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数式なし!南海トラフ地震と井戸涸れとの関係

▼先般8月8日に「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」なる注意情報が発表されました。半年ほど前に『数式なし!「和歌山県北部を震源とする地震とは何か編』と称して、和歌山県北部でしばしば生じる群発地震を取り上げる中で、南海トラフ地震にも少し触れました。

▼今回は、この「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」を受けて、前々から気になっていた、南海トラフ地震と「井戸涸れ」との関係を取り上げてみたいと思います。



1.南海トラフ地震とは


▼南海トラフ地震とは何かについては、多くのHPで説明されているはずですので、ここでは軽く触れる程度にとどめておきます。

図は国土地理院電子国土基本図3Dを使って管理人が作成したもの。

(1)南海トラフ(trough)とは
▼日本列島はユーラシアプレートの上に乗っかっていて、このプレート先端部にあたる宮崎県から静岡県にかけての太平洋沿岸の海底には、日向海盆(かいぼん)、土佐海盆、室戸海盆、熊野海盆、遠州海盆という、盆地状の地形が広がっています。
▼このユーラシアプレートに対して、フィリピン海プレートが年4~5㎝のペースで北北西方向にもぐり込むように力を加えています。そして、フィリピン海プレートがユーラシアプレートにもぐり込んでいる境界部分が南海トラフです。

(2)南海トラフ地震とは
▼南海トラフ地震とは、南海トラフ=プレート境界付近を震源とする海溝型巨大地震のことで、大きくは南海地震東南海地震東海地震の3つに分けられます。これら3つの大地震は、単独で起こることもあれば連動することもあります。
▼南海トラフ地震は、周期性があることから古文書に詳しく記載されており、中長期的な予測がしやすい大地震とされています。

●南海地震:
・四国から紀伊半島西部(潮岬以西)で周期的に発生するM8級の大地震。
・記録上、最古は684(天武天皇13)年、最新は1946(昭和21)年12月21日の昭和南海地震(M8)。
・周期は100~200年。
東南海地震:
・紀伊半島東部(潮岬以東)から遠州灘で周期的に発生するM8級の大地震。
・最新は1944(昭和19)年12月7日の昭和東南海地震(M8)。
・周期は100~200年。
東海地震:
・遠州灘以東の南海トラフ東端(駿河トラフという)で周期的に発生するM8級の大地震。
・最新は1854(嘉永7)年12月23日の安政東海地震(推定M8以上)。
・周期は100~150年。

(3)南海トラフ地震の発震メカニズム
▼これら3つの巨大地震の発震メカニズムは、以下のプロセスを経ると考えられています(梅田2017)。

※「P」とはプレートのことです。
①フィリピン海Pが年4~5㎝ずつユーラシアPにもぐり込む
②ユーラシアP先端部がフィリピン海Pに引きずられて沈み込む
③このとき、ユーラシアP先端部にひずみのエネルギーが溜まる
④ユーラシアP先端部のエネルギーが耐えきれずに跳ね上がる(発震)
⑤100~200年かけて①~④のプロセスを繰り返す

図は梅田(2017)の知見をもとに管理人が作成したもの。

▼しかし、このモデルは現象を単純化しすぎているとの指摘があります。2012(平成24)年に開かれた、国の「南海トラフ沿いの大規模地震の予測可能性に関する調査部会」では、前年の東北地方太平洋沖地震を受けて「プレート境界面で生じる発震モデルは、単純すぎて地震予知には使えないのではないか」という意見が出されています(内閣府(防災担当)2012:p4)。

