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和歌山紀北の瓦編

▼2018(平成30)年9月の台風21号直撃によって紀ノ川流域一帯では家屋の屋根瓦が飛びまくり、これを書いている2019(平成31)年4月現在も被害家屋の瓦の補修は終わっていません。なんでも、瓦葺職人と瓦そのものが足りないのだとか。職人さんにとってはしばらくの間復興バブルが続き、一方家主にとっては頭が痛いものです。管理人が無知だっただけなのかも知れませんが、戦前の紀ノ川流域はじつは瓦産地でした。もちろん、淡路瓦や泉州瓦のようなメジャーな存在ではなかったものの、現在もそのルーツを受け継いでいる企業や製造所があるので、普段見慣れていて観察することをすっかり見逃していた瓦をリスペクトする意味で、このページでは紀ノ川流域の瓦事情を学びます。


1.瓦の目的

(1)瓦の目的
▼瓦は古くから日本家屋の屋根に広く使われていますが(ほかに板葺き、萱葺き、藁葺きなどがある)、その目的は風雨を除けるためのものではありません。風雨を除けるためであれば、板で覆うか、壁の延長として屋根も同じ素材でのっぺりと覆ってしまえばよいのです。屋根の葺き材として瓦が使われる目的は装飾と体裁です。私たちの心の中には、屋根が無味乾燥な平滑な面を描いてしまうと冷たく見えるというような美意識が存在しているようです。伊東は、雨が降ってブリキ屋根やトタン屋根が大きな音を立てて雨を弾き返すことは露骨で温情を欠き、不快だから、柔らかく雨を受けて滑らかに雨を弾くのが理想的だと述べています(伊東 1937)。瓦の行や列が波打っているさまや瓦の文様、形状には装飾としての芸術性や文化的価値があり、したがって屋根(特に人が住む家)には洋の東西を問わず、どうしても適度の凸凹がなければならないようです。
▼日本の瓦は中国のものが源流で、西暦500年代頃に百済から瓦博士が伝えたとされ、その後急速に発展し、仏寺→宮城→庶民の順に普及したようです。但し、古代の瓦は現代の燻(いぶし)瓦のような銀灰色ではなく、ただ焼いただけのもので、真っ黒、もしくは白に近い色だった可能性があります。古代の遺跡などから出土した瓦があると、私たちはその文様だけに着目しがちですが、色に着目してみると、どこそこの寺の五重塔の屋根は真っ黒だったとか白かったなど、大昔の仏閣は幻滅するような姿だったかもしれません。

(2)瓦の効能と副作用
▼屋根瓦には以下のような効能が考えられますが、体裁以外の要素に独自性や固有性はありません(他の素材でも実現可能です)。

耐久性がある(朽ちないし、直射日光や雨による風化がほとんど起きない)
体裁が美しい(上記のような美意識を満足させる)
断熱性がある(素材が分厚いので熱を遮断する)
耐火性(燃えない) 

▼これらのうち、耐火性については、江戸時代に防火目的で一般庶民の家屋の瓦葺きを認める命令が出されているほか、明治年間には都市部の屋上は不燃物で葺かなければならないとする法令があったようで、これにより瓦業界が発展したとされています。
▼一方、上記の効能を満たすがゆえの副作用もあります。それは以下のようなものです。

■重い(家屋の構造を頑強にしなければならない)
■費用が高くつく(葺き方に高度な技術が必要) 

▼これらのうち、重さについては、1995(平成7)年の阪神淡路大震災が起きたときに和式家屋が軒並み崩壊したことを受けて、瓦屋根の重量が家屋の構造強度に及ぼす影響が問題となり、瓦が一時的に売れなくなっています。また、費用については、さきに述べた美意識との関係で、瓦を葺くには高い技術が必要で、いくら高価な瓦を用意しても、葺き方によって屋根の見栄えが著しく変化します。なにせ、瓦の見栄えは出来上がってからでしかわかりません。技術のある職人が葺いた屋根と、拙劣な職人のそれとでは出来栄えが大きく異なります(プロが見たら一発で判るそうです)。

