢酸発酵という3つのプロセスが同時連続的に行われるために人為的なコントロールが難しく、製造家には高い醸造技術が要求されます。これを科学的・化学的にではなく、非科学的・経験的に利用してきたのが日本の食酢醸造の深みといえるでしょう。
▼食酢は日本だけでなく世界中に存在しますが、日本の食酢と海外の食酢(ビネガーなど)の決定的な違いは原料が異なることで、日本は米から、海外は酒から食酢を作ります。食酢の起源は、酒を自然に放置したことにはじまるようです。海外の話は、わずかこれだけで終わりです。以下は、もっぱら日本の食酢の内容となります。
▼食酢は、大まかには米酢粕酢酒酢酒精酢酢酸酢(合成酢)の5つに分類されます。

①米酢(こめす、こめず)
▼米を原料として醸造した食酢のことをいい、主に関西以西の西日本で需要があり、製造されてきたものです。
▼製造方法の概略は後述します。

②粕酢(かすす、かすず)
▼酒粕を原料として醸造した食酢のことをいい、主に愛知県下で製造され、関東地方を中心に中部以東・以北で需要があったとされています。
▼製造方法の概略は、新鮮な酒粕に適量の水を加え、種酢を加えて酢酸発酵させると粕酢が出来上がるというものです。まず、酒粕を貯蔵することから製造プロセスが始まり、貯蔵された酒粕を使うというのが原則です。これは、酒精(発酵アルコール)が貯蔵中に増えて酢酸取得量が増えるからで、発酵性の成分が増えると食酢のエキス分や酢酸が濃厚になって良質の食酢が得られるといわれています。

③酒酢(さけす、さけず)
▼清酒を原料として醸造した食酢のことをいい、通常の清酒醸造法によって醸造した醪(もろみ)の上澄み液や搾汁を適量の水で希釈し、種酢を加えて酢酸発酵させるというものです。また、原料として腐敗酒を用いることもあるようです。昔、中島らものエッセイに「酒が腐ると酢になる」と書いてありましたが、それはあながち間違いではなさそうです。
▼例えば、普通の清酒を開栓し、適当に希釈して数日間放置しておくと、液面に被膜ができて酢酸臭がするようになります。これは、空気中に存在する酢酸菌が希釈液に繁殖し、酒精(発酵アルコール)が酸化されて酢酸になるということです。

④酒精酢(しゅせいす、しゅせいず)
▼酒精(発酵アルコール)を原料として醸造した食酢のことをいい、まず蒸留によって強濃度の酒精を作り、これを水で薄め、酢酸菌を添加して酢酸発酵させるというものです。この方法は、酒精だけでなく腐敗酒、醪、既にある食酢、酒粕を添加するなど、独立した製造法ではなく、どちらかといえば混合醸造法といえるでしょう。
▼それゆえ、酒精酢の市場での評価は低く、品質も米酢、粕酢、酒酢より劣等とされていますが、なにしろ製造コストが安価で済むため、戦前は広く流通したようです。

⑤酢酸酢(さくさんす、さくさんず)
合成酢ともいいます。酢酸の希釈液を原料として、これに調味料や香料、着色料等の添加物を加えて醸造酢に近い風味を持たせた食酢のことをいいます。酢酸酢の製造は、単に調合するだけなので醸造設備が不必要となり、製造コストが安価で済みますが、戦前の酢酸酢のクオリティは最悪で、醸造酢とは到底比較にならないといわれていたようです。
▼鈴木は、昭和初期の酢酸酢を以下の点で酷評しています(鈴木 1936)。

■原料の酢酸に木酢(氷酢酸)を使っているので香りが辛烈
→醸造酢のような温雅な香りがない
■エキス分が少なく、いわゆる「コク」に乏しい
■旨味に乏しい
→アミノ酸その他の含窒素物を含んでいないから
■酸味が鋭いだけで滋味がなく、かつ揮発しやすい
→グルコン酸、琥珀酸等の非揮発酸を含んでいないから
■液が分離し、渾然と調熟しない
→各種調味料を混合しているだけだから