2.昭和南海地震における井戸水水位の変化


(1)昭和南海地震における井戸水位と温泉湧出量の低下
▼さて、昭和南海地震では、四国から紀伊半島にかけての太平洋沿岸部で、発震前に井戸水位や温泉湧出量の低下があったことが知られています。
▼発震前の井戸水位や温泉湧出量の低下という現象は、安政南海地震でも四国から紀伊半島にかけての太平洋沿岸部で確認されており、経験的には再現性があると考えられています(小泉2013;近藤2006)。
水路局(現在の海上保安庁)は、昭和南海地震後に井戸水位や温泉湧出量の低下を広範囲に調査しました。その結果、四国南部沿岸と紀伊半島南部沿岸の計16箇所(井戸水位低下11箇所、濁り3箇所、その他)でそれが確認されています。主なものを列挙してみます(小泉2009;小泉ら2009;小泉・佐藤・中林2005;小泉2013)。

●11箇所の浅い井戸の水位が本震10日前~本震直前に推定数十㎝低下。(12箇所とする資料もある)
●和歌山県勝浦温泉の温泉湧出量が本震6時間前に低下。
●和歌山県湯峯温泉の温泉湧出量が低下したとされているが、これは昭和東南海地震の情報である可能性が高い。
●愛媛県道後温泉の源泉水位が約11m低下

▼しかし、これらの井戸水位や温泉湧出量の低下という現象と、それを取り扱った研究には以下の弱点があります(小泉2009;尾上ら2005;梅田2017)。

●水路局が調査した井戸は165箇所(別資料では120箇所)もあったのに、異常があった井戸が11箇所しかない(出現率が低すぎる)。
●昭和南海地震では太平洋沿岸に津波被害があり、混乱時に聴き取り調査をしたことから、結果の信憑性に疑いがある。

(2)井戸水位や温泉湧出量の低下以外にも前駆現象があった
▼昭和南海地震や昭和東南海地震では、井戸水位や温泉湧出量以外にも、以下の前駆現象が確認されています(尾上ら2005;梅田2017)。

●昭和東南海地震の本震2日前に静岡県掛川で地殻の異常な傾斜変動を観測。
●昭和南海地震の本震前日に高知県須崎で異常な潮位変化がみられた(本震当日は変化なし)。
●安政南海地震の本震直前に高知県土佐清水から和歌山県由良にかけての太平洋沿岸で異常な潮位変化がみられた。

3.南海トラフ地震の予知モデル


▼3つの南海トラフ地震は、古文書等の分析から地震周期が比較的はっきりしており、中長期的な地震予知がしやすいことはさきに述べた通りです。
▼一方、偉大なる先達による研究の結果、南海トラフ巨大地震の直前には、以下の3つの変化が現れると考えられています。

①短期的ゆっくり滑り(スロースリップ)
②深部低周波振動(深部低周波地震)
③地下水位の変化

▼③はともかくとして、まずは①と②を、数式なしで簡単にご説明します。

(1)短期的ゆっくりすべり(スロースリップ)
▼南海トラフ地震の発震前には、プレート境界上側=ユーラシアプレート側の一部が地震を発生しない程度にすべると考えられています。これを前兆すべり(プレスリップ)といいます(松本2012;梅田2017)。
▼さらに、ほぼ同じ場所で、前兆すべりに似たゆっくりとしたすべりが年に数回、数日から1週間程度続くことが観測されています。これを短期的ゆっくりすべり(スロースリップ、深部ゆっくりすべり)といいます(小泉2009;小泉2013;小泉ら2009)。
▼短期的ゆっくりすべりは、M5~6程度の地震を発生させることがあり、また、この現象は次に述べる深部低周波微動と連動しているようです(松本2012)。

図は梅田(2017)の知見をもとに管理人が作成したもの。

▼上図のように、まずプレート境界最深部の「遷移層」(深さ30~40㎞)で短期的ゆっくりすべりが始まり、次にユーラシアプレート先端部でも同様のすべりが生じ、その結果、「固着域」がベリベリっとはがれたときに本震が誘発されると考えられています。また、さきに述べた昭和南海地震前日の異常な潮位変化は、ユーラシアプレート先端部の短期的ゆっくりすべりによる津波ではないかとする見解もあります(梅田2017)。
▼しかし、前兆すべりや短期的ゆっくりすべりが起こると、必ず巨大地震が起こるとは限りません。実際、2000~2005(平成12~17)年に浜名湖沖から御前崎付近にかけてスロースリップが持続的に発生し、東海地震のリスク高しと警戒されましたが、結局、東海地震は起こりませんでした(小沢2009)。2017(平成29)年に国が出した「南海トラフ沿いの大規模地震の予測可能性に関する調査部会」の最終報告書でも、前兆すべりやゆっくりすべりによる確度の高い予測は困難と結論づけられています(内閣府(防災担当)2017)。