2.原始的な瓦の作り方

▼次に、瓦をどうやって作るのかを簡潔に整理します。ここでは、燻瓦(後述)の作り方を取り扱います。
▼瓦は、造り方という点からみると燻瓦色瓦に大別することができます。燻瓦は、いま現在の一般的な家屋で用いられているもので、つや消し銀灰色の瓦のことです。燻瓦のつや消し銀灰色は、焼くときの燃料(石炭や木材乾溜ガス)に含まれる炭素分子が熱せられた瓦に吸着することによって実現します(焼くときに発生した煤煙が付着したものではない)。この炭素分子の吸着過程で、焼く温度が低すぎると炭素は普通の黒色炭素となって真っ黒な瓦に、温度が高すぎるとグラファイトとなってギラギラした白っぽい瓦になってしまいます。この閾値はだいたい1000℃ほどだそうです。一方、色瓦とは、焼く前に素地に釉薬を塗って着色したものです(鉄などの金属を釉薬に使うと赤、鉄とマンガンを加えた釉薬を使うと黒、などなど)。色瓦は、基本的に陶磁器と同じなのでつやがあります。また、色瓦の製法で燻瓦のような銀灰色を再現することもできます。

■原土に水を混ぜて一昼夜放置する
・原土は基本的には粘土であるが、沈積岩、花崗岩、粘板岩、石灰岩等で長石が含まれているものでなければならない。
・原土には酸化アルミニウム、酸化マグネシウム、酸化鉄、硫化鉄カリ、珪酸、石灰、ソーダ、塩分等が含まれるが、アルカリ土類または鉄の可溶性塩類が含まれていると必ず失敗する。 
■鍬などで破砕し、こねた後、足踏みをしてさらにこねる
・こねるのは原土を細粒化し、粘性を高めるためである。
■タタラ台の上で足踏みをした上で、隙間のないように塊を作る
・錬成された粘土を足で踏むことを「タタラ」という。
■定規などを当て、針金によって所望の大きさ、厚さにカットする
・一枚一枚の瓦は、基本的に切り取ったり、削いだりしながら作っていく。
■木型を用いて瓦の形状にした上で半日ほど天日乾燥する
・瓦には標準規格があるので、木型を使って揃える。
・重石などを用いて十分圧縮しなければ、焼いたときにねじれたり歪んだりする。
・大抵は2枚重ねや4枚重ねにするが、重ね目に砂や灰など(取り粉という)をまぶして双方がくっつかないようにする。
・ここでできた瓦を「荒地」という。
■荒地の表面を水で湿らせ、ヘラで形状を完全に整えた上で数日間陰干しする
・室内乾燥させる、2~3日天日乾燥させる、との文献もあり、乾燥方法は諸説ある。
・ここでできた瓦を「素地」または「白地」という。
■乾燥した生地を瓦窯(1基につき1000枚ほど入れる)に入れ、縦列に積み上げる
・登り窯、石炭平地窯、平地連続窯、改良格子窯などがある。
・中野の文献にある打田瓦の写真には登り窯が写っている(中野 2004)。
■薪を入れて点火した上で、焚き口下部を密閉し6時間ほど焼く
・もともとは松葉や松薪を用いていたが、近代は石炭や木屑を使うようになった。
・最初は緩い火で焼いたほうがよい。
・この段階で素地に湿気があれば、表面が汚染され必ず失敗する。
■6時間後、瓦の焼け具合の検分時に適温であることを確認する
■焚き口を含む全ての隙間を密閉して蒸し焼き状態にする
・風通しを良くすると赤色の酸化鉄ができ、悪くすると他の酸化鉄ができて黒くなる。
■冷却後、瓦を取り出す(出来上がり)

▼これらの過程は基本的には手工業で、大正後期頃からは原土をこねて所望の大きさ、厚さにカットする段階までは自動機械(「土練り機」「荒地抜き出し機」「押し出し機」「成型機」など)が導入されるようになり、省力化が図られています。

