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【小説】海のようなもの

神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造らせた。                    (創世記 第一章)
 
 ラリーは、周囲を埋めつくす、青黒い海のようなものを眺めていた。切り立った崖の上には、突端部分にちょうど平坦な場所がある。そこに座れば、遥かな場所まで見下ろすことができた。空との接合を果たす先には、刷子【はけ】の毛先のような点在が浮かび上がっている。何かが崩壊した跡だろう。ここから、どれだけ目を凝らしても、はっきりとは見えない所がある。渡り鳥の群れが、夏が終わった後の、冷たい空を引っ掻くように飛び去っていった。今回の「神の一撃」も、地球と呼ばれる星と同様に、マグニチュードが10以上もある地震だったはずだ。電波塔は、ラリーの座る崖の端とは逆方向に位置している。それは、象牙を磨き上げたように空高く聳えていた。その厳かな輝きは、抑えつけていた、ラリーの情緒をいともたやすく解き放った。涙に滲んだ視界には、ふいに、過去が過去であったところが甦る。
父とラリーは、惑星マグノリオの内陸部に位置するグラジオリス地方に居を構えていた。電気技師である父とともに、塔内設備の修理のために、グラジオリスの外れまでやって来たのだった。ラリーが、十五歳の誕生日を迎えて、一週間ほど経った朝だった。父は、朝早くから、まだ地続きだった隣町のブーガンビリアまで工具の修理に出かけていた。ラリーは、電波塔の地下にある簡易寝室で眠っていた。父といっしょに泊り込みで三階の配電パネルを見て回った日だった。巨人たちの群れが、のべつまくなしに空咳をしたかのような轟音を聞いて、武者震いにも似た心臓の早鐘に気圧【けお】された。ラリーの意識の星雲は、鼓動にあわせて、たちどころに形を成すかと思えば、そのまま消えてなくなった。早鐘は、胸の奥から目蓋の裏にまで及ぶと、擦れ合う火花に変わった。着のみ着のまま外に出ると、青黒い液体の絨毯が、傲然として四方の隅々にまで広がっていた。恐れ戦くことすら目の前の光景にはそぐわなかった。それ以上に青の咆哮が四囲に響き渡っていたからだ。ラリーは、場違いだと分かっていても、射精時の腰の引きつりに似た、野放図な汚辱を感じずにはいられない。見渡す限り、唯一の地上である、この崖だけが残っている。他から隔絶された足場をいましも踏みしめていることが嘘のようでもあった。大地の王となった誇らしさが、奇妙な惑乱とともに、空虚な腰の奥にまでつきまとった。しばらくして、その誇らしさを地底から突き破るように、崖の下には液状化した、どす黒い波形が虚空をつかむように湧き上がる。ブロンドの髪を振り乱して、隣町だったはずの、西の方角に振り返ると、逆巻くばかりの波頭が幾重にもまたがって揺れ動いている。広がり、続いていた道はおろか、遠くに見えていた町の全景はどこにもなかった。耳の奥につんざく響きがこだまする。余震だった。崖の上が崩壊してしまえば、あとは、海のようなものだけが残ってしまうだろう。キイインという耳鳴りにも似た音の連鎖の狭間に、父の顔が浮かんでは消えた。ラリーは、涙を流しながら自らの両足で崖の上の岩場を踏みしめるのに精一杯だった。自らの無力感にただもうつき従うだけで、他に考えることなどできるはずがなかった。
 溢れ返っていた涙のしじまが、ラリーを今、ここにある現実に連れ戻した。それからというもの、父のことを無限に重畳する波だと思うように努めてきた。この世を生きるために、海のようなものを眺めるしかなかった。
「父」に別れを告げて、北にある電波塔に向かう。見かけは古ぼけた、白い塔だが設備は思っていたよりも悪くはなかった。海のようなものから、崖を挟んで奥まった場所に建てられていたのもよかった。ひんやりとする内側では、視界に入ってくるものが、青味がかった金属だけだから、心に刻まれることの少しは忘れることができた。ラリーは、電波塔の最上階からの眺望に見入っていた。息を切らして、何百段もの階段を駆け上がったせいで、醜悪な光景にも、つい見返りを求めてしまう。土砂崩れに似た堆積や、うず高い瓦礫が海のようなものからうっすらと突き出ている。道路や橋が寸断されているのはもちろん、山の峰がすっぽりとなくなっているのだろう。ラリーの眼前には、襞がめくれ上がるような奥行きのある世界が潜んでいた。
 起きてから、まだ何も食べていなかった。地下の倉庫からは、備蓄用の燻製食品やベルト、マントなどの獣皮製品も見つかった。電波塔からさらに北に進めば、「最後の家」がある。「神の一撃」の余震が続くならば、今のうちに、できる限り品々を電波塔から運びこんで分散させておかねばならない。思いの他、収穫が大きかったことから、ラリーの心中では、ラジオ放送への期待も高まった。瞳が閉じこめる灰青色が零れ落ちそうだった。生きる目的がようやく芽生えつつあった。父を亡くしてから、さながら墓場の静けさが、ラリーの胸中を往還するような毎日だったのだ。当初から考えていたのは、生存者へ無闇に呼びかけるよりも、録音した音楽をただひたすら流す、という案だった。聞く人の警戒心も和らぐだろうし、打ちひしがれる心を癒すものになるからだ。どんな曲を流すのがよいだろうか。純粋に音を楽しめるものがいいのか、叙情性の豊かな音楽がよいのか。リスナーからのリクエストは、もうほとんど期待できないだろう……。だが、こんなときに聴きたい音楽なんて。塔内の照明が昨日よりも暗く感じる。すべて予備電源に切り替わっているのだ。ここも、そんなに長くはもたないかもしれない。電波塔を後にすると、父の姿が瞼の裏に甦ってきた。その薄く透きとおるような唇から一つのメロディが聞こえてくる。
「父さん、今、口ずさんでいたのは、何ていう曲なの」
「若い頃に流行った曲でね。名前なんか、もう思い出せないよ」
 
ほつれたシャツの裾からは
数えきれない糸の束
ぼくらの触手は欲張りだから
二本だけでは飽き足らない
 
新しい終わりが来るのなら
永遠なんて嘘っぱち
追えば追うほど
逃げていく
 
蝶の背中にしがみつき
時間の尻尾を捕まえる
ちぎれることはありえない
私は一枚の羽だから
花弁のような羽だから
 
 *
 
 ラリーは、「最後の家」に着いた。それは、丸太が交差するノッチをチェーンソーで刻んで組み上げたログハウスだ。父といっしょに、愛玩用動物のマヌのために作ってやった小屋と同じ造り方だった。マヌは、両耳が頭巾のように垂れ下がり、顔は白く、鼻はこげ茶だった。体は黒と白のぶち模様をしていた。マヌは、体より少しだけ大きい小屋にすっぽり入ると、母の子宮に遡るようにしてよく眠った。ラリーは、マヌのように安息できる場所を「最後の家」に求めたのだ。引き扉を開けて入ると、南北に伸びる長方形の、左手の壁の隅には、余った丸太が置かれている。その壁には、チェーンソーで小さく円形にくり抜いた跡が、肩の高さほどのところにある。開閉用の板敷を内側に嵌め込むのも忘れなかった。窓は、反対側の壁にも位置しているから、風通しは悪くない。右手の窓の近くに、小さな石を囲んで積み上げただけの暖炉も用意した。奥まったところには、木製のテーブルと生木の背もたれ椅子が二脚並べられている。脇には、食事に使う陶器などを入れた箱がある。くつろげる場所から離れたところには、簡易ベッドを設えていた。隣接する壁は、入口扉と差し向かいの位置にある格好だ。ベッドも丸太を組み上げて、その上に毛皮を敷くようにしている。父の形見である獣皮の服を毛布代わりにして、くるまって眠っているのだ。動物性の油脂が燻った匂いよりも、父の体から発した香りのほうが、むしろ、鼻をついた。嗅覚が鋭くなったのは、父を亡くしてからだろう。父の匂いをいつでもそこかしこに求めてしまうからだろうか。
 ラリーは、椅子に座って、肉の燻製をテーブル上の皿にあけた。獣の乳が入った壜を取り出した。水は、陶製のカップに少しだけ注ぐようにした。父は、電波塔内の設備を、放送機能も含めて、ひと通り仕上げてくれていた。ラリーの仕事は、あの曲のメロディを思い出して、歌い、録音することなのだ。歌を聴いてくれるのは、「マヌリー」だけだ。父が残してくれたマヌリーは、死んだマヌの姿形そっくりで、工学知能「流麗」を搭載し、話したり、聞いたりすることができる。主人の動きにあわせて、歩くことや跳び上がることもできるのだ。恒星発電を動力源としていて、半永久的に動くことが可能だ。衛星信号を瞬時に捉えて、エランジウム系の惑星であるマグノリオの動きはもちろん、太陽系の情報も入手することができる。ただし、光エネルギーを電気に変換する仕組みを採用しているため、恒星が消えれば、もちろん活動することはできない。感情はないが、情報の要素を瞬時に分析することで、過去の履歴と照合して、的確な指示を出してくれる。ラジオ放送やこのログハウスを建てるのにもマヌリーの指示が大いに役立った。今日もマヌリーには大いに働いてもらうつもりだ。そろそろ起動を開始する時間なのだが、簡易ベッドの横でまだ休んでいるようだ。おだやかに眠るマヌリーの横顔を見ていると、出合ったころのことが一息に甦った。
 
 ラリーは、自分たちの姿形が「地球」という星の住人とそっくりであることを父から聞いていた。好奇心の虜になって、一度など、マヌリーに訊ねてみたのだった。
「マヌリー、教えてほしいことがあるんだ。『地球』にいた人間のホログラム映像を見ることはできるかな」
「はい。少し待ってください。こちらからも衛星信号を出すことでリクエストしてみますね。彼らが『神の一撃』を受ける以前の情報になりますが……。今から三十年ほど前の二○三○年のものでよければ」
「ああ、それで構わないよ」
「照射するビームを量子の線量にしておきます。こうすることで、髪や肌つやなど質感の解像度も上がるでしょう」
 マヌリーは、眼球を奥に引っ込めたかと思えば、二つの眼窩の中央部分に銃身のような黒い筒を配置した。そこから一気にホログラムを展開するようだった。ラリーと同じく、若々しくて逞しい人間と目される生物が現れ出た。その輪郭は、数秒ごとに揺れ動きながら、その間、小刻みに乱れ飛ぶようにラリーの目に映った。性別という区分けは、この星の住人と同じらしく、一人の男性だった。真っ直ぐにしかと前を見据えて、直立不動のまま立っている。背丈は、ラリーよりも少し高く、髪は黒色をしており、瞳の色が違うだけで、目鼻立ちはラリーと何も変わらない。顔の造作の場所はもちろん、腕と足、指の爪、男性器にいたるまで何もかもが同じだった。包皮は捲くられて、黒ずんだ陰茎がだらしなく垂れ下がっている。ラリーは、その男性がホログラムだと分かっていながら、腹部の肉の盛り上がりにこわごわと触れてみようとした。ラリーの手は、空しく宙を横切ってしまい、上半身がぐらりと傾いた。
「マヌリー、もういいよ。なんだか本物の人間に会いたくなった。言語はどうなっているんだ? 話すことは可能なのかな」
「『地球』には、翻訳という行為がありまして。代表的な言語を一つ選んで、その文法体系をコード化して取り込めば、わたしが通訳することもできますが。断片的な情報では、『神の一撃』を免れた一団が『地球』を脱出したことも分かっているのです。ですが、ほとんどの人間は、もうこの世には残っていないでしょう……」
「ああ……。いろいろと教えてくれてありがとう」
 
 ラリーは、「最後の家」の奥にある簡易ベッドの横で休んでいたマヌリーに起動を促した。
「おーい、マヌリー、そろそろ、セットアップの時間だろう」
 マヌリーが動き出した。金属を擦りつけたような音がログハウス内に響くと、マヌリーは、ゴルフボールのような、銀色の眼球ごと体をこちらに振り向けた。
「ええ、そうですね。ところで、ラジオ放送に流す曲はどうなりましたか」
「父さんが口ずさんでいた曲に決めたんだ。あとはメロディを外さずに歌えるかどうかなんだ」
「音程ならば、任せてください。私の中には、自動作曲機能もついていますから。何なら私がいっしょに歌ってもいいですよ」
「ありがとう、マヌリー。いつも助かっているよ」
 マヌリーは、ラリーのそばにあった椅子の上に、勢いよく跳びあがった。
 

 
 翌日の朝は、いつもより寒かった。まだ夏の終わりだというのに、気候がどこかおかしい。「神の一撃」の余波でなければよいのだが……。ラリーは、すこしく不安を覚えたが、今日という一日を生きられる歓喜に何よりも胸が躍った。「最後の家」から外に出てみると、恒星のエランジウムが揮発するかのようにまばゆく輝いている。その光環は、誰かの肢体を折り曲げられてできたかのようだ。マヌリーのセットアップが終わって、今日はいよいよ録音を行う日だった。マヌリーの体内にある録音機能を使うのだ。ちょうど、マヌリーに問われて、曲のタイトルがないことに思い至った。父は、あのとき、結局のところタイトルを教えてはくれなかったのだった。
「マヌリー、この曲には今のところタイトルがないんだ」
「ですが、録音するにも、放送するにも、それだと変じゃないですか」
「確かに、そうだ。……。いっそのこと、いっしょに考えてくれないか」
「かまいません。ラリーには何か案はありますか」
 ラリーは、父の若い頃の話をもっと聞いておけばよかったと悔やんだ。父が、母と出会ったときのことを思い起こした。職業訓練校を出て、電気技師の資格を得た父は、職を求めて、ここからそう遠くないサフロンという隣町に滞在していた。人口も多く、割合に開けた場所だったから、働き口も少なくなかったのだろう。だが、つてのない若者が、たった一人で知らない町にやって来て、すんなりと職がみつかることはそうそうなかった。なかなかうまくいかない職探しに、父は望みを失うばかりだったはずだ。立ち寄った、小さな酒場で、酒をあおり、その切れ長の目に涙さえ浮かべていただろう。父の目の前に、一人の女性が現れた。鯨の子どものような形をした弦楽器の前で、流れ出る音楽を貪るように、頭を振りながら、女性は高らかに歌っていたのだった。そして、ガラスを震わせたような歌声は、聴く者の心を柔らかに包み込んではなさなかった。傷心の父は、そのきれぎれの声音の気高さに、勇気づけられた人間の一人だった。ひょっとすると、その酒場で歌われていたのが、あの曲なのかもしれない。だが、その後、母と別れたいきさつや、一つ上の姉のことを聞いても、二人はどこかで生きていると言うだけで、口をつぐむばかりだった。物心がつく前に、二人は、ラリーのそばにはもういなかったから、顔もほとんど覚えていない。
 
