変わるスポーツメディアと、既存のスポーツメディアの利点・欠点の考察

今日もそうだが変な時間に起きて寝れないときがあって悩ましい。昨日たまたまnoteには以下の記事が流れてきたので読んでいた。

「なるほどな」と思いつつ、なにか引っかかる部分も自分にはあったので、自分の整理のために、少し書いていこうと思う。

スポーツメディアの良し悪しを議論すること

まず、読んで受け取った部分を抜粋してみる。

constructive critisism(建設的批判)をちゃんとしないと、選手やチーム、リーグはいつになっても育たないと思う。ジャッジリプレイもそうで、あれをすることによって、審判が見られている意識が出てきて、よりしっかりとした判定につながっていくと思う。

インタビューや記者会見で記者の質問が優しすぎるところ。
そのポイントはごもっともだと思っていて、日本ってインタビューが定形化してると思う。
・「今日の勝利、おめでとうございます。今のお気持ちは?」
質問が普通だと、帰ってくる質問も一緒なので、毎回同じ返事が帰って来ちゃうので、誰のためにもならない。(「優しすぎる日本のスポーツメディア」より)

ちなみに先に言っておくと、既存メディアに関してはいいイメージは全く持っていないし、家には壊れたテレビしかないので既に旧媒体は捨ててしまった人間なので、上記の人たちの声については理解はしているつもりだ。

とはいえ現状の深堀りや他の視点も必要だなとも感じたので、思ったことを書き出している。これは、あくまで自身の1視点なので、こういう議論を多様な視点で議論することが、よいのではないかと感じている。

審判の仕事の困難さを可視化する「ジャッジリプレイ」

ここでも少しだけ触れている「ジャッジリプレイ」私も最初は、「こういうコンテンツを待っていた!ダメダメ審判をジャッジするぞ!」という意気込みでした。開始は2018/6/21でもう2年以上続いているコンテンツです。

当初は、審判の判断の白黒をいろんな立場の人(ファン、元監督、解説、専門家)が喧々諤々の議論していたのであれば、徐々にリプレイにおける知見が溜まってくると、見方が徐々に変わってきている。

例えば「審判からの死角で見えない。その場合、副審に確認すべき声掛けすべきところ」であったり「スローモーションで何度みると、徐々にファールに思えてしまう。これを瞬時で判断するのは難しいよね」など、審判の職業としての困難さと、それを全うしようとする職人魂的な面白みがわかるコンテンツとしても見れるようになっていた。

つまり、「審判を審判する」のではなく「サッカーのジャッジは難しく奥深い」というコンテンツ提供者の意思を僕らに投げつけているのである。個人的には、これには非常に好感を持っている。つまり建設的な批判ではなく、現状の可視化と言語化と一緒になって考えるという「第三者ではなく当事者としての視点」なのである。「第三者は所詮他人事であって当事者ではないから。。。」そのようなメディアのスタンスは、無責任じゃないか!僕たちは違うぞ!という作り手の熱い思いを感じます。

既存メディアが活用する「キャラクター共感」

私自身も「今のお気持ちは?」の定型文は大嫌いで、モウリーニョの狸親父的な部分や、過去イビチャ・オシムがメディアに対して「お前たちが一番成長していないじゃないか!」など、そういうウィットに富んだやり取りは大好きです。

けど、それだけ叩かれても、言われても、定型文を続けるのには何か理由があるのではないかとも思っている。まあ、「ただ思考停止しているだけじゃ」も候補にはあるけど、そこで考えを止めても同じく思考停止なので笑

今年はサッカーでは川崎が独走なのだが、その快進撃には通称オニさんと言われる監督が関わっている。そしてたまたま昨日読んだ記事がこれ。(ちなみに#1〜#3まであるのだが、自身は#3から読んで、「!!」となった)