(2)わが国における食酢醸造略史
▼食酢は5世紀前後に大陸から日本に伝わり、その後、701(大宝元)年の大宝律令で設けられた造酒司(みきのつかさ、さけのつかさ)という酒製造担当の行政担当部署が食酢の製造にも関与していたようです(小松・下出 2007)。律令期に食酢が調味料として使用されていたのはほぼ確実で、梅酢のようなものではないかと考えられています。当時の食酢は塩と同じくらい貴重なものとされており、それは「塩梅」という単語にあらわれています。また、平安時代の法令書である『延喜式』(927(延長5)年)には、米と麹を使って酢を製造するという記載が残されていることから、この時期に既に米酢が存在したとみられています。さらに、食酢は調味料としての役割のほかに食品の防腐作用があることから、近世までは鮮魚の保存料としても用いられたようです。
▼室町時代(1336-1573)には、それまで貴族や高僧、上級武士の間で食べられていた食べ物が大衆化し、また肉食が忌避されて魚介類を多く食べるようになるなどの理由から食酢の需要が高まったといわれています。食酢は、酒や醤油と同様に自家醸造を行うことができ、次第にそれを生業とする者があらわれます。なお、一日三食、主食が米、四季に応じたおかずといった日本の伝統的な食文化は戦国時代(1467-1590)にほぼ確立したようです。
▼近世初期(1500年代)における食酢の名産地は和泉酢(大阪府岸和田市、貝塚市界隈)で、江戸時代(1603-1868)には中原酢(神奈川県)、吉原善徳寺酢(静岡県)、田中酢(静岡県)が名産地に加わります。これら3つの酢を「三所の酢」といい、いずれも和泉酢をモデルに改良を加えたものといわれています。また、江戸時代の書物である『日本歳時記』(1688(貞享5)年)や『本朝食鑑』(1697(元禄10)年)には、酒、酢、水を混ぜて発酵させる方法が記載されており、この時期に酒酢が存在したことを示しています。
▼元禄時代(1688-1704)には、江戸を中心に外食産業(うどん、そば、天ぷらなど)が発達しました。その中で特にバカ受けしたのが寿司屋(握り鮨)で、寿司屋の酢飯に用いられたのが粕酢です。粕酢の主産地は尾張で、知多半島の半田では中野又左衛門という醸造家が粕酢を造り始め、これがのちの株式会社ミツカンに発展します。また、江戸時代から始まった食酢の使い方の一つとして「合わせ酢」があり、その具合によって調理の成否が決まるほど食酢は人びとの食生活における必須アイテムに成長します。
▼明治時代(1868-1912)に入って醸造技術の科学化、近代化の動きが出ると、米酢、粕酢、酒酢といった従前の天然酢のほかに酢酸酢(合成酢)という食酢のニューノーマルが登場します。その概要はさきに述べた通りですが、戦前の酢酸酢(合成酢)には、現代なら有害物質に該当するものも含まれていたようです。戦前の食酢醸造に関する文献を読むと、しばしば「奸商が酢を贋造して人をだます」といった内容に出くわします。多くは、食酢に水を混ぜる、硫酸を加えて酸味を付けるといったものです。特に後者の硫酸混入が問題で、戦前の食品産業はとかく加減を知らないので、社会問題化はしなかったものの身体を壊した人はいたはずです。
▼第二次世界大戦を挟んで、戦後は昭和40年代初め頃から公害問題が顕在化するに及んで有害食品が問題となり、その反動として自然食ブームが起こり、酢酸酢(合成酢)が売れなくなります。そして、天然酢回帰の時代が到来した後、食酢業界が健康を訴えかける大キャンペーンを展開したことから食酢を使った飲料水がバカ売れし、現在も「黒酢ダイエット」ブームが依然として続いています。マヨネーズやドレッシングなど、酢関連の新しい人工調味料が食卓を席巻し、最近は健康にも配慮した人工系製品が続々と登場しているにもかかわらず、天然酢は調味料業界で一定の地位を維持しています。