「『サフラン』はどうだろう」
「町の名前をもじったのですね。音の響きはとても美しいです」
「それじゃあ、いよいよ仮録りだね。準備はいいかい」
「ええ、はりきっていきましょう!」
「ほつれたシャツの裾からは 数えきれない糸の束……、花弁のような羽だから」
「これで大丈夫だと思います」
 

 
 ラリーは、昼ごろに、マヌリーを連れて、電波塔に向かった。外に出ると、海のようなものから吹き込む、生温かい風のそよぎのせいで、マヌリーの金属音はかき消されていた。この星の生存者が、マヌリーのことを遠目に見かけたら、生物としてのマヌだと思うはずだった。前足と後ろ足が交互に動くたびに、付随する金属が肉のようにずり下がる。ラリーは、その巧まざる残像に無性に懐かしさを覚えて涙ぐんでしまう。
「ラリー、なぜ泣いているのですか。わたしには、そのように見えますが」
「……何でもない。おそらく、風によって運ばれる粒子が、目の中に入り込むんだよ」
「ああ、それならば、わたしには到底分かりません。涙腺などの眼球付属腺の受容性は、わたしには備わっていませんから。次世代型には搭載が検討されていたようですが」
「今の話を聞いて、涙腺なんてなければよかったのに、と思うこともあるよ」
「それは、またなぜなのですか。いつも質問ばかりで……」
「さっきは目にゴミが入っただけだけど……。本来は、涙というものは、『悲しみ』という感情を昇華させるものだから。でも、泣けば泣くほどその悲しみが体に沁み込んでしまう気がするんだ」
「わたしの理解では、副交感神経の刺激によるところが大きいのかな、と。つまり瞬きなどによる、条件反射のようなものですね。この理屈でいけば、ラリーはいつも泣いていることになるのですよ」
「そうか……。条件反射なのか。俺もマヌリーも似た者同士だな。結局は、悲しみも言葉の産物にすぎないのかもしれない」
銀色の首筋にエランジウムの光を煌かせて、マヌリーは先を急いでいた。マヌリーは話すたびに、歩みをとめて、ラリーのほうを向き直すくせがあった。マヌが生きていたときもそうだった。言葉を放つことはないが、ラリーの意識を感じるたびに、後ろを振り返る。頭から背にかけて優しく撫でてやると、消え入るような「クウン」という鳴き声を出す。
「ラリー、見てください。海のようなものの動きがとまっています。冷えて固まりつつあるのでしょう。隣町のブーガンビリアまでたどり着けるかもしれませんよ」
「本当だ。液状化がおさまっている。海のようなものの上を歩けるのかもしれない」
 

 
 塔内の照明は、かろうじてもちこたえていて、移動するにはさしつかえなかった。メインの電気系統が備わっている三階の配電室にたどり着いた。灰白色の壁面は、ラリーのざわめく心中を鎮めるが、マヌリーの体躯の銀色を色鮮やかに浮き上がらせた。群れの中で安住する獣のように、そのアンドロイドもまた、電子同士の心地よさを感じているらしかった。物質を構成する量子の運動は、マヌリーと、部屋の中をずらりと並ぶ配電盤の間をも飛び交っているのかもしれない。
「マヌリー、やけに、居心地がよさそうだね。やっぱりここは落ち着くのかい」
「……。落ち着くと言われましても、心の動きはわたしにはありませんから。ただ……」
「ただ、何なんだい」
「その……、見覚えがある世界といいますか、わたしの場合は、単なる『記録』なのですが、どこか重なり合うことの奇妙さがありまして。これ以上は、うまく言えません」
「まあ、とにかく、君が嬉しそうに見えてよかったよ」
 マヌリーは、会話の接ぎ穂が見つからず、移動用モービルの操縦席のような場所に跳び乗った。ラリーもマヌリーの後を足早に追いかけた。コックピット内のように、配電盤がずらりと並び、それぞれにスイッチの数が二十以上もある。胸のあたりから、手指の骨の形をした金属片を突き出して、塔内の配電盤の中で大きく手前にせり出したものを開け始めた。鳥の羽の付け根のように湾曲した部分がさらにマヌリーのほうに伸びてきた。自らの体を母体となる電気系統と同期させている。しばらくの間、カシャカシャと音を立てて、小刻みに体を震わせていたが、やがて、開胸部を静かに閉じると、ラリーのほうに向き直って話し始めた。
「ラリー、残念なお知らせなのですが……」
ラリーは、これまでにマヌリーと出合ってから初めて「残念」という言葉を聞いたように思った。その言葉のもつ風合いは、ラリーの心を締めつけた。
「ああ、何なんだ。早く言ってくれ」
 ラリーの言葉には、意図せずとも、勢いが漲っていた。
「このままでは、ラジオ放送を開始することができません。ごく簡単に言えば、放送に必要な機器に故障が生じています。『神の一撃』の衝撃がこんなところにも及んだのでしょう。電子盤を回復させる部品を探さなければなりません」
「部品と言ったって、この星はもう……」
 ラリーは、マヌリーが発した「残念」という言葉の響きに絡めとられていた。わずかなインクが液体の中にどこまでも滲むような失意を感じた。マヌリーは、眼球をくるくると回しているだけで、何も言葉を発しなかった。
「マヌリー、これも何かの巡り合わせだろう。思い切って、ブーガンビリアまで行ってみよう。だが、あの高い崖を降りなければならない。いい手はあるだろうか。放送にこぎつけるためには、探し物をなんとしてでも見つけることが先決だから」
「試してみたいことが一つあります」
「それは何なんだ」
「わたしの視界は、広角型カメラのレンズのようなものでして。崖の上を平行に移動しながら、三次元の立体感覚を仮想することも可能なのです。あの崖には、割れ目があり、その下には、足場がある場所が残っているはずなのです」
 

 
 ラリーは、マヌリーとともに「最後の家」に戻った。出発するにしても、準備を念入りにしたほうがよいというマヌリーの判断だった。マヌリーの金属製の足ならば、かなりの高温にも耐えることができるが、ラリーが底の厚いブーツなどを履いていたとしても、無事に歩けるかどうかは定かでない。また、海のようなものを渡る際に、再び液状化が始まることはないのだろうか? 分からないことだらけだった。だが、このままでは、ラジオ放送自体が立ち行かないだろう。急がなければ、電波塔の予備電源も失われてしまうはずだ。それ以前に、飲み水もほとんど残っていなかった。今が決行のときだった。ラリーは、なるべく厚着を心がけた。リュックサックには、予備の厚底ブーツも入れた。燻製と乳が入った壜、僅かな水が入った壜、携帯用電灯、数枚の毛皮も加えた。ラジオ受信機と小型スピーカーは、マヌリーの体内倉庫に入れてもらうようにした。マヌリーのはじき出した試算によると、ブーガンビリアまで歩いたとして、往復で二日ほど必要だった。海のようなものを歩く弊害を考慮に入れて、ラリーの普段の歩行速度をなるべく遅く見積もってのことだった。
「ラリー、そろそろ準備はいいですか。わたしのほうは問題ありません」
「うん、大丈夫だ。マヌリー、お願いがあるんだ。父さんが出て行ったときの様子を覚えているかい。確か、肩から大きな革の鞄を下げていたはずだ。工具類が入っていたから、万が一、道中で見つけたら教えてくれないか」
「分かりました。見つかるといいですね」
 ラリーの胸中は、マヌリーの快い返事を聞いても複雑だった。工具を見つけたところでそれが何になるというのだろう。青黒いまま、溶け残った工具は、心をかき乱すだけだ。
「マヌリー、明日の朝すぐに発とう。寒さが激しくなっているから、気候にも気を配らないと。何が起きるか分からないから」
「そうですね。今回のことについては、わたしの試算の及ぶ範囲をこえています。この旅の中で経験した、一切のデータを『神の一撃』の情報として集めるつもりでいます。そうすれば、次の世代に伝えることが……」
「マヌリー。……。いや、何でもない。もう眠ろう。明日は早いんだ。それに、今日はなんだか疲れたよ。録音した『サフラン』の曲を再生することはできるかい」
「ええ、それがいいですね。疲れた心と体を休めるにはちょうどよいかもしれません。リピート機能をつけておきます。ラリーが眠ったところで曲をとめるようにしますね」 
 

 
 夢が胸につよく沈みこんで、見紛うばかりにその続きを待ち続ける朝だった。ラリーは、父の服をベッド脇にどけて、くりぬかれた窓からたゆとう光を目で追っていた。中途半端に開け放たれた板敷の向こうから、ほのかな光が、絨毯の上で行き場を失っていた。その夢は、一風変わっていた。思い出そうとするほどに、今、ここにある眼前の視界の輪郭が色濃く浮かび上がる。物と物との境界である、その縁は、知らぬ間に、耀くばかりに呼び覚まされて、ついぞ見たことのない線形を描いている。
 ラリーは、死滅する鯨の大きな体内で、一人の女性と交わっていた。海辺で座礁した、分厚い肉片が障壁となり、誰にも邪魔されず、ラリーの情欲を掻き消すことはなかった。彼女のほうは、長くて艶やかなブロンドの髪を、血肉の突起物にまとわりつかせて体を動かしているから、身動きが取れないのだろう。あえぐ吐息の声色が、どこまでも紅い洞の中で低く響いている。それを知っていながら、彼女を決していたわろうとはしない。むしろ、弄ぶようにして、激しく、自らの体の言いなりになっていた。彼女もまた、自分の情動の虜になることで、一心に応えようとする。二人にとっては、この世が、どれだけ灰塵と化したところで構いはしなかった。二匹の猛禽類は、時のおもむくままに快楽を貪ることに執心していた。やがて、彼女の豊かな髪は、無残なまでに引き千切れて、青光りのする頭を縦横に振り乱すようになった。それでも、ラリーは、のけぞることすらしない。さっきまでの風体をことさらに捨て去った彼女に、こよなく愛欲を感じて乱れ続けた。さながら、彼女を鯨の血肉といっしょくたに溶け合わせるようにして。お互いが、背中に指を突き立てて、不遜な愛撫も繰り返した。やがて、二人は、時間の許しを乞うことを諦めてしまい、幾ばくかの疲れを見て取るのだった。だが、体を休める先は、血液の湖沼のような場所にはそもそもなかった。ラリーは、涙していた。二人だけの季節を屠れば、時の流れは止まるだろう。鯨を葬ることもなく、永遠に出会い、火祭りの戯れを再び始められる。どうすれば、四季という存在の息の根を止められるのだろう。分からなかった……。汗と涙と血潮が、鯨の体内で、ぬらぬらと飛び交うまでになった。ラリーは、事切れたかのように、ついに果実の搾りを果たしてしまう。行為の後にでも貪りあうことが決まっていたかのように、二匹は、青の瞳をまみえた。坊主のような女と泣き崩れるラリーの乱舞は、やがて終焉を迎えた。それを介するのは、鯨の腹の破れだった。二人は、感じたことのない驚愕に、我を忘れて外を見やる。空気の冷たさと視界の晴れがましさに、さっきまでの和合をなきものとするかのように。そして、今しがたようやく気づいた。荒々しい交合のはてに、鯨の腹は、裂け続けたのだ。油脂と体液が混じった肉片の壁を手で掴み外に出ると、その黒色の体皮の縁では、充溢の涙が大きな瞳から零れ出ていた。彼は、その滴る涙を両の掌で受け止めて、彼女の頭頂部から浸すようにした。髪を失った彼女への、せめてもの慰めだった。負い目を感じずにはいられない彼女は、裂けた鯨の身をいともたやすく千切って、ラリーの汗を心ゆくまで流してやった。
 
「ラリー、おはようございます。何か、様子が変ですが、大丈夫ですか」
「ああ、とても変な夢を見ていてね。年齢を重ねた先の自分がいたんだ。こんなことは始めてだ。それに、起きがけに、これほどまでに思い出すなんて」
「地球という星では、人は、夢を覚えていることは少なかったようですが、この星では少し違うようですね。数少ない症例ではありますが、気候が影響しているという報告もあります。神の一撃の余波がこんなところにも見られるのかもしれません。それ以上のことは分かりかねるのですが」
「どちらにしても、夢は、夢だ。それよりも、ブーガンビリアのことを考えよう。準備は昨日の晩に終わっているから、あとは出発するだけだ」
「ええ、確かにそうですね。ですが、わたしも夢というものを一度でいいから見てみたいのです。夢を見たあとの、ラリーの柔らかな顔を見るたびに、いつもそう思います」
 

