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マリスのロゴデザインが出来るまで①

- なぜ福祉機器をデザイン(設計)しようと思ったのか? -


「なんでソニー辞めたんですか?」「辞めちゃったんですか?」とよく聞かれます。

初めてのnoteなので、なぜソニー辞めて独立したのか書いていきます。
そもそも、最初の日立もソニーも
永久就職する気はさらさらありませんでした。
その想いに至る経緯も書いて行ければと思います。


人生が180度変わった出来事が幼少期に起きました。

幼稚園ぐらいのときは、ごくごく普通の家庭で、
普通に育っていたと思います。
それがある朝に出来事が起きました。
その日、母が救急車で運ばれて行きました。
父も救急車に同乗したため、ぽつんと階段に取り残されて
上から見ている記憶は鮮明に残っています。

そこから、その日のうちに、生活が一変しました。
その日から私は、母の実家で暮らすことになりました。
その日から身近な人間が、障がい者となりました。。。
なかなかの衝撃だったと思います。。。
起業とは直接関係ないので、このあたりの話はまたどこかで、、、

母は、小学校にあがるタイミングで退院しました。
そして再び家族3人で暮らすことになりました。
ただ、母は下半身不随で、
なかなか思うようには出かけることが出来ません。
一人っ子なので、昼間に外に出るときは、母と私の二人っきりです。
田舎なので、外にでれば不便だし、人にはじろじろみられるし、、、。
正直、小学校低学年の間は、母と2人で出かけるのが不安で仕方なかった思いがあります。
しかし、そのような経験の中で、
外にでたときのインフラの不便さ、
街の不便さ、
障がい者機器の少なさ、
使いにくさ
などが目につくようになってきました。
自然にそのようなところに気がつく素養ができてしまいました。
もちろん、健常者の障がい者に対する目も非常に気になっていましたし、
そこに対する憤りも感じてきていたと思います。
いつしか、健常者目線のみの世の中の仕組みに、
何か変えられないか?
どうやったらいいんだろう?
などと、常に考えさせられるようになってきました。
ここがこうなってたら、もっと便利なのにな~とか、
こういう機器があったらもっと自由に外にいけるのにな~とか、
いろいろ考えるようになりました。

そして、障がい者が外に出歩きやすいようになるには・・・とか、
楽に過ごせるには・・・とか、
今思えば母が一人で外に自由に出れるようには?
というように考えるようになっていたと思います。
その中で、自分自身の進路としては、
ものづくりが好きで、
工学系に進むことになりました。


大学院進学時に運命的な出会いが

国立大学法人九州工業大学大学院に進むときに
運命的と思えることに出会いました。
新しい生命体工学研究科という研究科が出来たのですが、
そこに新任で福祉機器の研究をしている先生がいらっしゃって
研究室を立ち上げると言うことです。
これはここに入るしか無いと思いました。
先生は北海道大学にいらっしゃったので、
九工大に来るタイミングで直接お会いしてお話させていただいて、
ぜひ研究室に入りたいというお話をしました。
それがよかったのか?わかりませんが、
無事に研究室に入ることが出来ました。

ここから福祉機器の研究ができるということで、
楽しみでしかなかった思い出があります。

少し長くなりましたので、この先はまた別途書きたいと思います。

最後に

Twitter始めました!
https://twitter.com/wada_maris

ロゴデザインの話の2回目は下記です。