2.個人がやって成功するとは到底思えない食酢(米酢)の作り方

▼以上のような予備知識を踏まえた上で、自分で食酢(米酢)を作ってみようといろいろ調べてみましたが、はっきり申し上げて成功する気が全くしません。それどころか、条件を誤るとまずい酢になりますし、むしろ身体に悪そうな何か別の物ができそうな気がしてなりません。なので、以下の内容を参考にして何か悪いことが起きても管理人は免責されますし、そもそも素人が作るべきでないと考えます(余程の物好きでない限りは誰も作らないでしょうが…)。
▼まずはおさらいから。食酢の製造は、大まかには糖化作用、酒精発酵、酢酸発酵の3つを同時進行的に生じさせる、というものでした(既述)。このことをまず頭に叩き込んでおきましょう。
▼次に、食酢製造家たる者には「基本的な心得」があります。すなわち、食酢製造は清酒の製造と同じで「菌」を取り扱うため、使用する器具をこまめに除菌する必要があります。したがって、一度使った桶や器具は必ず洗浄し、熱湯消毒ないし煮沸消毒を行い、天日で乾燥しなければなりません。これが、食酢製造家たる者に求められる基本的な心得です。その一方で、「酢製造に使う桶は古いほど良い」とする心得もあります。使い込んだ桶は付着・繁殖している菌の状態が安定しているということなのでしょうか?管理人には全く理解不能です。
▼では、米酢製造のプロセスと留意点を整理します。

(1)麹の製造
▼原料となる蒸し米を糖化させるための麹を製造する。

①原料米を洗浄して糠、塵埃を除去する
・原料米は、通常は粗白米(そはくまい)砕米(さいまい)を使う。
→粉河酢は上質米を使っていたらしい。
・粗白米や砕米は、洗浄し過ぎると米粒が余分に削れてしまうので注意が必要。
→米をざるに入れた上で水を入れた桶に浸し、1~2回軽く振って洗浄する程度にとどめる。

②浸漬(しんせき)を行う
浸漬(しんせき)とは、原料米を良好な蒸し米にするために適量の水分を吸収させることをいう。
→要は、原料米を水に漬けておくことである。
・浸漬の注意点は以下の通り。
*水が硬水なら時間を長くし、軟水なら短くする
*米質が硬質なら時間を長くし、軟質なら短くする
*水温が高ければ時間を短くし、低ければ長くする
*玄米なら冬季25~30時間、夏季8時間前後
*半搗き米なら冬季20時間前後、夏季6時間前後
*砕米なら冬季3時間前後、夏季は洗浄後すぐ床上に厚さ約30㎝に堆積して10時間前後放置
*外国米なら浸漬時間を上記よりもやや長めにする
・粗白米や砕米は全体的に浸漬時間は短いほうがよい。
→「水を散布する程度でよい」と書いている文献もある。

③浸漬した米を甑(こしき)に入れて蒸す
・浸漬した米を蒸す目的は、米粒を柔らかくして麹菌の繁殖と糖化作用を生じやすくするため。

④蒸し米を甑から出して放冷する
・蒸し米を甑から出し、30~33℃程度に放冷する。
・粗白米や砕米は放冷時に外皮が硬くなり過ぎるので注意が必要。
→莚(むしろ)や藁を幾層にも巻いて水分の急激な放散を防止すること。

⑤製麹操作を行う
・放冷の後、蒸し米を麹室に入れて種麹を散布する。
・麹混入時に生姜を入れるとする文献もある。
・種麹散布後は、麹菌の繁殖が活発になって温度が必要以上に上昇する。
→麹の量を少なくしたり、堆積量を薄くするなどの工夫が必要。
→これをせずに放置しておくと有害細菌の繁殖条件(高温多湿)を整えてしまい、麹菌が消えたり弱くなったりする。
・その後、清酒の場合よりも製麹操作を少し長めに取り、「老麹」の状態にして麹室から出す。

(2)糖化・酒精発酵・酢酸発酵を生じさせる
▼蒸し米+麹+水の配合によってまず糖化作用が生じ、次に酵素が酒精発酵を生じさせ、さらに酢酸菌が酢酸発酵を生じさせる。

①蒸し米+麹+水の配合割合を決める
・配合割合は米質や麹の性質等によってさまざまに「加減する」必要がある。
・以下はあくまで一例。

■蒸し玄米4石5斗 ― 麹米1石 ― 水20石
■玄米飯5石 ― 麹米8斗 ― 水10石3斗5升
■蒸し玄米1石 ― 麹米4斗 ― 水3石 ― 種酢5合(種酢を入れる場合)
■蒸し白米3石 ― 麹米1石 ― 水10石 ― 酒母1個(酒母を入れる場合)