(2)深部低周波微動(深部低周波地震)
▼遷移層付近では、通常の地震よりも低周波(人間には感知不能)の地震が起こることが知られています。これを深部低周波微動(深部低周波地震)といいます(小泉ら2009;松本2023)。
▼深部低周波微動は、短期的ゆっくりすべりに伴って生じると考えられています。しかし、深部低周波微動がどのように変化すると巨大地震が起こるのかはわかっていません。なぜなら、深部低周波微動自体が最近発見された現象で、過去の南海トラフ地震では確認されていないからです(小泉ら2009;松本2012)。現に、下図の如く、帯を呈するほどの、無数の深部低周波微動が観測されているにもかかわらず、その後南海トラフ地震は発震していません。

2000年1月から2019年1月31日までの深部低周波微動の観測データ。プレート接触面の最深部となるため、震央が太平洋沿岸部からやや内陸よりに位置する。赤い点は2019年1月1日から31日までの1か月分のデータ。(引用:気象庁地震火山部2019:頁番号なし)


4.地下水位変化の解析と南海トラフ地震との関係


▼南海トラフ地震の短期的な予知における、3つ目のキーワードは地下水位変化です。昭和南海地震直前に、四国から紀伊半島にかけての太平洋沿岸部で井戸水や温泉湧出量の低下がみられたことはさきに述べた通りです。
▼過去に発生した南海トラフ地震では、本震前に短期的ゆっくりすべりによって沿岸部が隆起したことが分かっています。そこで、沿岸部の隆起が地下水位の変化をもたらしているのではないかと考えられています。

(1)地下水位変化と地震を関連づけるモデルの変遷
▼昭和南海地震直前に起こったような、井戸水位と温泉湧出量の低下が本格的に研究され始めたのは1970年代以降です。
▼研究当初は、震源付近の地盤に応力がかかって割れ目がたくさんでき、その割れ目に地下水が流れ込んで地盤の強度が低下して発震するというモデルが考えられていました。これをダイラタンシー(dilatancy)水拡散モデルといいます。
▼その後、地震は、地殻に応力がかかって歯ぎしりのような状態となってひずみ、それが臨界点に達するとガリガリっと壊れて発震すると考えられるようになりました。この、応力がかかってひずみが生じるという考え方を弾性論といいます。弾性論の登場によって、ダイラタンシーモデルは支持されなくなりました。
▼次に、地殻は実際には隙間があるので、隙間のある地殻に地下水が浸透したときに応力やひずみ、水圧が変化し、また地殻が変動すると地下水位も変化すると考えられるようになりました。この考え方を多孔質弾性論といいます。(以上、小泉2013)

(2)地下水位と地殻変動との関係
▼通常、地殻の体積が縮む(ひずむ)と地下水位は上昇します。地殻の体積が10%縮むと、浅い井戸なら約0.01~10㎝上昇するとされています(小泉2013;松本2005)。
この数値は無視して下さい。というのも、地殻変化と地下水位変化の関係は、水圧のかかり方によりけりだからです。地下水には「不圧地下水」と「被圧地下水」の2つがあり、水圧のかかり方が異なることが知られています(小泉2013)。

不圧地下水:
・水を通さない岩盤の上に溜まっている地下水。
・ふつうは浅い地下水。
・地殻の体積のひずみに影響されにくい
被圧地下水:
・上下を水を通さない岩盤に挟まれた面に溜まっている地下水。
・深い地下水や温泉水。
・地殻の体積のひずみに影響されやすい

