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「三島由紀夫VS東大全共闘」を観て考えたこと

今日は日曜日の無料版です。

昨日、ずっと見逃していた映画『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』をアップリンク京都にて鑑賞したので、今日はその感想を書きたいと思います。

三島由紀夫については、『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『豊饒の海』四部作を20代の頃に読み、その小説にとても魅了されたこと。また、自衛隊員に決起を促す演説をした後で、衝撃的な割腹自殺を遂げた作家という認識でした。

また、東大全共闘については、親世代の学生運動というくらいしか知識はありませんでした。

ただ、この映画はどうしても観ておきたいという気持ちが消えませんでした。そして、比較的単調なドキュメンタリーなのに、2時間弱があっという間に感じました。

50年前、三島由紀夫が割腹自殺を遂げる1年半前に東大の駒場キャンパスの900番講義室で討論会が行われました。左翼思想をもつ東大全共闘と「天皇を中心とした日本を取り戻すべき」という右翼思想をもつ三島由紀夫が言葉で直接対決した討論会です。この映画はTBSがテレビ局として唯一取材し、保管していた討論会の映像と当時を知る人々のインタビューを織り交ぜながらつくられたドキュメンタリー映画です。

心を動かされたのは、水と油のような三島由紀夫と東大全共闘が、討論を重ねるにつれて実は同じ敵と戦っているというところに思い至るところです。
その敵とは何か?はぜひ映画を観て感じ取ってほしいとおもいます。

三島由紀夫は『天皇』こそがその敵と戦うために大事だといい、東大全共闘はそれを否定し『革命』を成し遂げようとするのです。

対話を積み重ねることで、そこに至る様は美しいとさえ思えてしまいます。

左翼も右翼も今の世の中を憂い、世の中を変えようとする圧倒的な力なのです。その力に言葉をのせて相手に伝えようとするのは、相手を信じているからに他なりません。それを思うとき、今のSNS上に溢れる(わたしもそれに加担している)薄っぺらで陳腐な言葉には吐き気を催します。

暴力や決闘を美化するわけではないけれど、わたしたちが感じることができなかった、また表現することができなかった「社会への憤怒」を思う存分表現していた彼らを羨ましいと感じました。政治活動は一種の表現なのだ、とも。

こうして学生運動で暴れまわっていた学生たちは、映画の終盤「内ゲバとリンチを繰り返し、最終的に浅間山荘事件を起こして、学生運動は下火になっていく」と説明されます。学生のほとんどは就職して、家庭を持ち、バブル経済へと続く、日本経済の繁栄を支えていきます。

そうして、その世代から生まれたのが『団塊ジュニア』『ロスジェネ世代』『就職氷河期世代』です。バブル崩壊後の不景気に大学卒業を迎えた世代は、団塊の世代の定年退職がまだだったことで就職できませんでした。おりしも、小泉内閣のもとで、単純労働の派遣労働の規制が緩和されたことで、大量の若者が非正規労働者となります。

そんな若者は非正規労働に甘んじ、親のようになれない自分を恥じて、引きこもるようになりました。「こんな風になってしまったのは自己責任だ」と自分を責めました。時は流れ、引きこもった『団塊ジュニア』は今や中年になってしまいました。

歴史は繋がっていきます。

わたしたちの世代にも、「社会に対する憤怒」はあったはずです。親の世代は自分たちの椅子を子どもの世代に明け渡してくれなかったのです。各家庭では大事にされたかもしれませんが、政治的には棄てられたと言ってもいい。それに対して、ゲバ棒を振り回してもよかったはずなのです。でも、できなかった。というよりしなかった。その理由は「豊かさ」にあると思います。

「豊かである」ことが良いこととされ、良い環境を与えられていると錯覚していたのかもしれません。「豊か」であることで物質的には生きていけるのです。でも経済的に豊かであることが、人生を豊かにするとは限らないのです。

わたしたちの「社会に対する憤怒」は「ひきこも」って親を困らせたり、「ネトウヨ」に代表されるように団塊の世代とは真逆の思想に突き進むことで表現されるようになったのかもしれません。そして、それには「言葉」は必要とされていません。わたしたちは言葉を持っていませんでした。

この映画はそのような世代の人々に対して、「言葉」の必要性を訴えかけてきます。自分の思い通りに動かない主体性を持った他者と向き合うためには、熱のこもった「言葉」が何よりも必要だと。

三島由紀夫は「言葉には言霊がある。わたしは言霊を残して去っていく」と言って東大の駒場キャンパスを去ります。

三島由紀夫の残した言霊は50年たっても、人々の心を漂い続けています。「きっと劇場はガラガラだろうな」と思ってホットドックなどを食べていたら、劇場はなんと8割がた埋まっていました。

今の時代に人々は切実に「言葉」を必要としているのです。それも、薄っぺらでない、熱のこもった言葉を。それを教えてくれた映画でした。


「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

(引用以下のリンク)

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日本語教師でライターが日常をみつめるエッセイです。思春期子育て、仕事、生き方などについて書きます。

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