【映画評】「M」(1931) ファシスト失格?

「M」(フリッツ・ラング、1931)☆☆☆☆☆

 つくづく恐るべき映画である。初見時、私は、最後の人民裁判の場面で体の震えを止めることができなかった。「俺の頭の中を覗いたのか!」とキチガイじみたことを叫びだしたくなったが、緊張で口が動かない。観るたびに、金槌で頭をぶん殴られたような衝撃を覚えさせられる。
 劇中、ナチ運動をモデルにしたとされるギャングと群衆の暴走を観ていて、改めて、「ファシストにはなれねえなあ」などと間の抜けた感想を抱いてしまった。イタリア・ファシズムならばまだ、アナキストと未来派の陽気なナショナリズム同好会といった感じもあってハードルは低く思えるが、ナチスのギスギスした雰囲気はただひたすら不快で、こんな連中が同じ国の中に居ると思うと嫌悪感しか抱くことはできなそうである。せめて反ナチ右翼、せめてナチス左派……いずれにせよヒトラー万歳を叫んで群衆の一員になるなんて論外だ。ファシズムというのは、群衆を操る側にならなければ何の価値もない思想と言って良さそうである。と同時にファシズムの倫理というのは、ファシズム政権を樹立しない限り弾圧され抹殺される少数派であることによってのみ担保されるのかもしれない。(つまりファシズムの真髄は「アウトサイダー独裁」だ、と私は解釈している)。
 つまり「M」で言えば、この社会では絶対に生きていくことのできない少女殺しだけにこそ、ファシストたる倫理的な正当性があったということになる。それは、「この社会でも生きられる人々」を人民裁判にかけて糾弾し、抹殺する資格が、少女殺しにだけはあるということである。
 しかし「資格のあるファシスト」というのが居たとすれば、ファシズム革命というのは、逆に、そうした「資格のあるファシスト」を一掃する連続革命を通じてしか展開されることはないのかもしれない。ヒトラーが、自分よりさらにラディカルだったレーム派や左派を粛清したようなものだ。自分なんかよりずっと資格のある「同志」を人民と一緒になって平気な顔で糾弾できる指導者――少女殺しについて平気で「奴を殺せ!抹殺しろ!」と叫ぶ事のできる者にしか、ファシズム革命というのは担うことができないものなのかもしれない。
 私はリンチやイジメは苦手である(仮に得意だったとしても、ここで自己アピールするはずはないが)。倫理的に正当化できても、集団行動に対する生理的な嫌悪感が拭えない(この時点でファシズム以外の政治運動も落第なのだが)。ハードル、高いなあ……。
 (2020年執筆)

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