▼このように、地下水が置かれた環境によって、地殻の変化に対する地下水の水圧の感度(体積歪感度という)が異なります。
▼昭和南海地震では、太平洋沿岸の井戸水位や温泉湧出量は低下しました。これは、前兆すべりによって四国から紀伊半島にかけての太平洋沿岸部の地盤が隆起したからであると考えられます。隆起するとは、地盤が膨張するということです。
▼したがって、この地震では、浅い井戸(不圧地下水)の水位低下は地盤隆起に伴う相対的な低下、温泉湧出量の低下(被圧地下水)は地盤の膨張によって水圧が低下したと解釈されています(小泉ら2009;小泉・佐藤・中林2005)。

(3)梅田の地下水位上昇増幅モデル(梅田モデル)
▼昭和南海地震の発震前には、地殻が数㎝ほど隆起しました。浅い井戸水=不圧地下水は地殻変動の影響を受けにくく、かつ、地殻の隆起量が最大でも数㎝なので、地下水位が変化するとしても数㎝程度の上昇におさまるはずです。
▼しかし、実際には、浅い井戸で数十㎝以上も水位が低下しました。何人かの研究者がこの説明を試みています。現在支持されているモデルは、京都大学名誉教授梅田康弘さんによる、通称「梅田モデル」です。
▼梅田モデルを、数式なしで要点を整理してみます(近藤2006;尾上ら2005;梅田2017)。

●梅田モデルは、地殻の隆起量が数㎝なのに浅い井戸の水位が大幅に低下するのはなぜかを説明するモデルである。
●昭和南海地震で水位が低下した井戸はいずれも、三方を山に囲まれた三角州ないし砂州に立地していたので、これらの井戸に向かって三方から供給される淡水量は少ないと考える。

三方を山に囲まれた砂州の例(高知県須崎市安和付近)。このような地形は、四国から紀伊半島にかけての太平洋沿岸部の随所にみられる。(引用:国土地理院電子国土基本図3D)

●陸地の地下には海水が斜めに浸透しており、その上に淡水の地下水層が浮いている。海水層の上に淡水層が浮いているのは、比重が異なる(淡水:海水=1:1.025)からである(ガイベン・ヘルツベルグの法則という)。

梅田モデル。図は近藤(2006)、梅田(2017)の知見をもとに管理人が作成したもの。

●前兆すべりによって陸地が数㎝隆起するとする(この隆起量をhとする)。
●陸地が数㎝隆起すると、海面は数㎝ぶん下がる。ということは、陸地の地下の淡水面も数㎝ぶん下がる。
●このとき、陸地の地下の海水・淡水境界面も下がるが、その低下量Hは陸地隆起量hの約40倍になる。この値は、淡水の比重:海水の比重の差から求められたものである。

▼この梅田モデルは、のちに追認研究が行われてその的確さが実証されていますが、いかんせん、実際の四国から紀伊半島にかけての太平洋沿岸部の地下構造が一律であるとは考えにくく、梅田モデルが適用されるような井戸は限られると考えられます。
▼ならば、梅田モデルが適用される要件を満たす場所にある井戸の水位を観測すればよいということになり、後述するように、観測井戸がこの地域には多数掘削されています。

(4)地下水位に及ぼすさまざまな要因
▼地下水位や水圧は、さまざまな要因により変化します。地下水圧に影響する地殻は月や太陽の引力によって周期的にひずみますし(地球潮汐という)、地下水圧も大気圧や気温、降雨量、海洋潮汐などの影響を受けます。
▼そのため、観測用に掘削された井戸は、一つひとつの井戸について、これら関与しうる変数をノイズとみなして除去し、地下水位や水圧の数値を補正しています(小泉2013;近藤2006)。

5.南海地震・東南海地震の地下水位観測点


▼現在、南海トラフ地震の発震に備えて、四国から紀伊半島にかけての太平洋沿岸部には地下水位等の観測用井戸が十数か所設置され、24時間リアルタイム観測が行われています。ここでは、その概要を整理しておきます。