3.紀州瓦と打田瓦

▼さて、瓦の生産地は全国にたくさんあり、古来から代表的なものとしては遠州瓦(静岡)、尾州瓦(知多半島)、三州瓦(愛知県碧南、高浜)、能登瓦(石川)、西京瓦(京都)、泉州瓦(大阪)、淡路瓦(淡路島)、菊間瓦(愛媛)、石見瓦(島根)などがあげられます。
▼和歌山県内で作られた瓦は紀州瓦といわれています。紀州瓦は全国的には決してメジャーではありませんし、これをブランドとして展開しようとした形跡もみられません。下図は、和歌山県における瓦生産量の年次推移で、1907(明治40)年から2001(平成13)年までを示しています。戦中、戦後の一部にデータ欠損があります。戦前も戦後も、生産量にはさしたる変化はありません。なお、1924(大正13)年から1925(大正14)年までのごく短期間、生産量が一時的に激減している理由は不明です。

▼下図は、地域別にみた瓦生産量の年次推移で、1911(明治44)年から1940(昭和15)年までを示しています。伊都と那賀が、海草を含む和歌山市域を引き離しています。これは、生産量というよりもむしろ生産者の数の問題、すなわち伊都と那賀に瓦製造者が多いことを意味しています。

▼下図は、地域別にみた瓦製造戸数の年次推移で、1907(明治44)年から1940(昭和15)年までを示しています。この数値は製造戸数で、工場数ではありません。那賀が最も多く、伊都がそれに続きます。

▼次に、『工場通覧』(昔の『タウンページ』のようなもの)を参考に、戦前/戦後の和歌山県北部にあった瓦製造工場を列挙します。あくまで工場です。

瀧脇瓦製造所(瀧脇製瓦工場)(伊都郡橋本町;開業年不詳)瓦
・1909(明治42)年から掲載されている
・1941(昭和16)年を最後に掲載されなくなる
■瓦與 土生瓦製造所(土生製瓦所)(伊都郡橋本町;1881(明治14)年~)黒瓦
・1941(昭和16)年を最後に掲載されなくなる
■紀伊瓦工業株式会社(伊都郡橋本町東家;開業年不詳)日本瓦
・1956(昭和31)年を最後に掲載されなくなる
■脇田窯工所(伊都郡橋本町小原田;1892(明治25)年~)屋根瓦
・1941(昭和16)年を最後に掲載されなくなる
田中村製造工場(田中瓦製造所、田中製瓦所:那賀郡田中村久留壁;1912(明治45)年~)瓦
・1952(昭和27)年を最後に掲載されなくなる
井尻製瓦場(井尻製瓦所:那賀郡田中村上野;1915(大正4)年~1918(大正7)年に開業)瓦
・1952(昭和27)年を最後に掲載されなくなる
・もとは川島富三郎(後述)が開いた川島瓦工場であり、井尻弥之助がそれを受け継いだ(『打田町史』)
■紀州瓦工業株式会社(那賀郡田中村上野;開業年不詳)瓦
・1954(昭和29)年と1956(昭和31)年に掲載されている
・上記井尻製瓦場からののれん分けと思われる
■井尻長製瓦所(井尻瓦工業:那賀郡打田町上野;開業年不詳)燻瓦
・1962(昭和37)年と1964(昭和39)に掲載されている
・上記井尻製瓦場、紀州瓦工業株式会社と関係があると思われる
實賽瓦製造所(實賽製瓦所:那賀郡田中村上野;1921(大正10)ないし1922(大正11)年~)瓦
・1952(昭和27)年を最後に掲載されなくなる
・実宝国太郎『瓦販売日記』(1943(昭和18)年)には、地瓦、万頭唐草、京平、平唐、紐丸、丸巴、熨斗(のし)、雁振(がんぶり)、棟覆(むねふく)、八角隅巴等の製品名があった(『打田町史』)
宮本瓦製造所(那賀郡田中村上野;1913(大正2)年~1917(大正6)年に開業)瓦
・1941(昭和16)年を最後に掲載されなくなる
阪上製瓦所(那賀郡田中村上野;1924(大正13)年~)瓦
・1952(昭和27)年を最後に掲載されなくなる
山宮瓦製工場(那賀郡田中村;1917(大正6)年~)瓦
・1932(昭和7)を最後に掲載されなくなる
児玉(兒玉)製瓦所(児玉(兒玉)陶業:那賀郡打田町上野;開業年不詳)瓦、塩焼き瓦、黒瓦
・1952(昭和27)年から掲載され始める
・1968(昭和43)年時点で掲載されている
・1955(昭和30)年に赤瓦(藍焼)、1968(昭和43)年に釉薬瓦を導入(『打田町史』)
・1972(昭和47)年にガス窯を導入
■西前製瓦所(那賀郡桃山町最上;開業年不詳)燻瓦
・1960(昭和35)年時点で掲載されている
■西前かわら店(西前瓦商:那賀郡桃山町最上;開業年不詳)粘土瓦
・1962(昭和37)年と1964(昭和39)年に掲載されている
・上記西前製瓦所と関係していると思われる
大畑鬼瓦製造工場(和歌山市太田;1929(昭和4)年~)鬼瓦
・1932(昭和7)年を最後に掲載されなくなる
■野上鬼瓦工場(和歌山市太田;1922(大正11)年~)鬼瓦
・1941(昭和16)年を最後に掲載されなくなる
瓦新工場(和歌山市太田;1930(昭和5)年~)瓦
・1932(昭和7)年を最後に掲載されなくなる
吉田定吉工場(吉田瓦製造工場:和歌山市太田;1929(昭和4)年または1931(昭和6)年~)瓦
・1941(昭和16)年を最後に掲載されなくなる
■紀陽商会(和歌山市福町;開業年不詳)セメント瓦
・1950(昭和25)年にのみ掲載されている
■山崎製瓦所(和歌山市広瀬;開業年不詳)瓦
・1952(昭和27)年にのみ掲載されている
山東製瓦工場(海草郡西山東村;1924(大正13)年~)瓦
・1931(昭和6)年を最後に掲載されなくなる
■木村瓦製造工場(海草郡西和佐村岩橋北村;1924(大正13)年~)瓦
・1940(昭和15)年を最後に掲載されなくなる

