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問題提起の大衆化と、多次元情報の理解

いくつになっても知らないことを知ることは楽しい。最近、面白いなと思ったコトバが、

駕籠訴
江戸時代の越訴 (おっそ) の一つ。通常の裁判上の手続をとらず,幕府の有力者や大名が駕籠で通過する場所に待受けて訴状を出すこと。厳禁されていたので,訴人は罰せられたが,訴願の趣によっては調査が行われた。 

江戸時代におけるイメージって、年貢が苦しくとも、我慢に我慢を重ね的な想像をしてしまっていたが、いろいろ調べてみると、圧政に対する訴訟や上告プロセスが、それなりに整理されており、上記の駕籠訴にあるような、プロセスのショートカットも行われていたことがわかる。

このショートカット技は、過去に遡るとこうなるだろうか?

・江戸時代・明治:駕籠訴・直訴
・昭和・平成:メディアへのタレコミ
・令和:TwitterやYoutube?

駕籠訴でも、タレコミでも受け取る側の判断で、裁量権があった。だから、いろいろ訴えても日の目も見ずに消えていった闇は数多あったのだろう。

しかし、TwitterやYoutubeにおいては、直接的に、一般層へのリーチができるようになった。この事自体は、情報取得における民主化とも言える。ペンは剣より強しと昔の人は言ったが、ようやく我々にも手元に「ペン」が手に入ったと言えるのではないだろうか。

しかし全員が公平に持つことができたこの「ペン」が一斉に蜂起することで別の問題も発生しているのではないか。つまり、従来はメディアの仕事であった

多面的な情報取得と、その情報の理解度向上

が求められるようになってきたのではないかと。ここ数日の例のクルーズ船のそれなどが、最たるものだが、

1.外野から来た専門家の目線
2.現場トップやオブザーバなど組織人の目線
3.現場の人々の当事者的な目線
4.情感に訴えるコメンテーターの目線
5.話をすり替えて問題提起をする人の目線

これらの情報が多面的にどっとくる状況になっている。昔の新聞とかの場合も多くは2軸までに抑えて「さまざまな意見」として、一般的な意見としてまとめていたが、それはそのはずで、一気に異なる意見がまざると、物事が混沌として

いろいろあるのは、わかるけど
結局のところよくわからない
多分、書いている人の文章力がない

という話で解釈してしまうから。それもそのはずで、多元的な情報の収集整理というのは場数もいるだろうし、場合によっては解れた糸のように複雑になってしまう。

しかし、前であったら悪い意味で情報操作されて届いていたことも、大枠の全容が捉えやすくなってきていることも事実。令和の時代を生き抜く上で、そのあたりのスキルアップは、避けて通れないものになったと思います。


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