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オーロラに駆けるサムライ(3)初めての北極圏

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(前回)捕鯨船に3年間80ドルで売られた17歳の少年ジェームス・和田、3年間極寒の北極圏での捕鯨船での生活を強いられた。荒くれ者の白人と、エスキモーとの間で自分は日本人であることを再確認させられることに・・・。

捕鯨時期の北極圏

1892年4月末、ジェームスを乗せた捕鯨船バラエナ号は、サンフランシスコをたってから24日目に、アメリカのバローに到着した。4月から9月末までは捕鯨のシーズンだ。今年は豊漁らしく、10月までの間に45頭ものクジラが捕獲できた。

海が氷で覆われる冬の間は南下していたクジラが、春の訪れとともに再び北上してくる。春とはいえ北極圏は、寒い時の気温はマイナス10~20℃にもなります。クジラたちは、北極圏の海峡をひと回りするとも言われている。 北極海で捕獲されたクジラの中には、前年グリーンランド近郊で捕鯨していた船の名前が入った鉄のモリが鯨の背中に刺さっていたということもよくある。

アラスカの北極海沿岸に住む捕鯨民エスキモーは、春と秋に沿岸近くを回遊するホッキョククジラを捕獲している。彼らにとってクジラは、重要な生活の糧でありすべての可食部位を無駄にすることなく、茹(ゆ)でたり、冷凍したり、発酵させたり、あるいは生のままの状態などで食べている。

かれらの捕鯨漁は、小さなボートに数人ずつ乗り込み、呼吸するため海面に姿を現すホッキョククジラにアザラシの皮を張ったボートを使って近づく。

ハーシェル

北極圏での越冬

10月に入り流氷が現れだした。これまでの捕鯨は、エスキモーの鯨狩とおなじように、春になって流氷の間にクジラをおいつめて捕獲する方式だった。ところがハーシェル沖合漁場の発見によって捕鯨期間が延びた。必然的に船は現地で越冬しなければならなくなった。それまでは、捕鯨船が北極圏で冬を過ごすことは考えられていなかった。そこで食料、蒸気汽船ようの石炭などあらゆる補給をサポートする補給船や補助艦の派遣が必要となった。

当時は、北氷洋捕鯨にでるのは命がけの仕事であった。一面の流氷が漂うベーリング海峡を抜けるのさえ危険だ。漁場の北氷洋にたどり着けば、6月に解けだした流氷が進路を遮り、9月にはもう北極海からの氷が押し寄せて水路を遮断してしまう。この結氷に閉じ込められたら身動きができなくなって飢え死にしたり、船事ごと押しつぶされてしまう。

1890年、太平洋蒸気捕鯨会社のバラエナ船を含む2船が、ハーシェル島のポーリン入江(写真)に越冬したことで、ハーシェル島は捕鯨船の基地となりました。マイナス50度の海でもこの入り江は凍らなかったのです。入江が三日月のような形で流氷もほとんど入ってこなかったようです。

Herschel Island凍らない港

ハーシェル島のポーリン入江には、既にニューポート号などの3隻の捕鯨船が到着していた。ニューポート号のポーター船長が久しぶりの再会を祝いにバラエナ号に駆け付けた。ノーウッド船長とポーターは熱いハグを交わし最近の情報を交換し始めた。

ポーター船長は今のところ鯨油約700 バレルを蓄えたということ、
1バレルあたり$8.80から9.00とすると、利益は6000ドルに達するだろうということで今年は豊漁ということであった。 

ノーウッド船長は「ジェームス、お客だ昼食を準備してくれ。それからポーター船長のサポートの為、早朝リチャード島へ行ってくれ」というと、

昼食まで2人でチェスを始めた。そう、ジェームスは捕鯨船バラエナ号のコックとして働きだしていた。それもかなりの腕前であったらしい。アザラシ、クジラなどを様々なハーブを使い味付けもなかなかで船員達からは評判がよかった。