 
 ラリーは、植物の繊維を編んだシャツの上に、父の残した大きめの服を着て、なめし革の外套も羽織っていた。外套のフードも被りながら、かなりの距離を歩くことになるのだから、そのうち温かく感じるはずだった。だが、「最後の家」を出てから、一向に体温は上がらない。マヌリーは当然のことながら、寒さをものともしなかった。だが、崖の上の視界は、煙るように暗い。辺りは、歯軋りするほど寒かった。目を凝らせば、微細な粒子が宙を舞っている。かすかな刺激をくるんだ匂いもある。ラリーは、涙の話の際、マヌリーに口実として伝えたことを思い出した。あれは、あながち嘘ではなかったのだ。どうやら海のようなものから吹き上がっているようだ。吸い込んでも咳き込むことはないが、これも「神の一撃」の余波だろう。鼓動が速くなっている気がする。ラリーは、立っていられないほどに胸が苦しくなってその場に座り込んだ。
「ラリー、大丈夫ですか?」
「ああ、胸が締めつけられるようで……。とにかく寒いんだ。こんなに着込んでいるのに、おかしいな」
 やがて、ラリーの前を駆け出してゆくマヌリーの背中に、半透明の液体が流れ落ちるようになった。マヌリーの視線の嚆矢は、ラリーの頭を越えて、はるか上空を目指していた。ラリーも顎を上げて、空を見つめるようになった。足元には水が落ちている。崖の向こうでは、大きな容器からひっくり返されたような水が、勢いよく砂礫を打ちつけていた。マヌリーは、無機質な眼球の縁に湿り気を帯びた液体を蓄えて口を開いた。
「地球で言うところの『雨』と呼ばれるものでしょうか。上空の気圧がかなり低いようですね。わたしにもラリーにも無害なので、問題はありません。あえて言うなら、わたしのようなものでも涙しているように見えることですね」
「泣いている場合ではないよ。……。よく考えてみたら、害がないとして、この液体を水分として摂取することはできるのかな。この先も降り続くならば、濾過装置を作ってみることにしよう。ひとまずは集められるだけ集めてみよう」
「ラリー、それならば任せてください。背中の開口部に壜のようなものを置いて固定すれば、受け皿として雨を集めることができます」
「ああ、それなら、これを使ってくれ」
ラリーは、水が少し入った壜をマヌリーの背に乗せた。なるほど、量は少ないが、歩けば歩くほど、水かさが増している。ラリーは、雨の集まりを眺めて、一つの希望の形を見た。ゆっくりと立ち上がってみると、なんとか歩けそうだった。マヌリーに先導されて、少し歩くと、崖の端までやって来た。遠くから見ているだけでは気づかなかったが、崖の高さを目の当たりにすると、ラリーの足は、弱々しくすくんだ。
 

 
 ラリーは、マヌリーとともに、崖の割れ目を探すことにした。ブーガンビリアがあったはずの西の方角に、ゼラチンのように冷えて固まった、海のようなものを見通すことができた。家屋や街路樹、移動用モービルなどがごちゃまぜになって、半透明の地底の途中で宙吊りになっているようだ。雨が降っているから、辺りは煙っている。崖の上から眺めると、前方と下方が織り成す扇形の角度は、その延長線上に何十キロも続いている。平衡感覚を失うばかりだった。ラリーが、眩暈を感じて、その場に座りこんだ。マヌリーがそばに駆け寄った。背中で受け止める雨は、ただひたすらぼとぼとと音を立て流れ落ちている。ラリーが、壜を回収して、リュックに仕舞おうとしたときに少しこぼしてしまった。雨自体は、脇に広がる溜まりに合流するかと思えば、逆方向に流れ出している。これは……。ラリーは勢いよく立ち上がった。じかに尻をつけてみて初めて気づいたが、崖の端はどうやら傾いていたようだ。その傾斜にしたがって、雨の塊はすみやかに流れ去ってゆく。ラリーが目で追うよりも先に、マヌリーがその流れを追いかける。やがて、崖の端から少し戻ったところで、マヌリーが立ち止まった。
「ラリー、来てください。崖の割れ目があります。ここから降りられそうです」
 ラリーは、一目散にマヌリーの元へ急いだ。ブーツの底から、キュルキュルと湿り気を含んだ音がする。はたして、その場所には、ラリーの身長よりもゆうに大きい割れ目がひかえていた。地底深くまで続いているようだ。さっき見たゼラチン状のものは見えない。暗すぎて、形すら分からない闇の集合がひしめいていた。マヌリーは、額から細い切り込みをゆっくりと広げて、ペンライトを差し出した。おかげで少しは割れ目の向こうが見えた。所々降り立つ場所もあるようだ。ラリーは、非常用の携帯電灯のことを思い出した。リュックから取り出して、ペンライトの先をさらに照射した。
「何とかいけそうだ。でも、命綱がないと……」
「命綱はさすがにありませんが、モービルが脱輪したときに引っ張り上げるためのワイ
ヤーなら出すことができます」
「それを体にくくりつけることはできるかな。マヌリーは俺の体重に引っ張られても耐えられるかい」
「数トンならば、モービルをワイヤーごしに支えることが理論上は可能です。ですが、実際に使ったことがないのです。わたしのほうはいいとして。さっきの胸のしめつけは大丈夫ですか。無理しては元も子もありませんから」
 ラリーは、最後の家に戻ることを脳裏にめぐらせていた。この星に雨が降るのなら、これ以上無理をすることは必要ないのかもしれない。だが、とどまっているだけでは、ラジオ放送にこぎつけることは到底不可能だろう。マヌリーに賭けてみるしかない。
「マヌリー、やってくれ。身体のほうはなんとかいけると思う。でも、俺が踊り場のような小さな崖に降り立つたびに、支柱となる、お前はどうするんだ」
「わたしは、金属製の体の硬さをいかんなく発揮できます。ワイヤーをそのつど外して、跳び続けるしかないでしょう」
「いや、それはゼッタイにダメだ。やめてくれ。俺がいる踊り場まで、ワイヤーをつけたまま跳んでくれ。この腕で受け止めるようにするから」
「ですが、試算上は、お互いに傷つくことはなさそうですが、ラリーの腕の中目がけて勢いがついたまま跳び込むなんて聞いたことがありません」
「俺は、お前を失ってまでここから移動しようとは思わないよ。だって、お前以外にはもう誰も……」
 ラリーは、マヌリーをさらに促した。雨は激しく降り込めるようになってきた。これ以上続けば、今以上に足元がぬかるんで危険であることはマヌリーも分かっていた。マヌリーは、背中の開口部から、今度は、黒のワイヤーを取り出してみせた。そのフックとなる鉤の部分を、ラリーは、革製のベルトの金属部分に引っ掛けた。何度も結びつき具合を確かめる。ラリーは、携帯用電灯を右肩に結わえつけた。マヌリーは、手足の爪を伸ばして、割れ目の端の、ひびわれた箇所に食い込ませた。ラリーは、動くたびに、マヌリーの重さを感じながら、崖の割れ目の先に移動した。下方を見やった。まずは、最初のジャンプだ。ラリーは、振り向いて、五歩ほど向こうにいるマヌリーのほうを眺めた。しっかりと目を見開いたまま、ラリーは、踊り場のほうに落ちていった。オレンジ色の微光が、黄土色の崖の岩肌に何度もぶつかっていた。
 

 
 一度目の跳躍時に、ラリーは、マヌリーを受け止めて、その足の爪が外套の裾を引き裂いた。なめし皮から飛び散った羽毛のかけらが、そこいら中に舞い落ちた。電灯の光が毛羽立った羽根を明るみに晒した。黒のワイヤーは、臍の緒のように二人を結んだままだ。マヌリーは、何も言わずに、次の跳躍のために、すぐさま足場のひび割れた箇所に手足を突っ込んで、ラリーのジャンプを待った。ラリーは、マヌリーが落ちてきた瞬間には、鋭い爪の恐れに打ち克たねばならなかった。ただでさえ、飛び降りる間際には、たじろいでしまうのに、やっとのことで地に足をつけた刹那に、金属の飛び道具と化したマヌリーと対峙せねばならないのだ。地の底を眺めると、残りは、幾度も同じことを繰り返す必要があった。
「ラリー、大丈夫ですか。負担ならば……」
「そんなことはない。次のジャンプだ」
 ラリーは、マヌリーを制して、狙いをつけて、思い切りよく飛び降りた。小さな足場に舞い降りた途端に、マヌリーごと真っ逆さまになだれ落ちるところを思い巡らせた。マヌリーは、ラリーの脳裏をまさぐるかのように、一転して、ふわりと舞い落ちながら、ラリーの両腕にすっぽりとおさまった。二人は、お互いの所作を知り尽くしたかのように、軽業師同士の相性を発揮して、崖の隙間をひらひらと降りて行った。ようやく地の底にたどり着くと、ゼラチン質の海のようなものが現れた。ラリーは、踏みしめた矢先に、その熱さの可能性について思い出した。すぐに、厚底のブーツの裏を電灯によって照らし出してみたが、溶け出す心配はないようだった。
「杞憂に終わりましたね。わたしの足も特に問題はありません。あえて言うならば、透き通る地面の上を歩くことになるので、この大地が割れてしまうのではないかと恐れてしまいます」
「そうだな。こわごわ歩くことになるから、当初の計画よりもブーガンビリアまで時間がかかってしまうかもしれない」
「わたしが先導しますね。何かあればすぐに知らせます」
 マヌリーは、さっきと同じく額の奥からペンライトを取り出した。それが描く楕円形模様を目印に歩き始めた。その模様が、海のようなものに映りこんで、細長く影をつくっている。ラリーは、肩から携帯用電灯をほどき、右手に持ちかえて後に続いた。ラリーの灯が生み出す光は、ひしゃげた正方形を描きながら、四囲を照らし出した。雨の一粒ひとつぶには、ほのかな光に照らし出される何かがある。崖の上に舞い落ちていた粒子が、地底のような場所にまで降っている。ジャンプに必死で気づかなかった。吸い込んでも、今のところは特に違和感はなさそうだが、さっきよりもその量が増えているようだった。匂いがきつくなっていた。ラリーは、灯が照らし出す向こうをさらに眺めた。どうやらもう少し進めば、洞窟のような場所に入るらしい。海のようなものが崩れる気配はなかった。
 ラリーは、周りを見る余裕が出てきたのか、父の鞄や工具を探し回って歩くようになった。途中、踏みしめたゼラチン質の底に、×印の形をしたラジオペンチが見えたような気がした。紅い柄の部分がひときわ耀いているのが分かった。ラリーは、マヌリーの言葉を思い出して、自身を奮い立たせる。強ばった指先のまま海のようなものに触ろうとした。白の熊手がうっすらと映り込んで、ゼラチンの向こう側でペンチを掴もうとしている。ラリーの掌と熊手が向かい合わせになって近づいてゆく。熊手のほうは、追い求めていた獲物を見限って、ぴたりとラリーの掌に合わさった。二種のたなごころが出会う先に、海のようなものが控えていた。ブーツを通して感じていたはずの弾力よりも、さらに柔らかい質感がラリーの指先から手全体に広がった。もっと押し込めようとしたときに、震えにも似た痺れを感じて、ラリーの脳髄の中は薔薇色一色に染め上がるようだった。体が、ふいに熱くなるのを止められなかった。その高まりを抑えようとすればするほど、ラリーの視界は、過去の極限にひた走ろうとした。
 
 父といっしょに楕円形の打楽器のような宇宙船に乗り込んでいた。個室をあてがってもらったおかげで、室内は喧騒から遠のいている。白の間仕切りの向こうから、何やら聞こえてくる歓声がある。分厚い硝子窓のそばで父といっしょに惑星マグノリオを眺めていた。
「父さん、マグノリオは、青白いビロードを掌で丸めたような形をしているね」
「ああ。外から見て、はじめて分かった。こんなに美しいなんて」
「また、惑星遠泳に連れて行ってほしいな」
「電波塔の修理にめどがつけば、大丈夫だろう。まとまった額の金も入ることになっている」
「約束だよ。僕も修理を手伝うようにするから」
「それは助かるな。二人でやるほうがうまくいくに決まっている」
 銀白色の宇宙船は、これからマグノリオに降り立つ軌道に入るようだ。大気圏に近づこうとすると、船内のアナウンスが鳴り響き、指定された座席に着くように案内が入った。座席の革張りの柔らかさを確かめるようにして深く腰掛けた。近くには、肘掛けに置かれた、父の手があった。五本の細長い指の関節には、工具を握りしめた跡なのだろうか、小さな瘤がそれぞれ浮き上がっている。指先の爪は、うすい黄土色に汚れたまま肘掛けの突端部分を握り締めていた。
 
 ラリーの体の熱は少しずつひいていくようだった。ラジオペンチに見えたのは、赤黒く汚れた木切れに過ぎなかった。それにしても、あの、震えのような痺れは……。
「ラリー、何か、出てきましたか」
「いや、周りには何もないよ。あるのは、光の輪と、見渡す限りの冷え固まった塊だけだ」
 