・蒸し米ではなく炊き米の場合は、糖化作用が起こりやすいので麹量を減らす。
・吸水量が多過ぎると酸量が低下して薄い酢になる。
種酢(たねず)酒母(しゅぼ)は、酒精発酵や酢酸発酵を促進するブースターとして投入される場合がある。
→但し、種酢や酒母の品質が悪いと、とんでもなくまずい酢になる。

②蒸し米と麹米と水を混ぜ、温度を30℃前後に保持する
・適温を保持するため、藁や莚で幾重にも包むか、暖気樽(湯たんぽのようなもの)を挿入する。
→「石を炭焼きして入れる」「鉄と石を焼いて入れる」とする文献もある。

③ときどき櫂(かい)を入れて攪拌する
・「10日後に種酢を入れて攪拌」「5日毎に攪拌」「一週間毎に攪拌」など、文献によりさまざま。

④酢酸発酵の完了
・「3か月前後で完了」「20~30日で完了」「30~40日で完了」「約7週間で完了」など、文献によりさまざま。

(3)仕上げ
▼液体部分の搾汁・精製を行う。

①透明になった混合液の上澄み収集と沈滓の搾汁
・酢酸発酵が終わると混合液が透明になるので、上澄み液を集めるとともに沈滓は袋に入れて搾汁する。
・沈滓の搾汁では圧搾機を用いる。
→3~4回行い、使う桶をその都度変えるとする文献もある。

②上澄み液と沈滓からの搾汁を合わせて貯蔵桶に移して完熟させる
・搾汁した酢液に水を混合し(酢1石:水8斗の比)、釜で125~130℃に加熱し、純良な桶に移し、蓋をして藁や莚で幾層にも包み15~16日置く。
→「10~15日」とする文献もある。
・このとき、下等品は食塩を加えて貯蔵する(純良品には混合しない)。

③完成

▼さて、この一連のプロセスを俯瞰して、ますますやる気が失せます。つまり、これら一連のプロセスには「さじ加減」のようなものが随所にあり、しかもそれを定量的に把握、コントロールすることが自家製の場合は難しく、それが醸造家の「匠」に依存する部分が多いのだと思います。
▼特に注意を要するのが温度管理で、麹菌の糖化作用の適温は50℃以上、酒精発酵の適温は28℃前後、酢酸発酵の適温は30~33℃で、これらを同時進行的に管理するのは大変厳しく、少し間違えば「腐る」状態に陥るというギリギリを攻めるところが神経質な日本人のものづくりなのでしょう。
▼また、菌をめぐる環境づくりも要注意で、普通の一般家屋には食酢と関係のないさまざまな雑菌があり、上記プロセスにしたがって食酢を作ろうとすると雑菌を繁殖させてしまう可能性が高いと考えられます(食酢醸造の専用室は麹菌や酢酸菌の繁殖条件が一定しているらしい)。

3.粉河酢の世界

▼和歌山県産の食酢醸造のうち、旧那賀郡粉河町(現紀の川市粉河)界隈で製造されていた粉河酢は、江戸時代(1603-1868)には局地的に名が知られた特産物でした。

▼『和歌山県誌』(1914)には、以下の記述があります。

 「粉河の銘産なり、其起源は明ならす。或いは伝ふ、花山法皇の伝によると、藩時代は頗る盛にして、御用酢と称し大に其保護を受け、諸方に積出すに二分口税を徴せらるることなかりき。製造家は麹屋、玉屋、室屋の三家に限られ、其他に於て製造せらるるを許さす、販路は若山より、大阪、大和、河内、泉州、淡路、阿波等にまて輸出せり、室屋は早く廃業して両家となれり。明治以後株の制廃せらるるや、営業者続出し、競争の結果粗製濫造に陥り、大に昔日の名価を損せり。」(『和歌山県誌.上巻』1305頁)