捕鯨の歴史

ここで捕鯨船バラエナ号のミッションは北極圏でクジラを捕ることであることを簡単に説明しておこう。

なぜ捕鯨?ジェームスはノーウッド船長から次のような説明を受けた。

「欧米では16世紀から燃料の油を、海を泳ぐクジラを殺してクジラの油(鯨油)から採っていた。きっかけは座礁したクジラの処理からだった。皮をはがして煮て油をとると、その油が良く燃えたことがわかったからだといわれている。暗い夜を明るくする街の街灯、家庭用にと、鯨油の需要はますます広がっていったんだ。また、女性用のコルセット、傘の骨の部分も全てクジラの骨からつくられているんだ。」

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「もっとクジラの油が欲しいと、沖を泳ぐクジラを捕りに行こうとクジラ漁が始まった1800年前半代、しかし乱獲によってその頭数は激減し、我々みたいな捕鯨船は北極にまで出かけるしかないんだ。」船長は続けた。

この話には落ちがある。当時の捕鯨は、現在の石油産業に匹敵する一大産業だった。しかし、鯨油の代替物があらわれた。1870年代にアメリカペンシルバニア州で発掘された石油である。1990年の終わりには蒸留技術の進歩によって灯油やガソリンなどさまざまな燃料や潤滑油が原油から取り出されるようになった。

リチャード島への初遠征

ジェームスはポーター船長のニューポート号のトーマス船員を含む数人と、道案内の為に雇ったハーシェル島のエスキモーと犬ぞりでリチャード島へ向かった。

北極圏では10月から11月にかけて銀世界である。

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どうやら、船員達はリチャード島からの帰りに約45頭のシカを仕留めたが、運搬ようと犬ぞりが足りなく持ち帰れなかったらしい。

出発前に、ノーウッド船長は「クマだけには気を付けるように」といった。

当時船長に同行していたエスキモーが言うには、北極圏では、貴重なタンパク源となる雷鳥は必需品であるということ。彼らが2匹の雷鳥をライフルで狙っていたら、同時にクマも雷鳥を狙っており急にクマが雪から頭を突き上げて船長めがけて一目散に向かってきたそうだ。焦って彼はライフルを落として慌てふためいて命を失いかけた経験があったようだ。

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ジェームスと船員達は夜が明けるとすぐに、編成された犬ぞり隊でリチャーズ島へ向けて出発した。1日数十キロしか走れない犬ぞりで片道300kmを走ると1週間はかかる。

最低限の食料しか持ってゆけない。不足分は現地調達である。今晩はシングルポイント(shingle point)まで行き天候をみながら前進することにした。

(まとめ)捕鯨船に3年間80ドルで売られた17歳の少年ジェームス、3年間極寒の北極圏での捕鯨船での生活を強いられた。人生初めて北極圏内で犬ぞり遠征隊に加わり片道300kmを駆けぬける。どんな困難が彼をまちうけるのだろうか?

ーつづくー

<コラム>ハーシェル島への行き方

キキクタルク準州立公園の中にあるハーシェル島は、陸と海に挟まれた乾燥し、西北極圏最大の北極圏の植物、動物、海の生物が生息している。

何千年も前からこの地を利用してきたイヌビアル人(カナダ・エスキモー)の故郷でもあります。島には、彼らの昔の住居の痕跡が今も残っています。イヌビアルイットの家族がこの地域を伝統的な活動に利用しているほか、世界中から研究者が島の変化する野生生物、地形、気候を研究するためにやってくる。

公園のレンジャーが公園を管理しています。6月中旬から9月中旬までは、カナダ・ノースウエスト・テリトリー州のイヌビック(南東250km)から飛行機をチャーターすることができます。ボートのチャーターは、マッケンジー・デルタ(Mackenzie Delta)のさまざまな地域から運航しています。島は特に夏の終わり頃になると霧に覆われることが多く、フライトが数時間、あるいは数日遅れることもある。

ユーコン準州でラフティングやカヤックをしている場合は、ハーシェル島→キキイクタルク準州立公園で旅を終えることができます。ただし、復路は事前に手配をしておく必要があります。島に飛行機や商用ボートを着陸させるには、パークパーミットが必要。

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