▼さて、那賀郡田中村(現紀の川市打田の打田駅周辺)に集中している工場群で生産された瓦のことを打田瓦といいます。これも一部の人だけが知っているような情報で、外部にアピールされた痕跡は全くありません。紀ノ川流域で製造された紀州瓦や打田瓦に際立った特徴はありません。それでも、『打田町史』は、打田町で生産される瓦は和泉瓦や淡路瓦に比べて凍結破損が少なく、変色しない良質のものであると評しているほか、原料として紀ノ川北岸の洪積段丘に堆積した菖蒲谷層(『国鉄和歌山線沿線の地形&各駅の標高編』を参照)の良質の粘土を使用していること(粘土は現紀の川市上野を中心に現岩出市から現紀の川市長田までの範囲で、水田下約1mの床土よりも下方を稲刈り後に農家から買う)、瀬戸内気候の下で乾燥した土地という好立地条件であることなどを指摘しています(打田町史編さん委員会編 1986)。
▼打田瓦については、川島富三郎という職人さんが1904(明治37)年に打田に来て焼いたとされていますが、そもそも工芸品的性格を持つ工業製品生産の世界は徒弟制度なので、川島氏は他地方の技術を修得して打田に根付いたと考えられます。すなわち、打田瓦=燻瓦であり、日本瓦です。
▼打田瓦の始まりについては、現紀の川市下井阪の実報寺の鬼瓦が1824(文政7)年製で「那賀郡池田村中村瓦屋半右エ門」と記されているほか、奈良時代の紀伊国分寺(現紀の川市東国分)に窯跡があることから、この地方と瓦とのかかわりは相当古い可能性があります。また、川島富三郎は大阪府泉南郡多奈川村谷川からこの地に移住し、職人として瓦製造を始めたとのことです(このことから、川島が持っていた製造技術は泉州瓦であるとみてよい→泉州瓦とは泉南郡岬町多奈川を中心に寛政年間(1789-1801)から現在に至るまで生産されている燻瓦のこと)。明治時代後期には、川島のほかに市川良吉(現紀の川市東国分)、松島栄次郎(現紀の川市中三谷)の3業者がおり、その後大正時代後期には川島のほか宮本丈之助、井尻長太郎、大木重吉、田中兼吉の5業者がいたことが知られています(打田町史編さん委員会編 1986)。
▼一方、橋本市内にもかつて瓦製造業者がたくさんいました。橋本市内で製造された瓦のことを橋本瓦または小原田(おはらだ)瓦といい(但し、管理人はこの名称をはじめて知りました)、これも歴史はかなり古いようで、現大阪府河内長野市の観心寺本堂の瓦に橋本瓦が使われているようです。『南近畿の物産』は、和泉瓦よりも品質は落ちるが、橋本市小原田の良質な青色粘土を材料とし、生産地は小原田、河瀬(こうぜ)、東家(とうげ)で、販売先は京阪神と地産地消であると述べています(鉄道貨物協会天王寺支部 1956)。
▼小村は、原土の性質から紀州瓦の正体に迫っています。小村は、橋本瓦に用いる土の採掘地(橋本市小原田)と打田瓦に用いる土の採掘地(岩出市大町)からそれぞれ試料を採取し、成分を分析しています。小村は、橋本市小原田の土は菖蒲谷層(鮮新世末期の湖沼堆積物)のうちの緑灰色粘土層で緑泥岩、カオリナイト、雲母粘土鉱物を主として少量の雲母・モンモリロナイト混合層鉱物、菱鉄鉱を伴うとし、岩出市大町の土は紀ノ川の氾濫原堆積物の灰白色の砂混じり泥質土でハロイサイト、雲母粘土鉱物及び雲母・モンモリロナイト混合層鉱物からなると分析した上で、橋本市小原田の土すなわち菖蒲谷層は、泉州瓦に用いる土が採掘されている大阪層とほぼ同じであるとして、断定こそしていないものの橋本産の紀州瓦(橋本瓦)が泉州瓦と同じであることを示唆しています(小村 1984;1986)。
▼なお、ここでは取り上げなかったものの、国鉄和歌山線沿線という意味では奈良県五條市、奈良県南葛城郡、旧宇智郡大阿太村周辺でも、戦後の一時期までは地産地消の範囲内で家内工業による瓦製造が行われていたことを付記しておきます(五條市史調査委員会 1958)。
▼さいごに、橋本瓦、打田瓦は結構最近まで製造されていたようで、中野の写真集には昭和47年頃に橋本で瓦の荒地ないし素地を干している女性の写真が収められています(中野 2004)。外見でどこの瓦かを見分ける術はありませんが、今後紀ノ川流域界隈では斜め上を向いて歩くことにしましょう。