(1)粉河酢とは
▼粉河酢とは何かという定義はありません。歴史学では固有名詞や商標に関する定義や操作的定義というものを行わないらしく、単に「粉河で作られていた食酢だから粉河酢である」という暗黙の合意が研究者間に存在し、それで済むようです。
▼なお、粉河酢は粕酢であるとする文献がありますが、これは誤りで、正しくは米酢です。宮路は、現に粉河酢を製造している(していた)宇野氏と金澤氏(後述)からその製法を入手しています。概略は以下の通りです(宮路 1922)。さきに示した米酢製造プロセスと比べてみて下さい。

■原料は乾燥した良米である
・粉河酢は、紀ノ川筋で作られる上質米と紀ノ川支流の良質な伏流水で作る
■原料米5斗を炊き、これに麹8斗と水1石3斗5升を加え、容量約3石の仕込桶に入れる
■仕込桶の周囲を藁・莚で包んで約1週間放置する
■その後、仕込桶に暖気樽を挿入して再び蓋をし、藁・莚で包んで約1週間(※)放置する
・暖気樽は毎朝交換し、櫂入れ時の温度低下を防ぐ
(※)夏季は2~3日、冬季は12~13日
■最後の暖気樽を入れた後は密閉のまま放置し、発酵終了に伴う自然冷却を待つ
■その後、渋を塗った木綿袋で圧搾し、搾汁液が清澄になるまで繰り返す
・濾過された酢は既に清澄のため二重濾過の必要はなく、即商品化される

▼粉河酢の特徴は、短期間で発酵・熟成が終わることです(仕込みから商品化まで約50日以内)。そのため、年に何度も反復製造できるほか、複雑な製造設備を必要としません。

(2)粉河酢発達史
▼粉河酢の製造がいつ頃まで遡ることができるのかはよくわかっていません。「花山(かざん)法皇(968-1008)が西国霊場を拓いたときに製法を教えたことに始まる」とする言い伝えがありますが、これは「弘法大師が始めた」と同レベルの伝承であって信用できません。
▼実証性という点からすれば、粉河酢の発生時期は近世初頭(1500~1600年代)で、最も早くから酢醸造を生業としていたのは粉河の室屋で、元和年間(1615-1624)もしくは寛文年間(1661-1673)には既に紀州藩に粉河酢を御用酢として納入していたほか、和歌山城下と江戸に支店を持っており、江戸時代の粉河酢醸造におけるリーダー格であり続けたようです。室屋の当主は、永禄年間(1558-1570)に和泉国熊取から粉河に引っ越してきた八塚家で、一般農民ではなく苗字・帯刀を許された庄屋級の地士であったとされています(安藤1985)。そして、室屋はその中に本駒屋駒屋という屋号を持っており(八塚家の同族がそれを名乗っていたらしい)、室屋レーベルの粉河酢は実際には本駒屋と駒屋が製造していたようです。
▼1700(元禄13)年には、粉河酢を製造する同業者7名が集まって株仲間が結成されています。その同業者7名は以下の通りです。

■室屋九左衛門
■平田屋吉右衛門
■嶋崎屋次郎三郎
■田中屋次郎四郎
■大和屋市右衛門
■児玉三郎丞
■大屋千太郎

▼室屋以外の6名は、室屋に対して毎年礼銀を支払うという規約があり、これは室屋が他の6名に粉河酢の製法を伝授したからであるといわれています。
▼その後、明和年間(1764-1772)にこの株仲間は紀州藩からの保護を受けています。株仲間の意義は、公による権益保護と排他性です。しかし安藤は、紀州藩による粉河酢保護は微々たるもので、生産者が受けた利益は微々たるものであったと指摘しています(安藤 1963)。そのため、文政年間(1818-1831)以降は株仲間による粉河酢独占が崩れ、株仲間以外の者が公然と粉河酢を製造・販売するようになったといわれています(このことはまた、庶民が日常的に自家酢を製造していたことを示している)。
▼1841(天保12)年の段階で粉河酢の株仲間を構成していたのは、以下の3つの屋号です。

