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短編:夢見る乾燥とベッド

キスをされた夢を見た。飛び起きた。夢とも似つかぬリアルさに寝汗がすごい。寝覚めの悪い私にしては珍しく、ハッと目が覚めた驚き。えもいわれぬ焦燥感のお蔭だろう。

何故か、左胸が激しく脈を打っている。唇の妙にリアルな感覚に起因することは確かだが感情的な動機は理解できなかった。恐怖か高揚かもわからぬが、ただ後ろめたさだけはどこか覚えている。しばらく心臓が落ち着くまでレースのカーテンの隙間からこぼれる白く濁った太陽光を見つめていた。すぐ横にいる男は今の私の心の動揺など一切知らず、小さな寝息を立てて大型犬のように眠っている。職場によく来る客の一人だった。別に好きでもない。ただ、好きな音楽の話をして飲んだストロング系チューハイは、私の口によくあって酒が進んだ。家で金曜ロードショーの録画を見ながら酔っぱらって、気づくと唇が重なり、溶けた。よくあること。シーツの合間から覗き見える背中に射す光は、昨晩見ていた映画のワンシーンを髣髴とさせてクスリと笑った。写真を撮った。インスタにもtwitterにもあげることのない無意味な肌と光の画をそっと保存した。

随分落ち着いた。たぶんさっきみた夢の男は、今横でうつぶせになっている彼ではないのだろう。久しぶりに感じた背徳感だった。時間の経過とともに薄れていく自分の唇の記憶を思い出そうとしたが、もう一切の夢の記憶は私の為には蘇ってくれなかった。霞がかったような白い夢の中のキスの相手、断片的な記憶をつなぎ合わせた結果その相手への深い愛おしさだけが残った。名残惜しくて私の唇に指先を添わせた。昨日メイクも落とさずに寝た所為で、唇はボロボロに乾燥していた。不味い。彼を起こさないように、静かにベットから降りる。メイクポーチの中身が散らばってしまったトートバックからメンソレータムのリップクリームを慣れた手つきで見つけ出す。幼い頃から乾燥しがちな私の唇の恋人だった。グリーンのパッケージを見ると安心する。医療用のリップなんかより、5本セットでレジの前で安売りされてるこのリップが私のいつでも手元にいてくれて失くしても悲しくなくて自分に合ってる。いつもの唇に戻った気がして落ち着く。クーラーが効いた部屋は寒くてもうすぐ彼は目を覚ますだろうから、その前に歯磨きでもしておこう。寝覚めのキスでもしてあげてから自分の家でNETFLIXでも見てコーヒーを注ごう。自分の為に。

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