(1)南海トラフ地震をめぐる地震予知研究と法整備の歴史
▼わが国で、地下水位を用いた地震予知研究が始まったのは1970年代以降です。この経緯の要点を、編年的に整理してみます(小泉2009;小泉2013;小泉ら2009;松本2012;内閣府(防災担当)2012)。

●地下水位を用いた地震予知研究が始まったのは、1975(昭和50)年の文部省測地学審議会建議「第三次地震予知計画の一部見直しについて」以降である。
●1976(昭和51)年頃、「駿河湾地震説(東海地震説)」がにわかに脚光を浴びた。
●駿河湾地震説は、昭和東南海地震で駿河トラフが破壊されずエネルギーが溜まっているとされたことや、当時、南関東や伊豆半島で地殻の異常隆起があり、さらに1974(昭和49)年の伊豆半島沖地震以降周辺で群発地震がたびたび発生したことによる。
●東海地震の被災地になりうる静岡県は、対策のための法律がなかったことから法整備を働きかけ、1978(昭和53)年に大規模地震対策特別措置法(大震法)ができた。この法律に基づき、国による地震予知事業が始まった。
●地下水位を用いた初期の地震予知研究には、東大名大京大工業技術院地質調査所(現産業技術総合研究所(産総研)地質調査総合センター)が参加した。
●しかし、経費の割に研究業績が少ないことから大学が撤退していき、1990年代後半には産総研だけが研究するようになった。
●産総研は国立研究所で長期研究の余裕があり、また、大震法に基づく東海地震予知の社会的責任があり、研究を継続している。
●21世紀に入って南海地震・東南海地震の発生確率が上昇すると、2003(平成15)年に東南海・南海地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法ができ、観測設備の充実が図られることになった。
●2011年東北地方太平洋沖地震を受け、2013(平成25)年に南海トラフ地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法(南海トラフ法)ができた。

(2)南海トラフ地震直前の予報の発表
▼仮に、南海トラフ付近で前兆すべり等の異常値が観測されると、各種のデータが「南海トラフ地震の多様な発生形態に備えた防災対応検討ガイドライン」というマニュアルに適合するかどうかが専門家によって検討されます。
▼その結果、適合する場合は、国(気象庁)が「南海トラフ地震に対する情報」を発出して注意喚起をすることになっています。この情報には次の2つがあります(松本2023)。

●南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意):
・監視領域内でM7.0以上の地震が発生したと評価された場合。
・想定震源域内のプレート境界面で異常なゆっくりすべりが発生したと評価された場合。
●南海トラフ地震臨時情報(巨大地震警戒):
・想定震源域内のプレート境界でM8.0以上の地震が発生したと評価された場合。

▼これまでみてきた地殻のひずみや短期的ゆっくりすべり、地下水位等は気象庁、産総研、防災科学技術研究所(防災科研)が24時間リアルタイム監視を行っており、それらのデータを各機関HPで見ることができます。
▼しかし、実際に危機が迫った場合は、2024(令和6)年8月8日夜のように国(気象庁)が上記のような情報をテレビ等で必ず発表するので、HPを常時確認する必要はありません。

(3)地下水位観測装置
▼産業技術総合研究所(産総研)は、南海トラフ地震(南海地震・東南海地震・東海地震)の発震予知のため、四国から駿河湾沿岸にかけての太平洋沿岸に地下水位観測装置を2006(平成18)年以降、設置してきました。また、地下水位観測装置は、太平洋沿岸部だけでなく内陸部にも設置されています。産総研は、これらの観測設備を「地下水等総合観測ネットワーク」と呼んでいます(それ以前に東海地震向けに整備された地下水位観測点は「前兆的地下水位変化検出システム」と呼ばれていた)(小泉2013)。

産能研が設置している観測井戸(松本2020b:p3)

▼地下水位観測装置は、基本的には深さの異なる3本の井戸(30m、200m、600m)から構成されています。これらの井戸には、水位計、地震計、ひずみ計、傾斜計、水温計、GPS、気圧計、雨量計が設置され、水位観測とともに地殻のひずみや深部ゆっくりすべり、深部低周波微動の観測ができるようになっています(小泉2013;松本2020a)。

