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『生ける連獅子』第314言

連獅子を観て、ガウディの建築を思い出しました。

連獅子とは、歌舞伎の演目で、クライマックスでは、床につくほど長い白い髪(親)と赤い髪(子)が息を合わせて、ぐるぐると振り回す様が圧巻です。

先日TVの特集では、意外な光景を観ました。

連獅子、そのタイトルからして、一糸乱れず合わせる姿を観客にみせるものだと思っていました。

だけど、亡き勘三郎さんは、子にタイミングを合わせてやることをしなかった。

父の速さについていけないから、紅白の髪の円は揃わない……

連獅子の演目そのままに、リアルに父は子をあえて厳しく突き放す。

意外でした。

演目上は、子の成長を魅せるクライマックスです。タイミングを合わせ一糸乱れない姿を、観客にはみせても良さそうじゃないですか?

だけど、勘三郎さんはそれをしなかったようです。

……その数年後、成長された勘九郎さん、七之助さんとで、3連獅子をみせます。

この時、2人でも難しいだろう髪の円が、ピッタリと揃っているのです。長い長い髪の、その毛先の振れさえも……

ガウディの建築物、いまだ完成せず世界中を魅了している「サグラダ・ファミリア」を思い出したのは、ここです。

観客は、完璧な完成を求めているようでいて、実は、生き生きとした成長・進化を、自分ごとのように楽しんでいる。

生ける芸術に魅せられている。

生ける者にとって、不完全さゆえに完璧を目指すことは人生そのものです。ゆえにそこにある努力や変化に、人生の真骨頂を見出すのではないでしょうか。

完成美は、確かに美しい。

だけど、生きていると、超えられない、上には上がいることを、イヤでも目の当たりにする。そして、もがきながら、いつか自分もできると信じて歯を食いしばる。

一糸乱れず合わせることは、美しいけれど、勘三郎さんが、観客の前でもあえてそれをせず、己の全力を示したのは、子がいつかここまで来れると信じていたからこそ、ではないでしょうか。

子もまた、今は追いつかない悔しさを胸に、必死に食らいつこうと全力を出す。

観客には、双方の全力が伝わるから、その演目の本意が、より切実に響き、動きが合っているか否かに許容が生まれるのだと思います。

そして、一糸乱れず合った時、観客は、真の成長を目の当たりにして、ひたすら安堵と感動を覚えるのだと思いました。

不完全さは全力だからこそ美しい。

できると信じる。

〜わたしも生ける連獅子でありたい〜

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