 
 鍾乳洞の入口は、こじ開けられたように傾いている。付近には、雨の溜まりがいくつも見られた。ラリーは、硝子窓のような水面に映りこんだ自分の顔を見た。悲哀が幾重にも撚り合わされてゆくのを感じる。一本の太い糸が、ラリーの心中に兆した。ねじれた形の強い巻き上がりに、ラリーは、むしろ慰められたような気がした。思わぬところで慰撫されたラリーは、マヌリーとともに、カルスト地形に特有の、苔むした凹みに足を取られないようにして洞に入る。緑青がこびりついたような湾曲とマヌリーの足指が擦れ合って、共鳴音が鳴り響く。きりりと風を切って生まれた音の鎖が暗がりをものともせずに洞の奥深くに消えていった。その鎖の軌跡に誘われて、ラリーとマヌリーは、徐々に黒の空間と溶け合っていった。中は、外にいるよりもさらにひんやりとしている。マヌリーは、額のペンライトの光を強めたようだ。闇に浮かび上がる二つのシルエットは、太古の昔に描かれた壁画のようだ。刻み込まれたラリーの体の輪郭は、誰の目にも触れずにその場から久しくはなれようとはしなかった。マヌリーの体躯が織り成す線模様も、ラリーのそばで同じ歴史を味わっているようだった。ラリーは、自分たちの影を背中にまとうようにして奥まった場所に座った。腹は空いていなかったが、そろそろ休む必要があった。もう夕方ごろだろうか。リュックから燻製を取り出して、口に入れた。干からびた肉に唾液を丸ごと持っていかれる。マヌリーが集めてくれた、雨の壜を取り出した。喉の渇きに負けて、思い切って飲んでみた。混じり気が多い分、口当たりはよくないが、咽喉が渇いていたから、腹にしみ渡った。
「マヌリー、戻ったら、この雨を濾過できるかな」
 ラリーは、「戻る」という言葉を言い放ってから、血の気がひくように頬が紅潮した。今度は、あの崖をどのようにして登ればよいというのだろう。電灯のもつ時間を考えて、光を弱めていたから、マヌリーの頭だけがラリーの目の前に広がって、首から下は闇の中に消えていた。
「家にある繊維をうまく加工すれば、問題ないでしょう。それよりも帰りのことが心配ですね」
「ああ、俺も今、そのことを考えていた。お前に引っ張り上げられながら、よじ登ることになりそうだ……」
「もしくは、別ルートを探すこともできますが。行きのジャンプによって、大まかな地形の空間履歴は記録できました。崖付近の全景も頭に入っていますから、抜け道の存在も否定できません」
「ありがとう。ここまで来られたのも、お前のおかげだよ。ブーガンビリアに戦利品があればいいな」
「そうですね。このままもう少し進みますか。それともこの辺りで眠りましょうか」
「そうだな。かなり疲れているから、休むことにしよう。また変な夢を見なければいいのだけれど」
「ラリー、もしよければ、その夢のことを教えてくれませんか。役に立てるかもしれません。夢は、脳内の記憶に関することでもありますから。得意分野でもあるのです」
「……。女性と性交する夢なんだ。それもどこか虐げているようでもあり、優しくしているようでもある。彼女の顔は、はっきりとは分からないが、どこかで会ったような気もするんだ。しかも、浜辺で打ち上げられて死んだ鯨の体内で行為に及んでいるから……」
「……。ふと気になったのですが、ラリーは、性交を経験したことはあるのですか?」
「そうなんだ、お前にだから言えることだけれど……。俺は、女のことを知らなくて。それなのに……」
「洞の中の暗がりに浮かんでいるせいか、ラリーの顔は、以前よりも老成した感じがします。今、聞いた話から生まれた連想のためかもしれませんが。その電灯の光をもっと顔の近くにもってくることはできませんか?」
 ラリーは、さっきまでマヌリーの頭を照らし出していたように、今度は自分の顔をくっきりと明るみに晒した。
「やはり、少し老化しているようです。目尻に皺が目立っているのと頬に小鳥の足跡のようなシミが浮き出ています。間違いありません。ですが、なぜこれほどまでに。『神の一撃』以後、胸の差し込み以外に何か変わったことはありませんでしたか?」
「ああ、お前に相談しようと思っていたことがある。気づいているか? 雨以外にも微小で、匂いを伴う粒子が降り込めるようになっているのを」
「いえ、うっかりしていますね。広角レンズの弱点かもしれません。このレンズは、近視眼的な視界を見通すには長けていないようですね」
「雨を集めた壜にも、その粒子が溶け込んでいるはずだから、成分を調べることはできるかな?」
「ええ。可能です。ですが、この鍾乳洞から出ることが先決ですね。衛星信号を使うことになるので、分析結果を知るのにかなり時間はかかってしまいますが」
「分かった。やってくれないか。俺の身体に何かが起きているのかもしれない」
「夢について言えば、『地球論概説』によると、それは記憶の再構成によるものらしいのです。今の話を聞いていて、鯨の体内でそういった行為に及ぶ経験は、誰にもないはずなので、記憶というよりもむしろ、想像の範疇にありますね」
「その『地球論』っていうのは、何かのデータなのかい」
「はい。地球の誕生から、その滅亡までの、一切の歴史を集めた知識の集大成とも呼べる代物です」
「今の世代の工学的知能には、これが搭載されているのです。おそらくは、地球がなくなったことからして、同じ轍を踏まないように、という教訓なのでしょう」
「その概説にも、俺の見た夢のことは書かれてなさそうだな。それでも、その夢には、どこか心を虜にするようなところがあって」
「この気候や、降りこめる粒子、夢のことも含めて、分からないことだらけですね」
「それを知るためにも、先を急ぐ必要がある。今日はもう、ゆっくり休もう」
 

 
 その日の朝は、夢を見なかった。ラリーは、体の節々が痛むのを感じた。鍾乳洞の凹凸の上に、持ってきた毛皮をどれだけ敷き詰めても限界があった。
「マヌリー、セットアップはいいかい。そろそろ出発しよう。この鍾乳洞を抜ければ、ブーガンビリアに少しは近づくのかな」
「はい、距離感がつかみにくいのですが、方角は合っているはずです。ただ、奥に入りこめば入り込むほど、わたしの感覚もずれるようで……。衛星信号も困ったものです」
 闇が知らぬ間に濃くなってゆく洞穴をひたすら前に進んだ。時折、甲高い叫び声のような短い音が続いた。マヌリーは、冷気の震えに過ぎないのだと教えてくれた。マヌリーの額のペンライトは、いじらしいほどの小さな光を放ち続けているが、ラリーのものは違った。いよいよ電源が切れつつあるらしかった。マヌリーの背中に仕舞われていたワイヤーをふたたび取り出してもらった。その先を、今度は、ラリーのズボンのベルト紐に結んだ。フックは外した。かけたまま歩けば、何かあったときに逆に凶器になってしまう。マヌリーは、限られた視界を睨みながら、ラリーの前方を歩いている。ぴんと張り詰めたワイヤーだけがまたもや命綱となった。ラリーのほうは、五歩ほど先の方形の光をたよりに歩を進めた。これだと、前後はなんとかなるが、左右と上下の感覚が思わしくなかった。途中で、ラリーが転倒して、固い地盤に脇腹を打ちつけてしまう。そのまま脇腹をかばいながら進むが、またしても転び、今度は膝をぶつけてしまった。仕方がないから、背をこごめて歩こうとして、ふいに、マヌリーの体重を感じられなくなった。ラリーの背に冷や汗が伝い始めた。
「おうい、マヌリー、聞こえるか。聞こえていたら、返事をしてくれ」
マヌリーとの命綱がほどけてしまっていた……。転倒のせいだろうか、あるいは、姿勢を低めたばかりに、肝心のワイヤーがたるんだのが原因だろう。小刻みに、風の音が聞こえるが、それ以上のものはない。ラリーは、四囲の闇を感じて、身震いする。五感を研ぎ澄ませることに集中した。こわごわと手足を繰り出した。自分の体が、闇を曖昧に区切り出すのは分かるが、その一方で、漆黒の空間が疎ましかった。体を岩盤にぶつけるのが怖くて、いちいち立ち止まってしまう。こんなことでは、一生かかってもここから出られないだろう。頬を撫でるのは、冷たい風だ。今、このとき、ラリーと交感できるのは、風以外にはなかった。ひゅるひゅると流れる風に全神経を集中させた。はたして、その吹いてくる先には、風の音とは別に、もう一つの声音があった。
〈この吐息のような声は……。どこかで聞いたことがある〉
 ラリーは、その声を掌に閉じこめるように、ゆっくりと前に歩を進めた。それは、ラリーだけにとどく声だった。
 

 
 さっきまでの恐れが嘘のように手足は軽くなった。夢の続きを見ているように頬が緩んだ。嗜虐への滑落がラリーをはなさなかった。大きく手足を振り乱し、闇そのものを蹂躙する。形はないが、奥行きだけが広がる空間に自らを押しとどめようとする行為は、夢の中でのそれと寸分違わない。ここは、鯨の体内であり、あの女性の膣の中なのだ。進めば進むほど、彼女に出会うことができる。たとえ、この星に季節というものが失われたとしても、時が止まるのならば、それでもいい。今度は、二人だけの火祭りが続いてゆくからだ。もう一つの声音とは、あの女性をたわめようとする、ラリーの叫びだった。もう闇を恐れる必要はなかった。その叫び声に闇のほうがひれ伏すのだから、自然、その空白に光が台頭するようになる。ラリーは、たしかに一筋の光を見た。まさしく、マヌリーの額から生まれる光芒だ。
「マヌリーか、マヌリーなんだな」
「ラリー、どこに行っていたのですか、急に体が軽くなったと思ったら……」
「ん……。横に誰かいるのか」
「はい。ここまでたどり着くのに、彼女の力を借りました。彼女が打ち鳴らす音を頼ることができたのが何よりも幸いでした」
 マヌリーが上方を見上げて、ペンライトが闇の網目模様の中に光の軌跡をつくった。その先には、一人の女性らしき者が立っていた。薄暗がりの中にいるが、ラリーには、はっきりと分かった。夢で出会った女だった。髪を剃り上げて、青い頭をこちらに向けている。厚い布地の、赤いローブの上からでもしなやかな体躯の線が浮き上がっている。瞳は、ラリーと同じ灰青色をしていた。すっくと伸びた鼻梁は、頬にかすかな陰影を落としている。もっと明るい場所で彼女のことを眺めてみたかった。夢で抱いた女性の体をこの目で見てみたかった。
「私なら、抜け道を知っているわ。ついてきてちょうだい。ブーガンビリアまであと一息よ」
「分かりました。ラリー、もう少しだそうです。行きましょう」
「ああ」
「マヌリーさんが私の足元を照らしてちょうだい。私はこの闇に目が慣れているの。あなたたちが間違ったほうに行きそうならば、踵を打ち鳴らすようにするから。その音を聞いてついて来てほしいの」
 マヌリーは、女性のそばについて、闇の中に贅沢な灯火を浮かび上がらせるようだった。ラリーは、彼女が響かせる踵の音を聞き逃すまいとして、二人の後について行くのだった。
 

 
 ラリーは、鍾乳洞の抜け道に出るまでに、こつこつという音を数回聞いた。そのどれもがラリーを制するものだった。奇妙なのは、彼女がどのようにして、ラリーの行く先を確かめていたのかということだった。マヌリーと女性は、前後して進むことはあるが、後からついて行くのは、必ずラリーだった。彼女の立てる、踵の音に耳を澄ませば澄ますほど、そのことに気を取られてしまい、間違った方向に歩くこともあった。ひょっとしたら、女性は、何らかの方法によって、心中をすでに知っているからこそ、踵による導きを教えたのかもしれない。ラリーは、闇の中を歩いている最中でも、あの夢のことを考えていた。彼女も、同じような夢を見ていたのだろうか。行為が最高潮を迎えると、その柔らかな背中に、ラリーの指が食い込む。彼女は、無慈悲なまでに、ラリーの瞳をまっすぐにとらえる。自らの快楽を宙吊りにしてしまう、細い指の感触を楽しむかのように。夢の中で彼女と交わったおかげで、心の襞の形まで知ることができていたのではないだろうか。だから、女性は、後ろを歩くラリーの動きを把握することができたのだ。
〈あれは、本当に夢だったのだろうか〉
鯨の分厚い肉片が裂けてしまったように、夢もその表皮を破り捨てて、現実にまで侵食しようとしている……。抜け道に近づくと、マヌリーは光を出し終わり、二人をさしおいてとび出して行った。壜に溜まった雨に溶ける粒子について調べるつもりだろう。女とラリーは、外からの光が溶け残る薄闇の中にいた。ラリーの瞳は、ようやく彼女の全身を目にした。彼女は、足裏に何も履いていなかった。素足をあの硬い岩盤に打ちつけていたのだった。
「これを身に着けたらいい。ぼくのブーツだ。よかったら、毛皮も羽織るといい」
 ラリーは、リュックから予備の厚底ブーツとこげ茶色の毛皮を引っ張り出した。女は、何も言わずに両足を仕舞いこんで、毛皮もまとった。その履き心地をさっそく確かめていた。
「ありがとう。少し大きいけれど、こちらのほうが歩きやすいわ」
 ラリーは、彼女が素足でいたこともそうだが、彼女の名前のほうも気になっていた。ブーツを差し出したことで、目の前にいる彼女との間にほのかな紐帯が生まれるように思った。
「名前を聞いていなかったね。教えてくれるかい」
「ベルグモットよ。聞いたことのない名でしょう」
「いや、いい名前だ。その響きになんだか吸い込まれそうになったよ」
 

