見出し画像

群青色のネクタイ。

「おとうさんの、すきないろってなぁに?」
ずっと、ずっと子どもの頃。
その日は久々に家族全員が揃った。だから、晩ごはんは外食することになった。私は嬉しくて、はしゃいでいたと思う。

「うーん…この色かな」

注文を終えて、料理を待つ間のたわいも無い会話。父は気怠げに、お店のステンドグラスを指差す。
深い、海の色だった。
料理が来ても、私はずっとステンドグラスを見つめ続けていた。
忘れてしまわないように、目に焼き付けていた。

「ねぇ、おかあさん。このいろは、なにいろ?」

後日、私は24色が揃った色鉛筆のセットを持って、母の元へ駆ける。私は、一つの色を指さした。あの時の深い青だった。

恋愛ドラマを観ていた母は、チラッと一瞥してから、視線をすぐにテレビへと戻す。画面の向こうでは、女性が失恋に涙を流していた。

「……群青色ね。どうして、そんなこと聞くの?」

グンジョウイロ。

何だかかっこいい名前。私は心の中で、何度も反芻した。お父さんの好きな色は、グンジョウイロ。
深い、ふかい海の色。

今、思い起こせば父は目についた色を指さしただけだと思う。だけど、私には一生忘れられない色となった。

梅雨が本格的に始まり出した頃。

「もうすぐ父の日ね。何かプレゼントしましょうか」
「ちちのひ?」
母と買い物に来た私は、赤い傘を引きずりながら歩く。
床との摩擦で、黄色の長靴からはキュッ、キュッと、イルカが鳴くような大人がした。
「お父さんにありがとう、大好きだよって伝える日のこと」
「じゃあネクタイをあげよ」
「ネクタイ?」
「うん。おとうさん、まいにちネクタイをして、おしごとにいくでしょ?」

スーツ姿の父が一瞬でも良い。毎日の中で少しだけでも、私と母のことを思い出す余地が欲しかった。

母は笑った。いつもの作り笑いではなく、少しだけ面白そうに。
「何色にする?」
「おかあさん、しらないの?グンジョウイロだよ!」

だけど、群青色のネクタイを渡すことは遂に叶わなかった。父の日当日、主役は帰ってこなかったのだ。
次の日も、その次の日も。

「いい加減、寝なさい。待っていても仕方ないわよ」

氷のような冷たさを増した母の声に、寝床へと向かう。毛布に包まれたら、視界がゆがんだ。

--きっと、失恋したんだね。

私は好きな人を失ったのではない。

私のことを好きではない人を失ったのだ。

いつか私は、また恋をする。

きっとスーツが似合う男の人だ。
そして、私がプレゼントするネクタイを、ちゃんと受け取ってくれる人だ。

だけど、どうか群青色だけは好きにならないで。

涙は、深い海のように塩辛かった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?