図は小泉(2013)の資料をもとに管理人が作成したもの。

▼産総研の地下水等総合観測ネットワークは、現在は防災科学技術研究所(防災科研)、気象庁地震火山部とデータを比較・共有しながら、南海トラフで起こる深部ゆっくりすべりのモニタリングを行っています。深部ゆっくりすべりのデータは、月1回開かれる「南海トラフ沿いの地震に関する評価検討会」で評価されることになっています(松本2023)。

6.地下水位の観測例


▼南海トラフ地震の予知に対して、地下水位の観測データを活用することができるのかどうか、以下の2つの事例から考えてみたいと思います。

(1)2004(平成16)年9月5日紀伊半島沖地震及び東海道沖地震の例:
▼2004(平成16)年9月5日に、紀伊半島南東沖の南海トラフ付近で巨大地震が立て続けに発生しました。一度目の地震(前震)は19時07分、震源の深さ38㎞、M6.9で最大震度は和歌山県新宮市と奈良県吉野郡下北山村の5弱、高知県から千葉県にかけての太平洋沿岸部に津波が到達し、津波注意報が発令されました。津波の高さは神津島63㎝、串本34㎝でした。
▼その4時間50分後、23時57分に二度目の地震(本震)が発生しました。震源の深さ44㎞、M7.4で最大震度は三重県松阪市、奈良県吉野郡下北山村、和歌山県新宮市の5弱、前震よりも規模が大きかったことから津波注意報ではなく津波警報が発令されました。津波の高さは神津島93㎝、串本86㎝でした。
▼当時、国の委員会は「震源はフィリピン海プレート内部であり、また東南海地震の想定震源域の外側なので東南海地震ではない」と結論しましたが、死者こそ出ていないものの、港で船が20隻近くもひっくり返っているわけで、これは東南海地震なのでは??と管理人は思います。

図は国土地理院電子国土基本図をもとに管理人が作成したもの。

▼さて、当時、産総研の地下水位観測装置はまだ十分整備されておらず、いくつかの研究用井戸でこの地震前後の地殻のひずみと地下水位を観測していました。これらの井戸のうち、和歌山県の根来(ねごろ)と本宮(ほんぐう。湯峯温泉とほぼ同じ場所)のデータを取り上げます。
▼根来のグラフはひずみ3つ(井戸が3つあるから)と水位、本宮のグラフは大気圧・雨量、水位、電気伝導率、水温をそれぞれ示しています。

根来ではひずみと水位が記録されている。前震と本震でひずみが変動するのは当然である。水位は前震の2時間ほど前から数㎜程度の急激な上昇と低下がみられるが、この要因は不明。(引用:小泉ほか2004:頁番号なし、管理人が一部を加工した)
本宮では水位のみが記録されている。前震の数日前から水位が徐々に低下し、前震及び本震直後に約50㎝も上昇した。地震後は歪みが減少(縮小)したことから水位が上昇したと分析されている。(引用:小泉ほか2004:頁番号なし、管理人が一部を加工した)

▼根来はともかく、南海トラフ地震予知で重要となる本宮の地下水位が、前震の4日前から30㎝近く低下し、前震と本震直後一日以内に約50㎝も上昇したことは、将来のモデル構築や予知に役に立ちそうです(実際は、他の十数か所の観測井戸のデータを総合的に比較検討しなければならない)。

(2)2024(令和6)年8月8日日向灘地震の例:
▼この日、16時43分頃に日向灘で発震した地震は、深さ30㎞、M7.1で最大震度6弱、津波注意報が発令されました。そして、震源が南海トラフ西端であったことから、さきに述べた「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」が同日19時15分にはじめて発出されました。