■室屋
■玉屋
■麹(糀)屋

▼1854(安政元)年には、粉河酢が江戸積御用酢(≒江戸藩邸で使用される酢)に指定されていますが、そもそも粉河酢の製造力は地産地消レベルで大量生産できるものではなく、少量出荷にとどまったようです。また、紀州藩から粉河酢の販路拡大を促されていたにもかかわらず、株仲間側はそれを断っているので、大量生産や資本の拡大等にはあまり関心がなかったのかも知れません。そのため、明治時代に入ると粉河酢の勢いは急速に衰えました。それは廃藩置県によって紀州藩の後ろ盾を失ったからではなく、酢酸酢(合成酢)の台頭によるものです。
▼『粉河町史』は、諸資料から明治・大正期における粉河酢製造業者を紹介しています(粉河町史編さん委員会編 1990)。

■1895(明治28)年
三宅進一郎(那賀郡粉河町)
■1909(明治42)年
・三宅進一郎
中林初三郎(那賀郡粉河町)
宇野太一郎(那賀郡粉河町)→玉屋(上述)の当主
神保喜市(那賀郡長田村北志野)
■1914(大正3)年
・宇野太一郎
■1918(大正7)年
宇野造酢本店(那賀郡粉河町。大阪市西区に宇野大阪支店、泉南郡貝塚町に玉屋貝塚支店があった)
金澤久太郎(那賀郡粉河町)
植村亀三郎(那賀郡粉河町)
■1921(大正10)年
玉屋宇野商店(那賀郡粉河町。大阪市と貝塚町に支店)

▼これらの人物・業者は代表的な専業者で、実際には下請け者や農閑期副業者等がいたはずなので製造戸数はもう少し多いと考えられますが、それでもせいぜい15軒程度といったところでしょう。
▼酢酸酢(合成酢)が普及し始めたのは明治後期(明治40年前後頃)で、味や質の問題はさておき、酢酸酢(合成酢)は清酢に比べて圧倒的に安価なため、粉河酢を含む各地の清酢は商い的には全く太刀打ちできなかったと考えられます。農商務省は酢酸製造に関する報告の中で、尾州半田酢や紀州粉河酢のような有名な清酢醸造地でも酢酸を使用する者が増えていると述べています(農商務省山林局 1910)。このことから、明治後期の粉河酢醸造は「粉河酢」を標榜しながらも、その実態は粗製乱造状態であったと考えられます。
▼しかしながら、さきに述べたように、粉河酢醸造家は基本的には地産地消と富裕層をターゲットにした少量生産志向であったようです。その意味で、粉河酢のフェイドアウトは紀ノ川流域の天然凍豆腐業界の淘汰とは性質が異なると考えられます。
▼なお、商標として「粉河酢」という名を用いているかどうかは分かりませんが、東西両隣の名手、打田でも零細規模の食酢製造が行われていたほか、さらに東の妙寺(現伊都郡かつらぎ町妙寺)でも文化年間(1804-1818)に地士の田村家が食酢製造を始めています。

4.食酢の効能を考える

▼管理人は少年期に身体が硬いことに悩んでおり(身体の硬さのせいで腰を痛めた)、藁をも掴む気持ちで「酢を飲めば身体が柔らかくなる」という俗説を信じ、酢を飲もうかと本気で考えたことがありました。40年後のいま、この迷信について一応論文を検索などしてみましたが、馬鹿らしくなって取り寄せるのをやめました。
▼たとえば、海老原は明治初期の段階で酢の効能として以下の各点をあげています(海老原 1885)。

■白髪の予防
・石灰と鉛粉を同じ割合で混合し、それを酢で希釈し、加熱して保存したものを就寝時に毛髪に塗布し、翌朝洗髪する。
・これを数回繰り返すと白髪が純黒髪に変わる。
(※戦前、鉛は化粧品として常用されており、女性を中心に鉱害をもたらしているので真似してはならない)
■あかぎれの治療法
・入浴後ただちに、酢を手の甲あるいは足背に塗布すれば翌日必ず治る。
■餅が喉に詰まったときの応急処置
・餅が喉に詰まったとき、橙子(だいだい。みかんの一種)の酸汁、酢、醤油を飲む、または鼻孔から吹き込むと、閉塞した喉を開き救助することができる。
(※これも絶対にしてはならない)

