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ボイトレ、やっと入り口に立てたかな・・・の実感

29日に、ボイトレに行ってきた。
実は、22日にもボイトレを受けていた。
わずか一週間で、2回目を受けるのは、初めてのこと。

というのも、8月に施設から帰宅した父が、20日過ぎにロングステイで施設に再入所したのだが、その支度でてんやわんやの大騒ぎ状態で、到底、ボイトレを受けられる、時間的、肉体的、精神的余裕が、まったくなかった。
そんな状態が、ひと月近く続いたせいだろうか、疲れすぎて鬱っぽくなってたかも…
食べる意欲がなくなり、毎朝、餌を食べてる感覚になったり、何もする気が起きず、毎日、1時間ほどしていたピアノも弾く気にもなれず、辛うじてひと月休んでたブログを数日前再開 したばかり。

ひと月くらい前に、ボイトレのレッスン日を予約していたので、それに備えて歌は時々練習してたけれど、あれだけ毎日、熱心に歌っていたのに、声をあすのも億劫になっていた。
正直、ボイトレに行く気力もなくて、どうにか気持ちを奮い立たせてやっとという感じ…

私ひとりの生活になって、父が置いて行った山のような洗濯物を洗濯し、部屋の中をある程度片付け、それもあまり体調がいいとは言えないなかだったので、結構、しんどい思いをしながら頑張った中でのボイトレの1回目は、姿勢の矯正が中心になった。
今までも姿勢が悪いことを指摘されてはきたけれど、この日は初めて上半身から首、頭の位置角度までを教えてもらった。

足が悪く、歩き方に問題があることもあって、どうしても猫背になりがち。しかもそんな姿勢を50年以上も続けてきたので、なかなか良い姿勢でいるのは大変だ。今回は腰の位置、胸の張り方、首、そして頭の角度までを矯正しようという、なかなかの大掛かりな改造。
言葉で、こうです、ああですと言ってもらっても、イメージで言葉と同じようにしようとするのだが、到底できるものではない。何度か教えてもらった結果、これは映像に残すしかないなと判断。私の姿勢と、トレーナーさんのお手本の姿勢を、写真とビデオに撮っておくことにした。
これなら、帰ってからでも練習できる。

声の方は、まあまあいいかなという感じ。前日、そして当日も出掛かるまえに、二時間ほど練習してレッスンに臨んだ成果かもしれない。
ただ、いつも思うのは、これが定着しないということ。
特に声の出方が、午前中はとても悪くて、掠れてどうしようもない。なので、午後にレッスンを受けることにしているのだが、夜が一番自然な声が出る。トレーナーさんによると、声帯のむくみが取れるのがそのくらいの時間なのだろうという話だった。
なので、本当は、夜にレッスンを受けたいのだが、やはり夜はどうしても難しい。
結局、一週間前のレッスンは、こんな感じで、姿勢の矯正と、発声練習二時間をかけて、喜劇は一回だけ歌って終了した。

いつもは、ひと月に2回なので、二週間に一度の割合でレッスンを受けている。一週間しか経っていないのに、大丈夫か聞いたところ、全く問題ないという話だった。逆に何が問題かと聞かれたら、そっちの方がおかしいかもしれない。今、書きながら思い出したのだが、コロナ禍が始まって、活動自粛が家事まった頃、関ジャニの安田さんが、毎日ボイトレに通った様子の番組を見て、驚いたことがあった。
それを思うと、一週間後なんて当たり前かもしれない。時間的なこと、経済的なことで、月に2回のレッスンを選択しているが、時間も経済的にもyぴゅうがあったら、最低週に1回の割りで、レッスンを受けたいくらいだ。
声は肉体なので、頭で教えてもらったことを覚えることはできない。頭で言葉は理解しても、動作がついていかなければ意味はないのだ。その動作を記憶する術がない。身体に記憶させるには、繰り返し繰り返しその動作をして、身体にその形、筋肉や骨、角度、などを覚えこまさなければいけない。

ということで、常に姿勢を意識して、自宅での自主のボイトレをして迎えた1週間後。せっかく練習て、いい感じかなと思っていたのに、前日から声が割れ出した。なぜ、どうして?理由はわからない。ただ高い声が出しづらく、出すと割れてしまう。

そこで、今回は無理に声を使うのではなく、どこをどう歌うか、どう伝えたいかに重点を置いて練習することになった。
しゃくりやこぶしといった点では、ある程度教えてもらって歌えるようになってはきたけれど、ただ単にしゃくっている、こぶしを入れているだけで、単調な歌い方であることには変わりない。
そこが、私の昔からの欠点だった。
音程は正確に捉えられて歌えるけれど、ただそれだけ、聴くひとの心に訴えかけたり、響いたりする歌い方ができないことが、長い間、悩みだった。どうすればそこをうまく表現できるのか、克服できるのか、もともとセンスがあって、その歌い方ができるひともいて、そういう人が、本当に上手なんだろうなと思っていた。

で、まずはトレーナーさんが、そこを意識して歌てくれた。
喜劇を歌い始めてからどれくらい経つだろう…相当長い間歌っているので、トレーナーさんに、すっかり覚えましたなどと言われて、ちょっと気恥ずかしい思いをしながら、聴いてみることに。
聞いているうちに、歌の中の登場人物が浮き上がってきて、最後の方では自然と涙が溢れてしまった。歌詞を捉えて歌うとは、こういうことを言うのだと、初めて気がついた。

今まで、歌を聴いていて、自然と涙が出てきたことは何度もあった。
周りにえっ?と引かれるほど、感受性が強いのねと言われたこともある。
でも、それと、今回、トレーナーさんが歌うのを聴きながら感じたものとは、似ているようでいて違っていた。
端的に言えば、今までの聴き方は、単に歌詞を聴いて何かを感じとるだけだったものが、歌詞が何を表現しようとしてるのか、そこを自分なりに捉えた上で感じると、まったく違う景色が見えてきたのだ。
例えて言うなら、二次元で見えていた世界が、三次元で見えるようになった感じ。言葉に、奥行きと深みが加わって伝わってきたのだ。

「争いあって壊れかかったこのお茶目な星で」はどんな星か
「生まれ落ちた日から よそ者」と「涙枯れ果てた」は、別々なのか、繋がりがあるのかetc。フレーズひとつずつをイメージして歌ってみた。
初めての試みだったけれど、とりあえずトレーナーさんから、景色が見えると言ってもらえて、こういうことなんだぁと、体感で理解することができたような気がした。
そして、今までは単に音に言葉をつけて、声に出していただけだったんだなぁということを実感するとともに、初めて歌を歌うという、表現の世界に足の先っぽだけ踏み入れられた、そんな思いが湧き上がったのだった。

ボイトレを始めて3年余り。
やっと、入り口に立てたような気がする。
年齢的には、衰えが著しくなり、そろそろやめる時期かもしれないけれど、もう少し続けてみようと思う。
もちろん、声が出なくならないよう、そのトレーニングの意味もあるけれど、表現できるところまでいきたいなと強く思った、今回のレッスンだった。






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