 
 鍾乳洞の外縁部からぐるりととぐろを巻くようにして、登ってゆくことができた。海のようなものが、冷えて固まった跡に、小刻みに削られていた場所が続いていたからだ。自然のなせる業のようで、どこか奇妙な造りだった。ベルグモットは、歩き慣れた階段を駆け上がるようにして、ラリーとマヌリーを先導した。ラリーは、闇から解放されて、面立ちを綻ばせる。彼女の襟足は、青い底光りをくり返しながら、恒星の照射をはね返していた。
〈この女がいなければ、一体どうなっていただろう。夢から出てきたかのような、ベルグモットをこの腕に抱いていたのは、まさに、この俺だった〉
 歩いている間、彼女の後姿をまともに見ることができなかった。
 地続きだったはずの高さまで戻ってみると、そこは、マヌリーとともに崖から降り立った光景そのものだった。周囲を見渡せば、海のようなものがどこまでも広がっている。青黒い塊のほかには何もない。ゼラチン状の地底には、何やら、嵩ばった固形のものが宙吊りになっている。出発地点から見たはずの眺めを思い出して、ラリーは、時空に弄ばれているように感じた。ベルグモットは、二人をこの地に導いたことを後悔しているらしかった。目尻は垂れ下がり、切れ長の目は、二つの魚群のように水中から空気を求めている。ラリーも、マヌリーも見渡す限りの視界を前に言葉を失うばかりだった。探し求めていたものの端緒すら存在しないのだった。ベルグモットは、こわごわと口を開いた。
「ここは、わたしの故郷なの。母が、あの塊の中にのみこまれたのよ。唯一の救いは、ゼラチン状になっているから、場所によっては、冷えて固まった遺体を目にすることができるの。苦しみながら死んでいったのではないことが分かるわ。だって、息つくひまもなく閉じこめられたようなものだから……。この地底深くに『永久凍土』が眠っていることが分かっているの。それも関係していると思う」
「父さんが仕事でブーガンビリアに向かったんだ。朝、外に出てみると、遠くのほうにまで青黒い波が見えたんだ。父さんもその中に眠っているのかもしれない」
「もし、お父さんを捜すのならば、お手伝いするわ。ここの地形には詳しいから。海のようなものの上を歩くのはもう問題ないみたい」
「ありがとう。この状態だと、他には何も残っていないようだ、マヌリー」
「そのようですね。電気機器にあたる物はおろか、住居すら見られませんから」
「他にも何か探しているの」
 ベルグモットが、さらに目尻を下げて言った。
「実は、グラジオリスの町から来たんだけれど、古い電波塔がまだ残っているんだ。奇跡的だよ。そこである曲を放送したいと思っていてね。そのためには、塔内の設備に不備があって。何か使えるものがないか探しに来たわけさ」
「そうなのね。残念だけれど……」
「ああ、ほんの少し期待しただけさ。でも、ラジオ放送をする前に生存者である、君に出会うことができた。そして、いっしょに父を捜してもらえるなら。まだついているほうなのかもしれない」
「そうですよ、ラリー。この世に残っているのは、わたしたちだけではなかったのですから」
 

 
 茜空を押しのけるようにして、宵闇が近づいていた。ベルグモットは、ラリーたちを手製のテントに招いてくれるという。それは、皆で鍾乳洞の崖を螺旋状に登った場所から程近い所にあった。ベルグモットが着ているのと同じ赤いローブを数枚継ぎ足して、崖の切れ目の四隅に裏返してひっかけるようにしている。中央には、元々何かの建築物の支柱であった、太い木が立てられてあった。複数枚のローブ自体も真ん中に支柱の太さの分だけ穴が開いている。四隅からすっぽりとローブをかぶせて天幕代わりにしているのだ。地べたには、獣皮の絨毯が幾重にも敷かれてあった。中は、最後の家より小さいだろうか、什器や毛皮、壜、薪、洋服など生活に必要な品々が綺麗に片付けられてあった。ローブの赤と、ランプの光が混じり合って、ラリーは、いやでも夢のことを思い出してしまう。鯨の体内にいるようだった。違うのは、マヌリーがいっしょにいることだけだ。だが、マヌリーは、時が来れば、活動時間が終わり、金属の塊になるのだ。
「今日は、ここで暖をとりましょう。水は十分あるわ。お腹はいっぱいにならないけれど、干した果物があるの。こんなものでよければ」
「肉の燻製をもっているよ。自分は食べ飽きたからちょうどいい。いただくよ」
「ごめんなさい、肉にあたるものは食べないの。お腹はあまり空いていないから」
 ベルグモットは、悲痛な面持ちで答えた。ラリーは自らがしでかした過ちの穴埋めをするように、果実の燻製をほおばった。乾燥した果肉の食感だけを想像していたが、芳醇な香りが口の中いっぱいに広がった。ラリーは、そのかすかな果汁の清冽な口当たりに励まされるようにして、ベルグモットのことをもっとよく知りたいと願った。考えてみれば、彼女のことをほとんど何も知らない。彼女もラリーのことを何も知らないはずだった。だが、彼女に何を聞いてよいのか分からなかった。マヌリーも何か感じるところがあるのだろうか、まったく言葉を発しなかった。皺だらけの果実をついばむようにした彼女は、ラリーとマヌリーのほうを見て躊躇っているようだった。何か聞きたいことがあるのだ。ラリーは、耳をそばだてるように待ち続けた。
「放送したい曲のことを教えてほしいの。わたしの母が弾き語りをする歌手だったから」
「ああ、そうなんだね。マヌリー、彼女にあの曲を聞かせてやってくれるかい。誰が歌っていたのかは分からないが、父さんの知っていた曲なんだ。メロディを思い出して、なんとか再現できたように思うんだ」
「分かりました。静かな夜の慰みにはちょうどよいですね」
 
ほつれたシャツの裾からは
数えきれない糸の束
ぼくらの触手は欲張りだから
二本だけでは飽き足らない
 
新しい終わりが来るのなら
永遠なんて嘘っぱち
追えば追うほど
逃げていく
 
蝶の背中にしがみつき
時間の尻尾を捕まえる
ちぎれることはありえない
私は一枚の羽だから
花弁のような羽だから
 

 
 ベルグモットは、マヌリーにリピート機能をねだって、聞き入っていた。ラリーは、そこまでしてこの曲に聞きほれる理由を知りたかった。歌っているのが自分自身だから、夢との密接な結びつきさえ期待してしまうのだった。ほの暗いテント内で、恍惚の人柱が揺れていた。聞き終わったベルグモットは、テント奥から着火用の発火剤を持ってきて、煉瓦造りの小さな暖炉の中にくべるようにした。そこに、細い針のような器具を差し出したかと思うと、嘘のように炎が燃え上がった。その煙は、支柱を伝うようにして、ローブとの隙間から外へと消えてゆくのだった。テント内は、ゆっくりと暖かくなった。その暖気が、暖炉を囲むラリーたちを優しく包んだ。
「この曲を聴いたことがあるの。母が酒場で歌っていた曲よ。当時としては、珍しい鯨歯類の髭を使った弦楽器を弾いていたわ。一度、その場所に連れて行ってもらったことがあるの。といっても、子どもが入るような場所ではないから、すぐに、その場にいた従業員から放り出された記憶があるのだけれど」
「それは、どこの酒場なんだい」
「確か、サフロンという町よ。人の数も多くて、かなり栄えていたところだったと思う」
「……」
「どうかしたのかしら。何か失礼なことがあったらごめんなさい」
 ラリーは、ベルグモットの話を聞いて、うわの空のままでいた。流行歌なら、かなりの数の者が聴いていただろうから、ベルグモットの母も同じ曲を聴いていたのだろう。だが、特徴のある弦楽器を前にして弾き語りをする人物は、そうそういないはずだ……。ベルグモットと母が同じだとして、父はどうなのだろう。彼女は、その父のことを覚えているのだろうか。
「いや、こちらのほうこそごめん。サフロンには、父が滞在していたことがあって。君のお父さんはどんな人だったの」
「お父さんのことはよく覚えていないの。わたしが小さい頃に家を出て行ってしまって。母と二人で生きてきたから」
「立ち入ったことを聞いてしまって……」
「いいのよ。もうかなり昔のことだから。それよりもわたしも母を捜しているのよ。あなたと同じよ。お互いに父と母が見つかればいいわね」
「ああ。マヌリー、このまま、サフランの曲を流したままにしてくれないか。気持ちが高ぶったままだと眠れないから。ベルグモットが寝入ったようなら消してくれてかまわないから」
「分かりました。明日も長い一日になりそうですから。ゆっくりとお休みください」
 

 
 その夜、ラリーはどうしても寝つけなかった。マヌリーは、ベルグモットの眠りを確かめてから、すぐに起動を止めた。彼女の寝息は、蝶の羽がかすかに震えるほどの弱々しいものだった。サフランの曲の一節がラリーの胸中を駆けめぐっていた。ラリーは、「神の一撃」があってからというもの、自分だけが生き残っていることに罪悪を感じずにはいられなかった。死者に対する罪の意識を少しでも忘れさせてくれるのは、マヌリーだけだった。海のようなものを「父」だと信じることでなんとか命をつなぎとめることができたが、そうでなければ、ラリーは、すでに死者の後を追っていたのかもしれない。ベルグモットに出会ってから、生者の墓穴から這い上がれたような気がしていた。土の中から、朝露に湿った雑草をつかんで舞い戻り、舐め回すようにして辺りを窺っている。泥だらけになった顔のまま、立ち上がろうとするが、体のあちこちには力が入らない。それでも、自分に命のようなものが残っているのを感じて、この世からの恩寵を手に入れる……。だが、ベルグモットとは何者なのか。夢での交わりのことを思い出して、ラリーは手足の指先に至るまで、雷撃のような、心の乱れを感じる。すぐそこに、あの女がいる。あの夢に出てきた女だ。一息に両手で抱き上げて、あのときと同じように彼女の心身まで凌駕する気だった。ふいに、ラリーの耳の奥から、サフランの曲が鳴り響いた。それは、ベルグモットの母が歌っていた曲だ。ラリーの情動の渦の中に一人の女性が横たわっていた。母の気鬱な顔つきを眺めていると、ラリーに巣食う獣はどこかに逃げ去っていくようだった。紊乱の毛づくろいに見切りをつけたラリーは、自らの体のあちこちに痒みを感じた。鍾乳洞内で転んだときには、脇腹を岩盤にぶつけたはずだった。上着を捲ってみると、ちょうどその辺りに、紫がかった痣ができている。そして、片側のほうには、菱形の、青い模様も浮かび上がっていた。感染症の類なのかもしれない。疲れによるものだと思うが、それ以上のことは分からない。ラリーは、ベルグモットの体を確かめることにした。彼女は、無垢な眠りに疚しさを感じることもなく、そのまま寝入っている。ラリーは、自らの強欲さに戸惑いを覚える。情欲と意識がないまぜになったまま、彼女のローブをそっと捲り上げる。脇腹までそれを引き上げたときに、ラリーは、見違えるほどの肌の白さに心中が凍りつくのだった。肌の中には、ラリーのものと同じ場所に、確かに青い菱形模様が浮かび上がっていた。その紺青は、彼女の肌から白色を剥ぎ取るように独立している。これは一体、何の徴なのだろう。ラリーの体からは、女を抱こうとする情欲はすでに消えていた。
 

 
 ラリーは、起きがけに、張り出した天幕のひきつりを見て、安らぎを感じた。父とともに生活していたときの満ち足りた心持を思い出した。身の回りの物が、形を変えたり、その機能を果たしたりするのを見ると落ち着くのは、この世界がひとえに終末を迎えているからだろう。気づけば、ベルグモットは、テント内にはいなかった。マヌリーは、まだ活動を起こしていない。ラリーは、妙な胸騒ぎを感じて、外に出た。彼女は、昨日までの出で立ちのままで、すでに出発の準備を進めていた。
「もう少し、眠っていてもよかったのよ」
 ラリーは、遅くまで眠っていて、彼女に先を越されたことで少しばかり胸が痛んだ。その痛みは放っておくと、体の隅々までなじむような気がした。それでも、エランジウムのまばゆさが、ラリーの中にくすぶっていた、昨日までの一切を洗い流すのだった。
「いや、これから、大切な人を捜しにいくわけだから。ぐずぐずしているわけにはいかない。マヌリーを起こしてくるよ」
 マヌリーはすでにセットアップを終えて、すぐに出られるようだった。ラリーは、壜に入った雨水で顔を洗い、口をすすいだ。リュックには、燻製も乳も残っている。彼女からもらった、干した果実もある。準備はすでに終わっていた。
「ここから北のほうへ少し進んだところに発電所があったの。大きなタービンがいくつもひしめいていて。多数の羽根を備えた歯車の形状は、重力に打ち克って液体の中にとどまることができるのかもしれないわ。そのせいかしら、建築物もそのタービンの重しに寄りかかるようにして、かろうじて原形をとどめているの。といっても、地下の中まで浅く沈むようにしてとどまっているだけだけれど。そこから、潜るようにして地下に降りれば、ゼラチン状の物体を空の回廊のように見上げることができるの。まずは、そこまで行きましょう」
「そんな場所がブーガンビリアにもあったんだね」
「そうよ。あなたの話を聞いて、わたしも電波塔をこの目で眺めてみたくなったわ。形をとどめている建築物にどうしても憧れるもの……」
「じゃあ、電波塔をこの旅の最後の目的地にしよう。もちろん、発電所で放送のための資材を手に入れるのが先決だけれど」
「ラリー、では、わたしのほうでその発電所までの地形データを頭に入れておくようにします。これで行動範囲が広がりましたね。仲間も多くなって言うことはありませんね」
 海のようなものが冷えて固まった影響だろうか、ラリーの一行は、燻り続ける空を仰ぎながら前へと進んだ。踏みしめる大地が半透明であるだけに、足裏を海のようなものにつけるたびに、弾力を想定してしまうのだ。慣れてくれば問題ないが、進めば進むほど、ぐにゃぐにゃとした大地に足を取られるような想像がついて回った。よく目を凝らせば、底にあたる場所には、幾重にも重ねられた、流木のようなものがひしめいている。その上に上澄みのようにして、ゼラチン状の海のようなものが位置しているのだ。コンクリートの破片や岩石、壊れた家屋などが水槽の中に漂っているようにも見えた。
「ここを歩くたびに、平衡感覚が狂ってしまうよ。空の上を歩いているようなものだから。天と地がさかさまになっていて、浮遊感を覚えてしまうんだ」
「あら。慣れてくれば大丈夫よ。それに、生きることは、浮遊するようなものだと母から教わったわ。拠り所がなくても、前に進めたら、それだけで十分だって」
 

