私のココロは、理系でも文系でもない
RayArc(レイアーク)の皆さま、おつかれさまです。新規事業ユニットです!
今回は、オープン社内報としては2回目の変化球です。日経COMEMO編集部さまのお題に挑戦します。お題は『心理的安全性を確保するには』?
心理的安全性には、関心がありすぎる
このテーマ。もちろん関心はありますけれど、ありすぎて。最近書いたテーマとも、わりと重なっちゃうと気づいて。考え込んでしまいました。
たとえば…かなり最近書いた、フォロワーシップとコンフリクト・マネジメントと心理的安全性のお話がこれ。健全な批判、健全な衝突、健全な恐れ。
もちろん、フォロワーシップの視点で、さらに掘り下げてみるという考え方もあります。たとえば、さらに身近な事例を挙げてみる、とか?
でも、なんだか、それもおもしろみに欠ける気もする。せっかくのお題だし、少し違う切り口で考えてみたいのです。
耳にしがちな、私にとっての不思議ワード
そうそう、忘れてはいけない!(先日つぶやきだけ投下しましたが)
RayArcに新しい『仲間』が増えたのですね!
🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸
ようこそいらっしゃいませ!
入社おめでとうございます!
🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸
出会い、すなわち自己紹介の季節でもあります。
システム開発業界のあるあるなのでしょうか?
新入社員の自己紹介で「文系ですが…」という言葉をよく耳にします。
というか、RayArcのサイトにも
と書いてありますね。
ただこれ、私にとっては昔から不思議ワードです。
いえ、そう書いてあること自体が不思議なのではありません。おそらく現実に「私、文系なのに、挑戦していいのかな?」と不安に感じる方が、一定数いらっしゃるからですよね。そこに対して「大丈夫だよ」と伝えたいと。
私も、その「大丈夫だよ」には同意です。いまだにこの業界が、文系、理系で適性が大きく変わると受け止められているなら、それはたしかに違うと思います。
私はたぶん『文理マイノリティ』だ(現時点では)
けれど、そもそも。どうしてそこまで二元論的に、文理いずれかの枠に自分を当てはめられるのか。その部分がピンと来ません。良い悪いとかではなく、私にはそもそも、その感覚が「最初から、ない」のです。
そう、少数派かもしれませんが、私には文系、理系という区分けが『実感』としてわかりません。言葉の字義的な意味はわかります。多くの人が、その軸で自身の進路を決める(らしい)ことも、いちおう理解はしています。
ただ、自分が文系とか、理系とか自分からは考えたこともないし。問われても、どちらと確信したこともないのです。これは、なんど考えても変わりません。(なので、質問されるといつも困ります)
心理学は『どちらでもある』学問、橋を渡る分野
ちなみに、私の学生時代の専攻は認知心理学です。
「見た目は文系! 中身は理系!」という、少年探偵のセリフみたいな科目です。ときどき、どっちやねん論争を目撃することもあります。
やはり「心理学はどちらでもある、わける必要がない」が、専攻した人の実感だろうなあ……。私もそうとらえます。便宜上仕分けられることもありますが、あまり本質的な意味は感じません。
大脳生理学とか普通にあったし。統計学は必須、実験が基本。哲学的な素養も必要かも。英語も必須なのは…他の理系科目も突き詰めればそうだから、心理学固有ではないかもな? でも、英語めちゃめちゃ必要でしたね。
(その割には、身についてな…ゲフンゲフン)
当時、そこまで意識していたわけではないけど。だからこそ、心理学を専攻した部分もあったのかもしれません。
私は、文系、理系の間に「川」が流れてほしくなかった。「川」があるなら、いつでも橋を渡りたかったのです。もし、そこに強固に線を引かれたら、私は真っ二つに引き裂かれてしまいます。
心理的安全性は、柔軟に広がる世界から生まれる
前置きが長くなりましたが、これは心理的安全性のお話でしたね。
そんなわけで、私は、
という、なにげない質問が苦手です。ただ、よく考えると、もう少し複雑で。ためらわず答えられるかは、予想される相手の受け止め方によります。
安心して、率直な答えを返せる相手もいます。あるいは「芸術系です!」と変化球で答えたり。私は、しいていうならアート系かもしれないです。
でも、変化球ですら答えづらく、黙るしかない場合も…残念ながらあります。同じ質問なのに、どうしてそのような差が生まれるのか?