図は国土地理院電子国土基本図をもとに管理人が作成したもの。

▼ちょうど、前日の8月7日には国の「南海トラフ沿いの地震に関する評価検討会(第82回)」が開かれ、「現在、南海トラフ沿いの大規模地震の発生の可能性が平常時と比べて相対的に高まったと考える特段の変化は観測されていない」と結論されたばかりでした(気象庁2024)。
▼下のグラフは、産総研の「四国9土佐清水観測井」の地下水位とひずみの観測データ(2年間、12日間)です。黒線が生データ、緑線が補正値です。グラフは、大気圧と雨量、水位3つ、ひずみ2つをそれぞれ示しています。

2年前からの連続データ。2023年初旬まで地下水位が下がり続けていたのは、観測井周辺のトンネル工事によるものらしい。その後2023年3月から6月にかけて地下水位が上昇しているが、この間のひずみには変化がなく、地下水位上昇の要因は不明。同年7月22日に日向灘でM5.0の地震があったが、少なくとも短期的な観測値の変化はみられない。(引用:産業技術総合研究所地質調査総合センターHP、管理人が一部を加工した)
過去12日分の連続データ。8月8日に日向灘地震(M7.1)があったが、地下水位は♯2、♯3井戸の水位が発震後にわずかに低下している。ひずみは発震後には特に変化がみられない。ひずみデータに周期的な波があるのは地球潮汐の影響。地下水位、ひずみのいずれも発震前に値の顕著な変化はみられない。(引用:産業技術総合研究所地質調査総合センターHP、管理人が一部を加工した)

▼以上のデータから、産総研による地下水位とひずみの観測データは、この地震を予知できなかったことになります。

7.地下水位を使った南海トラフ地震予知の課題


▼8月8日の日向灘地震において、「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)」発出の判断に用いられたデータは、過去の付近地震データと各観測地点の地震発生後のひずみデータで、地震発生直前の地殻のひずみや短期的ゆっくりすべり、地下水位のデータが使用された形跡はありません(気象庁地震火山部2024)。
▼そして、残念ながら、地下水位の観測データは今後も短期的な地震予知に使われることはないと考えられます。
▼2012(平成24)年に開かれた国の「南海トラフ沿いの大規模地震の予測可能性に関する調査部会」では、南海トラフ地震の予知では「地殻のひずみの変化は定量的に説明可能だが、井戸水位は160箇所を調査して十数か所でしか確認されなかった点で、偶然という帰無仮説を棄却できない限りは、この手のデータは今後ずっと使えない」という意見が出ています。要するに、統計学的な仮説検証をしてデータに客観性を持たせよということです(内閣府(防災担当)2012)。
▼あらためて、地下水位の観測データによる南海トラフ地震予知の課題を整理しておきます。

●地下水位の異常低下は、経験的知見の枠を超えておらず、モデル化されていない。
●地下水位が上昇したことに関する研究がほとんどない。
●どの観測井戸が上昇し、どの観測井戸が低下するかという観測井戸間の関係、及びその地域全体のデータが足りない。
●梅田モデルが適用されうるのはごく一部で、太平洋沿岸部に客観化できる地下水位上昇/低下モデルが望まれる。

▼地下水位だけでなく、短期的ゆっくりすべりや深部低周波微動も含めて、現在の短期的な地震予知手法は、発震モデルはあるけれど、とにもかくにも科学的に立証されておらず定性的であることがネックとなっているようです。単純なモデルにすると個々の地形や地殻の状態に対応できない、逆に、複雑なモデルにすると再現性がなくなるという、定量化をめぐる方法論上のジレンマにぶち当たっているのでしょう。
▼少なくとも、国家が行う短期的な地震予知は合理的、科学的でなければ、市民に対する説明責任を果たすことができません。国家の立場からすると、はっきりしない変数を「南海トラフ地震臨時情報」の判断に使うことができないのはやむを得ないといえるでしょう。
▼南海トラフ巨大地震は周期100~200年で、そもそもデータの蓄積がほとんどありません。そのため、特に短期的な予知を確率的に求めることは不可能です。結局、予測精度を高める、ないし有効なモデルを作るためには、100~200年ごとに数回しか発生しない南海トラフ地震を繰り返して経験し、データ取りをするしかないということになります。