▼上例はあくまで外科的な問題・対応に関するもので、やはり気になるのは生活習慣病との関係です。近年は食酢の活用が多様化しており、食酢業界は特に健康分野に参入してその効能を積極的にアピールしています。食酢には脂質代謝機能改善作用血糖値降下作用血圧降下作用抗肥満作用など、生活習慣病を恐れる中年(管理人のことです)が飛びつきそうな効能が喧伝されていますが、どうやら、これは誇大広告ではないようです。また、減塩を強いられる高血圧症患者向けの食事において、塩を減らした分を酢で補うという調理方法もあるなど、応用が利くことも食酢の有難いところです。
▼問題は摂取量です。多山によると、生活習慣病リスク低減のために必要な1日当たり酢摂取量は最低15mlです。これは別段難しい量ではないそうで、酢の物一人前には11~15ml程度の酢が含まれているとのことです(多山 2002)。但し、注意しなければならない点がいくつかあります。すなわち、

■短期的な効果は期待できない
・酢摂取による生活習慣病リスク低減作用は、長期摂取することで実現が期待できる。
■過剰摂取によって胃に負担がかかるため、その量はほどほどにすべきである
・酸度4~5%の食酢であれば原液摂取せず、5倍に希釈すべきである。
■当該論文著者が醸造企業社員であること、及び掲載誌が業界誌である

▼特に3点目は大事で、ジャンルを問わず、商業的利害が絡む論文の場合、及び著者が利害関係者である場合、著者が企業から研究費を得ている場合には商業的貢献ができるように内容にバイアスをかけているものです。なので、生活習慣病対策における酢最強説はほんの少し疑ってかかったほうがよろしかろうと考えます。

文献

引用)石塚月亭(1910)『弦斎夫人の料理談:第三編』実業之日本社、pp130-132.
引用)松本作蔵・安中荘太郎編(1921)『和歌山県実業参考録』実業公益社、p719.
引用)那賀郡編(1922-23)『那賀郡誌.上巻』那賀郡、p1206.
引用)渡辺幾治郎・樋口功編(1914)『和歌山県誌 上巻』和歌山県、p1305.
参考)安藤精一(1963)「在来産業の展開―紀州粉河酢の場合―」『経済理論』71・72、pp137-150.
参考)安藤精一(1985)『近世都市史の研究』清文堂出版.
参考)海老原幸二郎(1885)『新編醋製造方秘訣』高崎修助.
参考)板垣忠雄(1968)「食酢の歩み」『日本釀造協會雜誌』63(8)、pp801-802.
参考)かつらぎ町郷土誌編纂委員会編(1968)『かつらぎ町誌』かつらぎ町.
参考)粉河町史編さん委員会編(1990)『粉河町史.第4巻』粉河町.
参考)小松陽一・下出佳世(2007)「地域ブランドのダイナミクス:黒酢の事例」『情報研究:関西大学総合情報学部紀要』27、pp27-56.
参考)宮路憲二(1922)「日本産醋酸菌の生理及び其作用(四)」『日本釀造協會雜誌』17(6)、pp38-43.
参考)農商務省山林局(1910)『山林公報』明治43年第5号、農商務省山林局、pp182-183.
参考)農商務省商工局(1908)『各府県輸出重要品調査報告:附・産業概況 大阪、奈良、三重、滋賀、和歌山』農商務省商工局.
参考)尾崎直臣(1991)「食品消費の地域差(第3報)酢」『駒沢女子短期大学研究紀要』24、pp43-50.
参考)新谷和之(2020)「史料紹介:奉願上候口上覚(旧八塚家文書)」『民俗文化』32、pp223-228.
参考)鈴木彰(1936)『実用製造工業叢書13:酢及調味料製造法』誠文堂新光社.
参考)多山賢二(2002)「生活習慣病に及ぼす酢の効果」『日本醸造協会雑誌』97(10)、pp693-699.
参考)打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町.
参考)和歌山県編(1984)『紀の川流域の歴史と文化をたずねて:紀の川流域歴史ゾーン調査報告書』和歌山社会経済研究所.
参考)和歌山県内務部(1913)『和歌山県勧業要覧』和歌山県内務部.
参考)和歌山県史編さん委員会編(1990)『和歌山県史. 近世』和歌山県.

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