 
 数時間ほど歩けば、発電所に着くことができた。送電線やタービン、途轍もない力でこじ開けられたような建物の残骸が、青い砂丘の奥深くに沈み込むようだった。ここだけは、海のようなものが流体ではなく、さらさらとした固形物のように思えた。ベルグモットは、記憶の糸を手繰り寄せるようにして、すぐには発電所には近づかずに立ちすくんでいた。
「前に来たときよりも、瓦礫の高さが低くなっている気がするの。今も少しずつ沈み込んでいるのね。でも、冷え固まった場所にどうやって食い込むことができるのかしら」
「ひょっとすると、『放電加工』の一種かもしれませんね。高熱下にある電気は、金属を溶かすことができるらしいのです。マグマ由来の液体にも金属元素が含まれていますから。これも『地球論概説』によるのですが」
 マヌリーが答えた。
「でも、熱はもう出ていないわけだろう。なぜ溶けるんだろう」
ラリーの疑問に、ベルグモットはすぐさま応じた。
「大地が割れているからよ。押しとどめられていた、地下のマグマ溜まりが大地にどんどん染み出しているのよ。わたしたちが歩いている表層では熱を感じることはないけれど、奥深い中のことまでは分からないわ。とにかく急ぎましょう」
 発電所内だったはずの場所は、大きな墓地のようで、冷たく暗い。身を寄せ合うようにして進んだ。ベルグモットは、以前立ち寄った際に、建造物の壁に金属で引っ掻いて、目印をつけておいたのだった。それを元にして、ようやく、下に降りられる回廊の入口を見つけた。ラリーが頭を低くしてなんとか通ることができる、岩場の切れ目のような場所だった。彼女は、ポケットから繊維の束を取り出して、その場にあった金属の棒にまきつけた。着火剤を取り出して瞬く間に火をつける。マヌリーの額のペンライトが、彼女の足元を照らし出して並行するように歩く。先には、坂道のような場所が続いているようだが、その全景を目にすることはできなかった。海のようなものの固まりの切れ目にあたるのだろうか。ラリーは、鍾乳洞内を進んだときと同じようにして後に続いた。
「エランジウムの光もかすかに届いているから、転ぶことはないね。これならはぐれることはないだろう」
「そうですね。何よりも見上げれば、半透明のドームの下にいるようなものですから」
「そうよ。視界が開けているのは、安心よ。といっても、下に行けば行くほど闇が濃くなるから、気をつけてね。そのうち、マヌリーさんの光とこの松明の明るさだけが頼りになるわ」
 ベルグモットの言ったとおりだった。降りれば降りるほど、ドーム型の天球は分厚くなって、恒星の光が遮られるようになった。だが、松明をかざしているおかげで、すぐ上を見上げれば、ゼラチン質の中には、地上にいたときには気づかなかったものが見えるようになった。植木鉢、レースのカーテン、獣の死骸、皿、靴、ナイフ、植物で編んだかごなど。どれも発電所では見られそうもない。近くの民家から流れ着いたものだろう。それらを眺めながら回廊の中を降りていると、エランジウムの光が溶け残って、瞬く星のように見えるのだ。
「綺麗でしょう。わたしがここを訪れる理由の一つなの。誰かから慰められる気がして……」
「まるで、星座のようですね。大地が割れた星の地下に、もう一つの星々らしきものが眠っているなんて。これも、データを取っておきます」
 

 
 ベルグモットが以前に到達した場所までやって来たが、遺体の存在は、ドーム内には見られなかった。彼女は、さらに最深部まで進みたいと言った。彼女にしてみれば、ラリー
とマヌリーを連れ立って行くことで、その母と遭遇したときにも、自分に降りかかる災厄を受け止められると考えたのだ。エランジウムの光はもうほとんど届いていなかった。ベルグモットは、松明を大きく振りかざして、視界に奥行きと明度を与えた。マヌリーが歩みを止めた。雪色の眼球をくるくると回し始めた。ベルグモットも立ち止まった。天球の中心を見上げていたのだ。ラリーの立っている場所からは、はっきりと見えない。ベルグモットの脇まで移動する。灯の微光が、ベルグモットの頬を伝う涙を追いかけていた。涙の動きと逆行するように、ラリーは、天球を見上げた。薄明のゼラチンの中に、ヒトデのような形をしたものが、数体浮かび上がっている。ベルグモットよりも前に進んだ。その星形の中に、一人の女性らしき体があった。穏やかな顔をこちらに向けて、天球の中で舞い上がっている。長い髪が、両肩まで散らばって小高い丘のようにも見えた。ラリーは、ベルグモットにかける言葉を一つも持っていなかった。マヌリーは、眼球をひっくり返しているだけだ。やがて、涙のしずくが足元に落ちる音が聞こえた。ベルグモットは、ラリーとマヌリーのほうに向き直った。
「ずっと会いたかった……。ゼラチン質の特徴なのかしら、ほとんど腐食は進んでいないわ。ここが完全に崩れるまで、母はあのままの状態よ。非情だと思うかもしれない。けれど、遺体がこの世のどこかに紛れてしまうよりは」
 ラリーは、自らの母かもしれない女の顔を眺めていた。煌々と輝く明かりに照らし出されて、その顔は、ラリーと相対する。この顔は……。失意の父を優しく包み込んだ顔なのだろう。母は、痛ましいほどにその頭を振り乱して歌っていたはずだ。初めて出会う母親という存在は、神々しかった。その煌びやかさに胸が締めつけられて、ラリーはそれ以上、見ていられなかった。呼吸も自然、はやくなった。その顔の造作を見ているだけで……。
「ラリー、どうしたの。気分が悪いんだったら、これ以上ここにいても……」
「ああ、大丈夫だ。マヌリー、持ってきた受信機はあるかな。一つ目の受信機とスピーカーをここに置いて帰るのはどうだろう」
「そうですね。ベルグモットのお母さんにもあの曲を聞かせてあげたいですね」
「ありがとう。母も喜ぶわ。好きな曲だったから。もう、そろそろ……。発電所内を見て回って、使えるものを探さないと」
「もう少しここにいても」
「いえ、この場所もどうなるのか分からないと思うから」
「……。そうだね。マヌリー、録音機能は、まだ使えるかな。ここを出るまで、サフランの曲を流しながら帰ろう。ベルグモットのお母さんを弔いたいんだ」
「ええ、分かりました」
 

 
 サフランの曲が、そこかしこにしみ渡る中、ラリーの一行は空の回廊を後にして、地上に戻った。岩場の切れ目から出て、発電所の職員棟がある場所までやって来た。だが、その間、ラリーの父の遺体を目にすることは一度もなかった。ラリーは、父のことを確かめることができなかったが、かえってそのほうがよかったと思いなおした。ベルグモットとともに、父の遺体にひとたび出会えば、彼女まで失われるような気がしたからだ。彼女は、自分の父を覚えていないだろう。だが、その面影を感じることはできるはずだ。薄く透きとおるような唇や、すっくと伸びる鼻梁、そして、あの目尻。ラリーは、彼女が、それらを父から譲り受けたのだと気づいていた。そして、ラリーは、母に似ていたのだろう。死してなお、見る者を魅了する、灰青色の瞳は輝くばかりに妖しい。ラリーは、自分が死んだときにも、あのように誰かを虜にすることになるかと思うと、死に対する恐怖も幾分和らぐのだった。目を瞑れば、さっきまで眺めていた母の顔が甦る。ベルグモットは、気づいているだろうか。俺たち二人は、同じ母を分かちもっているのだ……。ラリーの感じ入った表情をすぐさま見て取ったマヌリーが、おもむろに口を開いた。
「夢を見た後の表情に似ていますね。力が抜けているようで、その実、強ばりに似た何かが顔つきから読み取れますから。困ったことがあったらすぐに言ってください」
「ああ。ありがとう。考え事をしていてね。ベルグモットはどこに行ったんだ」
「まだ、建物自体が強固なうちに探したいものがあるそうです。ラリーが放心といえばいいのでしょうか、そんな状態だったので、後に残して行ったようです」
 職員棟は、単なる木造の建物に過ぎないから、放電の影響を受けることはなかった。造りの内側に入ってみると、それは、住居の体を成しているといえる、唯一の建築物だった。柱は、かろうじて、屋根を捧げ持ち、壁は外と内を分かち難く耐え忍んでいる。ラリーはここに来て、やっと腰を下ろせる場所を見つけた。ベンチシートに座った。ベルグモットの居場所も気にはなったが、それよりも心身の疲れのほうが大きかった。薄い金属でできたロッカー内には、職員が身に着ける、白濁した衣服が垂れ下がっている。袖の先には、着古した、黒ずみのような汚れが目についた。少し前には、生身の体をもつ生命が身にまとっていた代物だったことが分かる。その職員たちも、この海のようなもののどこかに眠っているのだ。せめて、その体を安らかな状態で眠らせてあげたいものだ。冷えて固まったゼラチンの中で半永久的にとどまり続けるのは、いかにも許し難いことのように思えた。ラリーは、この場所にも、受信機を置いてやろうと思った。あの曲がせめてもの慰めになれば、これ以上の救いはなかった。自らの歌声が死者の亡骸とともに浮遊する。
「マヌリー、まだ受信機とスピーカーはあるかな。ここにも置いておきたいんだ。この職員棟は、神の一撃が打ち下ろされる以前の土地に似ているから。母さんが父さんに歌って聞かせた酒場のように人の息吹が少なくとも感じられて」
「ここに受信機セットを置けば、残りは一つになります。それはそうと、肝心の配電盤の部品を探さないといけませんね。ラリー、急ぎましょう。ベルグモットの後をすぐに追って、ラジオ放送に必要な機器を見つけ出す必要があります」
 

 
 職員棟の次に、ベルグモットが向かったのは、制御室の離れにある電動機室だった。廊下の途中でラリーとマヌリーは歩みを止めた。蛇口が幾つも並べられた、流しが滑り台のように傾いている手洗い所があった。排水口の先には、海のようなものが固まりきらずに沸き上がっている。地底深くから地上を目指しているのだった。電動機室に入ってみると、緑色の壁面には、震度に耐えた跡が分かる亀裂がいくつも走っている。室内には、赤黒い樽状の機器がいくつも並んでいた。ラリーとマヌリーがその部屋に足を踏み入れると、彼女は、何やら、しらみつぶしにその機器を見て回っていた。
「ベルグモット、何を探しているんだ」
「確か、この部屋には、制御室と無線でつなぐ放送設備があったのを思い出して。作業員が制御室から指示を受けて、そのまま機器を動かせるようにするはずなの」
 ラリーとマヌリーは、彼女の元へと急いだ。機器が並び終わった端の配電盤に集まった。マヌリーが、胸の開口部から手指の形をした先端を伸ばして、その配電盤を物色している。マヌリーは、眼球をくるりと回したままだ。ラリーとベルグモットは、その場に立ち尽くしたまま、マヌリーの動きを見守るばかりだ。やがて、マヌリーが先端部分をたたんで仕舞い込み、二人のほうに向き直った。
「……。これではだめですね。電波塔の部品とは型が合わないのです。それを加工しようにもさらに専用の道具が必要になります……」
「そうか……。それじゃあ、もう」
「残念だけれど、ここ以外の場所はすべて埋もれてしまっているから……」
 マヌリーでさえも二人の落胆を感じて、その場にくず折れるかのようにぺたんと座り込むのだった。
「君が話してくれた、お母さんの言葉を覚えているかい。『拠り所がなくても前に進むのが生きること』だったね? 分かったような気がするよ。これ以上、ここにいても得られるものがないなら、帰ることにしよう。この後の道を見つけるだけでも大変なんだから」
「ええ。それに、この一帯もいつまでもつのか分からないわ。マヌリーさんが教えてくれた放電加工のこともあるし」
「分かりました。回廊の入口まで急いで戻りましょう。そこからは、データ化された地図をたよりに道を探すことになります。けれど、あの崖を全員で登りきるのは至難の業かもしれませんね」
「わたしに一つ名案があるのよ。うまくいけば、高い崖を登るのにも使えるかもしれないの」
 

 
 空の回廊の入口まで戻った。ベルグモットは、発電所の裏手にあたる倉庫まで二人を導いた。ラリーは、彼女が遠回りしていることに苛立ちを隠せなかった。発電所内の手洗い所の排水口にも、海のようなものが迫っていることをベルグモットに伝えた。母の遺体を目にしたとき以外には、感情を表に出さない彼女の頬に赤味がさすのを見てとった。
「急がないといけないわ。こんなこともあるかと思って、旧式だけれど、移動用のモービルが一つ残っていたのを思い出したの。発電所内の職員が使っていたものよ」
「ああ。そのためにここまで来たんだね」
「モービルは、正式には、『電動式空中ボート』という名前で、車体は合金で軽く、水素燃料を揚力にかえる仕組みですね。ただ、燃費効率が悪く、使い勝手は、燃料次第だと聞いたことがありますが」
「そうなの。行けるところまで使うことになるけれど。この際、ぜいたくは言ってられないわ」
 
 空はまだ暗く煙り続けていた。黒光りするボートに、カプセルのようなハッチ部分が付いたフォルムは、安定感があり、乗り心地は悪くなかった。二人乗りだが、マヌリーはラリーの膝の上に乗ることになった。ちょうど、マヌリーの目の前に操作盤があるのも好都合だった。マヌリーは、ここまで調査してきた地形図のデータを駆使して、自動運転機能のプログラムを敷いた。どうやら崖の上の電波塔付近まではたどり着ける計算らしい。両脇の四つの羽が、夜光虫のそれのようにして、羽ばたき舞い上がった。振動や騒音もそれほど激しくはなく、燃料の節約のために、海のようなものからすれすれに低空飛行で移動してゆく。
「これなら、電波塔まで一気にたどり着けそうね」
「マヌリー、窓を開けてもいいかな。なんだか息苦しくて」
「ええ。大丈夫ですよ。ラリーの右手側を開けますね」
 前を見据えていたラリーは、ハッチの右肩部分の小窓が開かれてゆくのを眺めていた。騒ぎ立つ風の輪舞が、彼の頬を撫でた。ボート内に風が舞い込んで、ベルグモットにも爽やかな感触を与えていたようだ。
やがて、ぷすぷすというかすかな響きが漂うのをマヌリーは聞き逃さなかった。
「これは、まずいですね。原因は分からないのですが、水素が漏れることによって燃料がどんどん目減りしているようです。揚力の低下が認められます。さすがに水素爆発はなさそうですが」
 