▼管理人は、地下水位の異常という巨大地震の前駆現象にひとかたならぬ関心を抱いています。そして、「地震予知は役に立たない」とは思いません。地下水位異常は、「地震雲」などとは次元の違う前駆現象です。経験的な知見は得られているわけで、時間はかかっても、偉い先生方による今後の解明に期待しています(この分野の研究動向は、継続的にフォローしよう!)。



文献

●気象庁(2004)『平成16年9月地震・火山月報(防災編)』気象庁.
●気象庁(2023)『令和5年7月地震・火山月報(防災編)』気象庁.
●気象庁(2024)「2024年度第82回南海トラフ沿いの地震に関する評価検討会及び地震防災対策強化地域判定会 記者説明コメント」(2024年8月7日).
●気象庁地震火山部(2019)「南海トラフ地震に関連する情報(定例)について―最近の南海トラフ周辺の地殻活動―」(報道発表資料)(引用頁番号なし).
●気象庁地震火山部(2024)「南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)について:令和6年8月8日19時45分」(報道発表資料).
●小泉尚嗣(2009)「東南海・南海地震予測のための地下水等総合観測」『なゐふる』(日本地震学会広報紙)73、pp2-3.
●小泉尚嗣(2013)「地下水観測による地震予知研究―地下水位変化から地殻変動を推定することによる地震予測―」『シンセシオロジー』6(1)、pp24-33.
●小泉尚嗣・佐藤努・中林憲一(2005)「[講演要旨]1946年南海地震の時の愛媛県道後温泉と和歌山県湯峯温泉の変化について」『歴史地震』20、p113.
●小泉尚嗣ほか(2004)『2004年9月5日の紀伊半島沖の地震と東海道沖の地震前後における近畿~東海地域の地下水位・歪の変化(2004年8月29日~9月12日』産業技術総合研究所地質調査総合センター(引用頁番号なし).
●小泉尚嗣ほか(2009)「東南海・南海地震予測のための地下水等総合観測点整備について」『地質ニュース』662、pp6-10.
●近藤和男(2006)「<技術報告>昭和南海地震前に涸れた徳島県海部郡における井戸の水位観測」『技術室報告(京都大学)』7、pp20-30.
●松本則夫(2005)「東海地震予知のための地下水観測」『地質ニュース』606、pp31-33.
●松本則夫(2012)「地下水等総合観測による東海・東南海・南海地震の予測」『産総研TODAY』2012年1月、pp10-11.
●松本則夫(2020a)「第3章 この10年のスロー地震」『地震予知連絡会50年のあゆみ』p155.
●松本則夫(2020b)「地震に関連する地下水観測データベース”Well Web”」『産総研講演資料』pp1-19(引用p3).
●松本則夫(2023)「南海トラフ地震の短期予測研究の現状と産総研の役割」『地質調査研究報告』74(1)、pp48-49.
●内閣府(防災担当)(2012)「南海トラフ沿いの大規模地震の予測可能性に関する調査部会(第2回)議事概要について」(報道発表資料)pp1-4(引用p4).
●南海トラフ沿いの大規模地震の予測可能性に関する調査部会(2017)『南海トラフ沿いの大規模地震の予測可能性について(報告書)』内閣府(防災担当).
●尾上謙介ほか(2005)「昭和南海地震前に井水異常が報告された地点での地下水観測―データセットの構築―」『京都大学防災研究所年報』48B、頁番号なし.
●小沢慎三郎(2009)「東海スロースリップイベント(2000年秋~2005年夏)」地震予知連絡会編『地震予知連絡会40年のあゆみ』国土地理院、pp155-162.
産業技術総合研究所地質調査総合センター「地震に関連する地下水観測データベース”Well Web”」ホームページ.
●梅田康弘(2017)「南海トラフ巨大地震に備える」『日本地すべり学会関西支部シンポジウム基調講演録』pp1-18.

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