教えてきたU-12の子供たちが自分の前に集まってきた。
当時10歳の板倉滉(現在はフローニンゲン)が、感謝の手紙を読み上げた。
「子供たちにまんまとだまされたんですよ。板倉がまたズルい。アイツ、泣きながら読むんですよ。一緒にやれてよかった、楽しかったです、ユースで待っててくださいって。うれしかったですね。自分の教え方がいいのか、そうじゃないのかってなかなか分からないじゃないですか。一緒にやれてよかったって言ってくれたのは……もう感動でしたね」
気がつけば、板倉以上に号泣していた。 今もその手紙は、大切に保管しているという。
(「「ネガティブな感情は自分に跳ね返る」川崎の名将・鬼木達が大切にする「本気の言葉」とは」より)

一通り読んでほしいが、選手・キャプテンとしてサッカーの鬼であった一人の人が、さまざまな出会いにより「仏」になりつつも今でも熱い思いを持ってチームを率いている様を記事で読んでいると、「あーそりゃそんな監督に率いられていたら強いよな」「オニさんはなんかいい人だな」という感情を多少は持つと思う。

これって、ライター二宮寿朗さんによる旨さでもあって、監督の人となりを文章で可視化することで、強さを生み出す当人のキャラクターを僕らに提供しているわけである。メディアって怖いのは文章の力で、当人のキャラクターを善人にも悪人にも作り変えることができる。

そして、面白いのは、人のキャラクター性というのは、スポーツに興味がない人にとっても共通事項となりえる。人によっては、自身の仕事における組織の悩みをサッカー監督に見立てる人もいれば、選手の頑張りを自分自身の頑張りとオーバーラップさせて共感を生み出すこともある。

これはスポーツにおける重要なことで、観戦対象者を選手とマニアだけにとどめてしまうと母集団の量が相対的に減ってしまうからだ。そのため、スポーツに於いては特に選手におけるキャラクターも全面に出して共感を生んでもらい「親しい人」として接してもらうことでファン獲得を行うことを構造的に必要としているわけだ。(Jリーグにおける「地域」という枠組みもマーケ的には非常に重要な要因だがこれはまた今度の機会で)

つまり「いまのお気持ちをお聞かせください」は、言い換えると「あなたのキャラクターを今来ているファンに披露して!」という投げかけの言い換えとして考えると合点がいく。たとえば昔、阿部慎之助における「サイコーです」しか連呼しない朴訥キャラクターや、不器用に答えている部分などプレーとのギャップを好感するなど、言葉ではないキャラクター面を披露する場として置き換えると、そういう作戦とも言えなくはない。

しかし、問題なのは、聞いているインタビュアーの人がその背景を知らずに聞いている部分が、透けて見えるので「とても残念」な気持ちになるのは、まったく同意である。必要なのは、インタビューする狙いをわかって聞くことであり、いまは思考が止まって作業になってしまっているんですよね。

スポーツメディアの今後

最近スポーツメディアでのトレンドは、①チームや選手自身からの発信力の強化、②大手メディアを通さない独自の視点の媒体の勃興である。自身としては、欧米における「固定化された」メディアのそれは、日本もそうだけど、形骸化したそれで大きくは変わらない気がしていて、メディアではなく記者自身が発信する軸と、チームや選手自身が発信する軸が個々にあって、それをメディアが編集する(そして一次情報としてきちんと紐付け必須)という流れが健全な気がしている。

個人が発信できることで、情報量はとめどなく増えすぎると人力をかけるメディアがきちんと整理することで簡潔な情報提供が可能になるし、全員選手が自己プロディースできるわけではないので、記者における「情報の引き出し力」で選手の本音を引き出すことも重要でその場合は大手媒体を通さずに個人でどんどんやっていけばいい気がしている。記者によっては一定の距離をとり、批判的な記事を上げるスタンスを取るのもいいだろう。

必要なのは個人で動くのはフットワークで、組織で動くのは人力で解決など目的に応じたメディアの組織形態があって然るべきなのではないだろうか。まあ、自身の職業と縁遠いので勝手に書いてしまっているけど、こういう議論を交わすことでいろいろスポーツ全体が盛り上がるといいですよね。

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