私は、そこに心理的安全性を考えるヒントがあると考えました。
心理的安全性の低い人=想定外を書き換えない人
もし私が、
「文系、理系どちらでもあります」
「文系、理系どちらでもないです」
どちらかを答えたとします。
ここで、別の答えへの誘導を畳みかけられるケースが、たまにあります。
とか。しかたなくこちらも、
と、相手の期待とは違うだろうなということを、正直に回答します。
が、それでも、さらに食い下がられたり。そこまで露骨じゃなくても、理系、文系以外の回答はやんわりスルーして受け止めなかったり。
表情とか声色が『うーん、それは回答として想定外なんだよね』という感じで。まるで、私を知ることより、分類することが目的のプログラムみたい。
と。プログラムコードが一瞬、脳内で視覚化されたりします。
と、切ない気持ちになります。
このように、想定外のものを、テコでも『例外処理』しようとする受け止めに出会うと、私にとっての心理的安全性は下がります。
そっとココロを閉じます。
心理的安全性の高い人=世界を柔軟に広げられる人
少し巻き戻って別のパターンを考えます。
もし私が、
「文系、理系どちらでもあります」
「文系、理系どちらでもないです」
どちらかを答えたとします。
このとき、新たな選択肢の存在に気づき、その人の世界を柔軟に広げてくれる。そんな受け止めに出会う場合もあります。
無理に私に寄せるわけでもなく。ただ、概念をすっと押し広げる。そこに「私もあなたも、それぞれいますよ」という状態になる。
これなら、率直な思いを伝えられます。心理的安全性があるのです。
このように、お互いに柔軟に広がる世界を持っていれば。
一つひとつの価値観がどれだけ違っても、そのほとんどは問題ありません。そもそも違うのは当たり前。
心理的安全性を高めるためには、この世界を柔軟に広げる力が不可欠なのではないかと思います。橋を架ける力などと表現されることもあります。
では、世界を柔軟に広げる力を身に着けるには、どんな方法があるか?
ひとつ思いつくのは、まさに、アートを学ぶことです。
世界を広げる方法のひとつが、アートだ
アート系の学問には、越境・崖や壁を超える、あるいは世界を広げる力があります。触れたその日から目に見えて変わるほど、わかりやすくはないけれど、じわじわ複眼を育てるのです。
あまりピンと来ない方もいるかもしれませんが、私は共感を覚える話です。アートとはつまり、正解・不正解を気にせず、なんでもおもしろがるフラットな感性を磨くもの。
この記事ではクリエイティブ(創造性)の源泉として、アート思考が切り取られています。アートの持つ世界を広げる力、そこから生まれる心理的安全性の存在が大きいのではないでしょうか。
なぜ、アートには、そのような力があるのか?
アートに世界を広げる力がある理由とは。私が考えますに(そしておそらくすでに多くの人が考えているのでしょうが)、アートには、もともと唯一の正解がないからではないでしょうか。
VUCAなどという言葉が生まれるより、はるか昔から。答えはひとつではないという前提のもと、より自由な価値が模索されてきた分野なのですね。
そして。私たちは自覚はしていなくても、実はすでにアートの力で、目の前の壁を、ある程度乗り越えてきているようなのです。
だから、心理的安全性のために、アート思考を
すでに注目され始めているアート思考。
座禅研修など、ユニークな取り組みをしている企業もあります。
しかし、いきなりアート思考だ! と闇雲に取り入れるのは危険です。私たちにマッチしないやり方を選んで、空回りしまうかも。
ですので、RayArcの場合、入り口はこれまた『雑談』かもしれません。たとえば、お天気の話題のその次に、最近ちょっとココロ惹かれるものの話を、ほんの少しアートな気分マシマシでしてみる、みたいなことから。
その中で、私たちにフィットするアート思考の姿が、見えてくる、かも?
理系でも文系でもないココロが求める場所(まとめ)
アート思考のもとでは、
失敗ではない範囲
想定外ではない範囲
が、とても広くなります。世界そのものが無限に広がるから。
私が真っ二つに引き裂かれてしまう心配は、もはやありません。失敗や衝突を恐れずに、挑戦できる場になってゆきます。
理系でも文系でもない私のココロが、心理的安全性をとらえなおしたとき、アートという、あるひとつの答えにたどり着きました。
でも、これが心理的安全性の唯一解ではないでしょう。これからも、たくさんの別解に出会いたいものです。
(新規事業ユニット・ワクワク魔人S)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?