文献

引用)那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部編(1939)『田中村郷土誌』那賀郡田中尋常高等小学校田中村郷土誌編纂部、巻頭.
引用)打田町史編さん委員会編(1986)『打田町史.第3巻(通史編)』打田町、p577.
参考)伊東忠太(1937)『伊東忠太建築文献.第6巻』龍吟社.
参考)小村良二(1984)「奈良県・和歌山県・福井県の瓦粘土の性質(2)―和歌山県―」『地質調査所月報』35(3)、pp119-125.
参考)小村良二(1986)「奈良県・和歌山県・福井県の瓦粘土の性質(3)―総括―」『地質調査所月報』37(8)、pp403-416.
参考)近藤会次郎(1903)『近代工業化学書』富山房.
参考)黒田政憲(1909)『実用製陶学』丸善.
参考)農商務省大臣官房統計課編(1911-1925)『農商務統計表』東京統計協会.
参考)農商務省商工局工務課編(1911)『工場通覧』日本工業協会.
参考)商工省編(1931-1949)『全国工場通覧』日刊工業新聞社.
参考)職業紹介事業協会編(1936-38)『日本職業大系.第4 工業篇』職業紹介事業協会.
参考)鉄道貨物協会天王寺支部(1956)『南近畿の物産』鉄道貨物協会天王寺支部.
参考)和歌山県総務部統計課編(1913-1941)『和歌山県統計書』和歌山県総務部統計課.

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