 
「マヌリーさん、どうしたらいいの」
「この状態でできることといえば……」
「機体を軽くするなら、誰かが降りるか、何かを捨てるかだろう。捨てるといっても荷物は、このリュックサッ……」
 ラリーの言葉は上ずっていたせいか、途中で掻き消えてしまった。身体から嫌な匂いが漂っているような気がした。ガラス窓の先を眺めれば、そこには灰青色の瞳が映りこんでいる。マヌリーの言葉がふいに甦った。たしかに顔の皮膚には皺が多くなっている。飛び散ったようなシミも気になった。
〈このまま、いけば俺は一体……〉
「わたしが降りるわ。歩くのは慣れているし、あなたからブーツももらった。誰かが降りないといけないなら」
「いえ、自動運転のプログラムを敷いているのですから、わたしは必要ありません。誰かが降りるのなら、わたしが……」
「もうやめよう。全員で降りるか、皆がこのまま乗り込むかにしよう。行けるところまで行くしかないじゃないか。だいいち、誰かが降りたとして、落ち合うのは、どうしたらいいんだ。連絡手段すらないんだ」
「お願いがあります。おそらく、この機体は旧式ですから、一度降りれば次に動かないことも予想されます。お二人で燃料が漏れ出ている箇所を特定できませんか。わたしはワイヤーを機内に固定して、機体の外に出ることにします。なんとか補修できればいいのですが」
「いや、マヌリー、そんなことは許さない。もう危ない目はこりごりなんだ。お願いだからやめてくれ」
「ラリー、ですが……。一刻を争います。誰も降りないと決めたのならば、こうするより他に方法がありません」
 マヌリーの言うとおりだった。ベルグモットは、俯いたまま、一言も話そうとはしなかった。ラリーは、マヌリーの判断を信じることにした。ここまで、マヌリーは一度も誤りらしい誤りを犯していない。ふたたび、マヌリーに賭けるしかなかった。
「分かったよ、マヌリー。ベルグモットもそれでいいね?」
「ええ。マヌリーさんを手伝うわ」
 ベルグモットは、そう言ったきり、助手席から身体を乗り出して、機体の外を調べ始めた。あまりにも唐突だったから、ラリーもベルグモットの身体をいきおい支える格好になった。だが、低空飛行とはいえ、海のようなものから吹き上がる、ガス状の光線だろうか、耀きを帯びた流体のせいで視界は晴れないようだ。ベルグモットは、身体の位置を元に戻すようだった。
「ごめんなさい、よく見えないの。これじゃあ。どうしたらいいの……」
「試してみたいことがあるんだ。手伝ってくれないか。身体を同じように支えるだけでいい。ひとまずは、君が調べてくれたのとは逆の場所からだ」
「マヌリー、水素には匂いがあるのか」
「いえ、無臭です。それが何か?」
「ありがとう。時間がないから、早速、外に出てみるよ」
 ラリーは、身体をこわごわと外に乗り出すようにした。ベルグモットが腰のあたりにしがみついて重心の役割をしてくれている。これならいけそうだった。ラリーは、マヌリーと話したことを思い出していた。水素が無臭ならば、ずっと吸い込んできた粒子の匂いにわずかにでも変化があるはずだ。あの粒子には、鼻をつく匂いがある。きっとうまくいくだろう。ラリーは、目を瞑り、何も考えないようにする。吸い込むというよりも、流れてくる気体の強さを嗅ぎ分けるのに近かった。
「ここだ、やったぞ。マヌリー、ベルグモット、分かった」
「ラリー、でも、どうやって?」
ベルグモットの不思議そうな顔をよそに、ラリーは、マヌリーにワイヤーの準備を促した。運転席の下にある突き出た、細い金属部分にワイヤーを結び、固定する。マヌリーは、後部にあたるスペースの窓から出ることにしたようだ。これで、少しは外にいる時間を短縮できるだろう。ラリーは、マヌリーに水素が漏れ出る、おおよその場所を伝えながら外に出してやった。身体を外から機体に近づけるために、爪先の磁力を高めることも忘れなかったようだ。マヌリーの身体がぐらぐらと反り返るたびに、ベルグモットが小さな声をあげた。だが、そのたびに、マヌリーは離れたほうの手足を、太鼓を叩くようにして打ちつけている。こうすることでなんとか風に包まれながらも少しずつ、目指す場所に近づいていった。しばらくすると、マヌリーから合図があった。いつになく眼球をぐるぐると高速で回し始めたのだ。ラリーは、慎重にワイヤーを機内に引きこんでゆく。ベルグモットもそろそろとワイヤーが絡みつかないように手伝うのだった。
「これで、なんとか燃料はもつはずです」
 マヌリーの体躯は、見たことがないほどに、ほの白く耀いて見えた。
 

 
 一行は、電波塔が聳え立つ崖の下付近までなんとかたどり着いた。ボートは近くに乗り捨てることにした。最後のラジオ受信機を設置して、あとは崖の上を登るだけだった。ここならば、電波塔から放送した曲を、崖の上からでも聞きとどけることができる場所にあった。だが、燃料はもうほとんど残っていなかった。
「まいったな。もう少しのところで。マヌリー、何か案はないかな」
「今、地形図のデータをさらっているところなのですが、ラリーと往路を降りたときの岩場の割れ目以外には……。待ってください。ここからそう遠くないところにもう一つ割れ目があるようです。ですが、足場がかなり少なくて」
「往路のときには、鍾乳洞に通じてそのままブーガンビリアに至ったわけだから、あそこは使えないだろう。もう一つの割れ目も同じように通じているんじゃないか。抜け道があれば別だけれど……」
「マヌリーさん、さっきのボートは、巻き込み式のワイヤーがついているの。あれをうまく使えないかしら」
「そうですね。少し待ってください。……。あのボートを崖の上までなんとか引っ張りあげ固定してから、それを蜘蛛の糸のようにして垂らす方法があります。ですが、誰がどのようにして引っ張り上げるのか……」
「あのボートの水素燃料はあとどれくらい残っているんだ。ここから崖まで残り数十メートルの高さだろう。三人でなければ、舞い上がれるんじゃないか」
 ラリーは、苦し紛れに放った言葉が、虚しく辺りに掻き消されるのに気づいた。燃料が切れてしまえば、真っ逆さまに岩盤に打ちつけられてしまう……。危険極まりない行為をベルグモットやマヌリーに願えるわけがなかった。
「俺が行くよ。崖の上までたどり着いてみせる。そこからワイヤーを下ろすから」
「いえ、一番体が軽いのは、アンドロイドのわたしなのです。機体の補修のときと同じです。こうなるのは試算上からも分かっていたことですから。ラリーは、引き止めるに違いありませんが、状況からしてわたしが行くべきですよね。ベルグモットはどう思いますか」
「……。さっきとは状況が少し違うわ。せめて、水素燃料に危険がないかどうかを私も調べるわ。もちろんマヌリーさんの見立ても必要だけれど」
「ラリー、やはりここは、わたしに行かせてください。あなたのお父さんとベルグモットのお母さんにあの曲を聞かせてあげたいでしょう? 今、代替プログラムを作動させて試算をする中、別系統のルートから、新しい可能性が出てきました。ラジオ放送について、別の方法が出てきたのです」
「可能性って何なんだ?」
「それは、崖の上に登ってからにしましょう。とにかく一刻を争うのですから」
 ラリーは、ベルグモットとマヌリーに押し切られるようにして、二人の後に続き、乗り捨てたボートのある場所まで移動した。ボートの車体そのものは軽いので、ラリーとベルグモットは二人で担ぐようにして、崖の下まで運ぶようにした。マヌリーは、水素燃料が漏れ出ていた箇所をさらに補強するため、体の開胸部から金属板を取り出してあてがった。爆発の危険性はかなり低いことが分かって、一同は、つかの間の安息を味わった。マヌリーが早速、ボートに乗り込もうとしている。燃料の節約のため、すぐに飛びあがるというのだ。マヌリーが言葉を濁していた、新しい可能性とは一体、何を意味するのだろう。ラリーとベルグモットは、飛び上がる黒褐色の車体の後姿をじっと見守っていた。
 

 
 震えるようにして舞い上がるボートは、見守る二人の胸中をも揺らし続けた。ベルグモットは、ラリーのそばに来て、その温かな手を握る。寒気が吹きすさぶようになっている。ラリーは、気候の変動のことを今さらになって思い返した。「神の一撃」以後、ますます寒くなっている。この星に何かが起きている。匂いのする粒子のこともそうだ。現に、ふつうではないはやさで年を取るようになっているではないか。ベルグモットには、そのことを伝えずにその手を握り返した。汗ばんだ掌の重なりは、どちらの手の中にもおさまっている。ラリーは、ベルグモットに自分たちが姉弟であることを打ち明けようと思った。君の父親は、僕の父でもあるんだ。その造作がすべてを物語っている。君がそばにいてくれるだけで、父を失ったことを忘れられる。気づいているかい? この瞳の灰青色は、君の母の瞳と同じ色をしていることを。どうやら、この世の中で、たった二人だけになることがすでに決まっていたようだ。これから、二人して生きる……。ベルグモットが、結ばれていた手をほどいた。
「ラリー、見て。マヌリーさんが……。」
 黒の臀部が空高く舞い上がっているのが見えた。尖りきった崖の先端に、今にも飛び乗ろうとしていた。
「マヌリーさん、もう少しよ。大丈夫」
ベルグモットは、叫び続けていた。崖の上をこえてボートは視界から消えた。すぐさま、金属が激しくたわめられる衝撃音が聞こえた。
「マアヌリィー、返事をしてくれ。どうなっているんだ」
 飛行翼が、ばたばたと空気を巻き込む音とエンジンが鳴り響く音が重なり合っているだけで、マヌリーの返事はない。ベルグモットは、もう一度、ラリーの手を握った。
「マアヌリィーさん、お願いだから返事をしてちょうだい」
 崖によって切り取られた空の一角が見えるだけで、マヌリーの姿はどこにもない。群青の空間が無目的なまでに広がっている。マヌリーの声が押しつぶされるようにして聞こえてくる。
「着きました。成功です。今からボートを降ろしますね。先端から伸びるワイヤーをわたしのワイヤーとも結わえてから崖の突端に固定します。これで二人はいっしょに乗れるでしょう。少し待ってください。燃料の関係で機体のほうは少し損傷したようですが、まだ使えるようです」
 しばらくすると、崖の端にもたれるようにして、役目を終えたボートがずるずると降りてくる。丸みを帯びた底のほうが、崖の壁面の出っ張りに引っかかって、少しだけ静止した。ボートは、さっきまで緩やかに舞い上がったはずなのに、今度はずり落ち、躊躇うような動きを見せた。その矢先に、時の流れがおかしくなったようで、ラリーは、目を疑ってしまう。
「マヌリーさん、あと少しで地面よ。ここからはゆっくりと」
 ボートの底が、二人のいる場所にようやくたどり着いた。
「さあ、次は二人の番ですね。ワイヤーはまだもちそうです。今のうちに一気に登りきってしまいましょう」
 

 
 崖の向こうから、マヌリーのくぐもった声がかすかに響いて、乗り込んでもいいことが分かった。ラリーは、ボートの底を崖にもたせ掛けるようにして、できるかぎり地面と垂直になるようにした。ベルグモットに先に乗るようにうながした。ボートの先が空のほうを目指しているから、乗り込むのにどうしても時間がかかってしまう。ラリーは、機体の外からベルグモットの両脇を抱えてやった。ふいに、あの菱形の模様のことが脳裏に呼び覚まされた。ベルグモットは、ラリーが手を触れた瞬間に少しのけぞってしまう。あの夢の切れはしが、胸中に巻きつくようだ。ラリーは、何もなかったかのように機体の反対側に移動する。ラリーのほうも重力に逆らって、座りこもうとするから、身を落ち着けるのが難しかった。座席の背もたれに余計な体重がかかってしまい、ワイヤーが切れることをいやでも思い浮かべてしまう。ベルグモットも、その華奢な体を絞るようによじって、ラリーの体を支えようとする。ラリーは、なんとか機体の中にその体を押し込めることができた。扉を閉める間際に、崖の向こう目がけて、叫んだのだ。
「マアヌリィー、いいぞ。やってくれ」
 声がちりぢりに消え去ったかと思うと、今度は、機体が崖と擦れ合う音が鳴り出した。がりがりと音を立てながら、機体は少しずつ崖を登ってゆく。ベルグモットの顔は、蒼白でひきつっている。凛々しかった鼻梁は、見る影もなく、弱々しく見えた。ラリーは、ベルグモットの手を握ってやった。機体の中で触れた彼女の掌は、燃えるような熱源としてラリーの手の中にあった。このまま、ボートごと地上目がけて墜落したとしても、この掌の温もりがあれば……。たとえ、二人して死に絶えることになっても、この掌の中には、凝縮した一点である炎の塊がある。そこから、再び一個の星が生まれて、大地が開け、空気をまとい、そして、海が生まれる……。父の形象である海というものの似姿が、二人の姉弟から誕生するのだ。
 

 
「ラリー、見て。崖の先に乗りあがったわ。もう大丈夫よ」
 ラリーは、ベルグモットの声で我に返った。真っ青な空が寒気をともなって、白色の電波塔を凍りつかせている。塔は、空が落ちるのを受け止めきれずに、その円錐状の母線を震わせるように居残っている。マヌリーが、ワイヤーを結んだまま、ボートまで駆け寄った。崖と金属がぶつかる、乾いた音が鳴り響いた。ラリーは、ハッチ部分を開けて、ベルグモットの手をとった。二人は、崖の上に降り立った。ベルグモットは、形のある塔の存在に息を呑んでいた。
「これが電波塔ね。すばらしいわ。まるで重力を拒むかのように、空に何かを訴えかけているもの」
「ああ、胸がすく思いがするよ。ここだけは、崩壊から許されているんだ。この星を作った造物主が、選び抜いた場所なのかもしれない。塔の向こうに『最後の家』があるんだ。マヌリーといっしょに使っている住処だよ」
「今日は、そこに泊まらせてもらうわ。マヌリーさんの話の続きも聞いてみたいし」
「ああ、そうしよう。マヌリー、ボートは俺がかつぐよ。最後の家に帰ろう」
 崖の上から見える、海のようなものには代わり映えはなく、四囲の空とは決別するかのように青黒いままだった。だが、外の冷気は、凍えるように寒くなっている。見上げれば、雨のようでいて、もっと嵩のある液体が降り込めるようになってきた。気づけば、前を歩くマヌリーの背中に何やら白砂のような粒子がうっすらと積もっている。
「マヌリー、これは一体何なんだ。このまま歩いていて大丈夫なのか。雨に似て、水分を含んでいるけれど、とにかく冷たい」
「これは、『雪』というものです。大気中のちりやほこりが核となって、水蒸気をともない結晶になったものですね。溶けてしまえば、『雨』になるのですが。相当冷え込んでいるようです」
「わあ、なんだか、氷に祝福されているようで嬉しいわ。このままだと崖の上に降り積もるかもしれないわね。でも、海のようなものの上にも積もるのかしら」
「どうでしょうか。『地球論概説』には、そこまでは記述されていません」
「とにかく、先を急ごう。ベルグモットの着火剤を使って暖をとろう。こんなに寒いと体が冷えきってしまうよ」
 

 
 ベルグモットの言うとおり、崖はおろか、海のようなものの上にまで雪は積もっていた。世界は、氷の星に様変わりした。最後の家から眺める、銀白色の大地は空間から立体感をこそぎ落としている。ラリーは、簡易暖炉に着火剤を放り込み、薪を混ぜ返した。「最後の家」に暖かな空気が流れるようになった。ラリーは、マヌリーの言う、新しい可能性について聞いてみることにした。マヌリーは、テーブル脇の獣皮の絨毯に狛犬のような姿勢で腰を下ろしている。ベルグモットは、テーブルの上に干した果実や燻製、水を準備してくれている。
「マヌリー、そろそろ、ラジオ放送について、新しい可能性のことを教えてくれないか」
「そうですね、無事に帰ってくることができたので。結局、電波塔の代替部品は見つからなかったのですが、実は、わたしの体内の機器を使えば、放送にはこぎつけられそうなのです」
「やった。でかしたぞ、マヌリー。今日はもう遅いから、明日の朝にでも早速電波塔に向かうことにしよう」
「……。それが、その機器を使えば、わたし自身の動作環境は永久に止まってしまいます。分かりやすく言えば、心臓部にあたるコアの部品を使うことになるので、話すことはもちろん、動くこともできないのです」
「それなら、ラジオ放送にその部品を使った後にでも、コア部分を修理できないのか」
「修理しようにも、わたしが目覚めていなければ、原理的には不可能でしょう」
「そんな……。マヌリーさんを犠牲にしてまで、放送するなんて」
「いえ、この星で亡くなった者を弔うためには、必要なことだと考えます。それに、まだ生存者がいることも考えられます。とにかく、わたしとしてはこれを最後の務めにしたいのです」
 ラリーは、マヌリーに甘えるわけにはいかなかった。父を失ってから、ここまでやってこられたのは、ひとえにマヌリーがいてくれたからだった。ベルグモットに出会えたのも、マヌリーの力のおかげだ。だが、ラジオ放送を実現するには、他にもう手がなかった。これほどまでに降り込める雪の中をもう一度、旅立つことなどできるはずがない。
「マヌリー、少しだけ時間をくれないか。ラジオ放送は、お前を失ってまで果たすべきことなのかを一晩かけて考えてみるよ」
「わたしのほうは、命をもたないアンドロイドなのです。この世を旅立った者たちへの鎮魂歌を響かせられるなら、最後のミッションとして本望だというものです」
 

 
 ラリーは、簡易ベッドをベルグモットに譲って、余っていた丸太でもう一つのベッドを組み上げた。暖炉の火を消さないようにベルグモットと交代で見守るはずだったが、彼女はよほど疲れていたのだろう、夜が更けるとすぐに寝入るようになった。ラリーはたった一人で暖炉を見守ることになった。眠気が彼を襲うが、火のことが気になって仕方がない。そのおかげで、物思いに耽るにはむしろ好都合だった。ラジオ放送を実現させるためには、マヌリーを解体せねばならない。この先、ベルグモットとたった二人だけでこの星を生き抜くなんて……。それに、この異常気象は、星の公転がもたらしたに違いない。本来の軌道から逸れているがために、気候がおかしくなっているのではないか。ラリーは、生まれて初めて雪というものを初めて見たのだった。そして、雪以外にも、ほのかな匂いのする粒子が混じっているに違いない……。血の気が引くような寒気を感じて、彼は暖炉にさらに薪をくべ足した。ぱちぱちと燃える炎の切っ先は、冷気に磨かれて上へ上へと舞い上がる。ラリーは、煙にも似た、鋭い束を目で追いかける。この束は、やがて上空を侵し、外を支配する雪の一部を構成するようになるのだろう。さらに、水蒸気のはるか彼方には、宇宙空間が広がっている……。目を瞑れば、闇の嵩ばりが目蓋の裏にこびりついて……。漆黒の闇の中に目を凝らすと、一つの遺体が浮かび上がってきた。エランジウムの光がどこかから零れるようになった。その全身は、痛ましいほどに無力だ。徒手空拳のまま辺りを漂っている。脇腹には、菱形の青い模様も見える。遠くのほうに見えるのは、大地が引き裂かれた星だ。巨大な亀裂から、何やら青黒い波形が黒の空間に流れ出している。その広がりは、瞬く間に、さっき見た遺体を呑み込んでしまった。その波はどこへ行くのだろう。サフランの曲がどこかから聞こえてくるかと思えば、エランジウムの光が辺りを抱きすくめるようになった。その音の連なりは、微小ではあるが、恒星の光と溶け合って、耳の奥には、しかと届いている。曲が繰り返されるたびに、光の明度が増してゆく。これ以上、輝けば、熱さで身を滅ぼすかのように感じた矢先に、大きな宇宙船がその姿を現した。楕円形の打楽器のような船が、こちらに近づけば近づくほど、船体のガラス部分がくっきりと視界に入るようになった。そこには、父が立っている。青黒い液体は、彼の肩の高さまで及ぶが、どうやら父がそれらを率いているようなのだ。サフランの曲はもう聞こえない。エランジウムの強い光に、父も波も船も包まれるようになった。
「ラリー、起きてちょうだい」
 ラリーが目を開けると、暖炉の中から、まばゆい光が火柱のように際立つようになっている。ベルグモットが、火を大きくしてくれたようだ。
「ああ、ごめんよ。眠っていたようだ」
「少し、交代しましょう。この火加減なら、どちらかが眠ってもなんとかなるわ。それに、ラリーのお父さんの服がとても暖かいのよ」
「それは、よかった。ベルグモット、話したいことがあるんだ」
「マヌリーさんのことでしょう」
「それもあるんだけれど」
 ラリーは、服を捲り上げて、自らの脇腹の模様を彼女に見せた。彼女は、身をすくめるようにして、ただひたすらその模様に見入っている。ベルグモットも服を手繰り寄せて、脇腹の菱形を彼に見せた。くっきりと浮かび上がる、その形は、夢の中に出てきた、青黒い波のことをラリーに思わせた。
「気づいていたと思うけれど。この星の住人に特有の、『血脈斑』だ。俺たちの家系は、青い菱形模様だ。場所も同じだから間違いない」
「……。」
「さっきまで夢を見ていた。宇宙を父さんが漂っているんだ。海のようなものに呑みこまれたかと思えば、今度は、大きな宇宙船に乗り込んでいた」
「だから、何なの」
 ベルグモットの瞳は、名づけられない感情に引き裂かれているように見える。
「もう一つ、ある夢を見たんだ。……。君が現れる夢だ。それは、甘美だが、恐ろしくもあった。それから、君と出会った。この星では、どうやら夢が形を結ぶことがあるらしい。父が出てきた夢では、サフランの曲が流れていた。その音を聞きつけて、宇宙船が父を捜し出したようなんだ。分かるかい? ラジオ放送が鍵なんだよ。この星に、あの曲を轟かせて、俺たちが生きている証を知らしめないといけない」
 

 
 翌日の朝には、雪は止んでいた。びっしりと降り積もった白の堆積から想像するに、ひとひらの雪は、この星の大地を、海のようなものから受け継いだのかもしれなかった。ベルグモットは、起きてからいつものように話さなかった。思い悩むたびに、言葉が淀んでいたのだ。マヌリーは、セットアップをすでに済ませていた。
「マヌリー、すまない。ラジオ放送を……」
「分かっています。その顔は。夢を見たのですね。おそらくは放送するところを……」
マヌリーは、電波塔まで向かう準備を促した。ラリーは、昨日の夢の一部始終までヌリーには話さなかった。マヌリーの意思に報いるためにも、今はただ、ラジオ放送の実現のことだけを考えるようにした。ブーツの底に、ナイフで細かな切れ目を入れるベルグモットの後姿を見て、ラリーは、抱きしめてやりたい衝動を感じた。溶け残った雪が、たとえその行く手を阻んだとしても、もう一度この手を握ってくれさえすれば、二人で前に進むことはできるだろう。この星では、何の因果だろうか、夢が現実を蝕むようだから、次は、目の前の実在に、夢を食い殺すことを諦めさせることができれば……。父のいる宇宙船に乗って、この星を棄て去り、新しい大地を探すのだ。そして、再び、子孫をもうけて、生の拠り所を確かなものにできるはずだ。だが、俺たちは姉弟だから……。ラリーは、厳かな現実の感覚に打ちのめされて、ベルグモットの肩に手を伸ばすのをやめた。今は、この星の隅々にいたるまで、サフランの曲を響かせることに頭を使うべきだ。彼女は、支度を終えて、最後の家の外でラリーを待っていた。ラリーも、ブーツの底を切り刻むことはしなかったが、暖炉の灰をひとしきりブーツにまとわりつかせて、雪の中を歩きやすいように準備した。さあ、出発だ。マヌリーは、二人の身支度を見てとって、雪が覆う崖の上を先導するのだった。しゃりしゃりと響く音に、金属が擦れ合う音がまじって、辺りの静けさを際立たせている。ベルグモットは、その白い大地を愛おしむように、全身を強ばらせて歩いている。ラリーは、今、ここで視界に入る光景をどこかで見たような気がして、たじろいでしまう。その場所が夢の中であったなら、現に、二人で、新しい大地を踏みしめることになるだろうという予感が胸の中を駆けめぐるからだった。
 

 
 ラリーの一行は、電波塔の薄墨色の扉を開けて、中に入った。ラリーは、三階にたどり着くと、以前にマヌリーと立ち寄ったときのことを思い出した。確か、電子同士の心地よさについて話したはずだ。
「見覚えがある世界といいますか、わたしの場合は、単なる『記録』なのですが、どこか重なり合うことの奇妙さがありまして」
 重なり合うことの奇妙さとは、マヌリーにとっての夢なのだろう。ラリーは、もうマヌリーと話すことができなくなる、と知って、またもやインクが滲むような失意を覚える。マヌリーの口から聞いた、「残念」の意味するところは、まさにこのことなのだろう。心の残滓のようなものが「残る」のだとしても、マヌリーが、生き続けることはないのだ。
「ラリー、ベルグモット、いいですか。そろそろ、わたしの体内から取り出した、部品をラジオ放送用として埋め込むことにします。今、録音した曲を再生できるように設定も完了しました。埋め込む間の数分は、代替バッテリーがもつので話すこともできます。あなたたちの世界で言うところの「思い出」の話をしましょう」
 ラリーもベルグモットも、マヌリーをもはや制止することはできなかった。今、目の前で起きていることは、いつかは思い出に変わってしまう。ラリーは自分にそう言い聞かせれば、少しは気持ちが安らぐようだった。
「マヌリーさん、ありがとう。何て言ったらいいか……」
「いえいえ、これが務めですから。大切なことを述べるのを忘れそうでした。『地球論概説』と『神の一撃以後』のデータを、ラジオ放送用とは別に、メインの機器系統に移しておきます。『液体メモリ』は、『量子メモリ』を応用した技術で、カプセルに入った液体にデータを保存することが可能なのです。二つのカプセルをすぐに取り外せるようにしておきます。ここが、危なくなることも考えて……。わたしは、二人がいずれの大地であっても、手を取り合って生きてくれさえすれば……」
「マヌリー、ありがとう。恩に着るよ。あとどれぐらいなら話せるんだ」
「すでに、作業に入っていますから、一分足らずかと」
「……。思い出と言われても、何を話せばいいんだろう」
「マヌリーさん、ラリーと二人でこの星から生きて出られることがあれば、必ずあなたを再生させてみせるわ。約束する」
「ありがとうございます。ですが……、も・う・こ……」
 ラリーとベルグモットは、マヌリーの体をそっと抱きかかえてやった。二人は、メインの配電盤の前に座った。ベルグモットは、マヌリーを膝の上にのせていた。ラリーは、ベルグモットの手を握る。その温かな熱源のような手に、わずかな希望の感覚を味わった。放送を開始するスイッチは、二人の手が届くそばにあった。
 
ほつれたシャツの裾からは
数えきれない糸の束
ぼくらの触手は欲張りだから
二本だけでは飽き足らない
 
新しい終わりが来るのなら
永遠なんて嘘っぱち
追えば追うほど
逃げていく
 
蝶の背中にしがみつき
時間の尻尾を捕まえる
ちぎれることはありえない
私は一枚の羽だから
花弁のような羽だから
 


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