黄昏のブラックペッパー a.k.a 青春ノイローゼ

こじらせ系40代よちよち歩きの記録。

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最近の記事

昨日見た夢の記録

山の上のコテージのような場所で仕事をしている その山の姿は紅葉の木々が輝いていて恐らくそうではないのだと思うが、 なぜだかそこは富士山だと直感している その斜面に沿って階層構造になったコテージの 丸田でできたベランダ席に座りノートPCで仕事をしている なぜか過去の旅行の写真を手元で眺めている 現像された若い自分の姿が映ったインドやシリアのそれだ。 それを母親が除きこみ、いい写真だという。 不安定なことをわかっているのに何故か自分がベランダの手すりにその写真たちを置く

    • 定期的にものをかく

      書くと決めたから書く しょうもないことでも書くし、 毒にも薬にもならないことを書く 思えば毒にも薬にもならないことしかどうしても書けない 核心に触れるようなことは、 自分を無用に傷つけてしまいそうでどうしても守ってしまう そうした中でも何か書きたい 書いておきたいという願望は絶えず、けれども向かい合うとうまく書けない そうしたことも書き続けよう 週1回くらいならなんとかなるだろう 今日はその記念すべき1回目だけど、もっとずっと前に描き始めてもよかったよな

      • その日の夜のことかもしれない

        深く深い闇の日で、それは。 特に何をするでもなくビールを飲んだ。 正確にはビールではなくハイボールやレモンサワーだ。 しばらくすると目の前から景色が奪われていき、 飲んでいるのか寝ているのか疲れているのかよくわからなくなってくる。 景色は前後左右に伸び縮みをする。 時間軸も一緒だ。 気づけばいろんなことがあり、いろんな感情が働く。 表現することは個人の自由なのだから 感性をしばらく吐き出していこう。

        • だいたいの感傷や状況やそれ以外のなにがし。 散文的に感じるさまざまな感情。 そして自己嫌悪と後悔、反省の波。 僕がおかしいんだろう もうそんなことは考えないで楽しくやりたい

          42歳のいまの気分

          好きな音楽に改めて触れよう。 過去に大好きだった体験を追認して、もう1度再現しよう。 新しく感じれる体験を積極的に追い求めよう。 人を拒絶しないで出会いを大切にしよう。 お金も大事だけれど、逃したらもう得られない体験が世の中には 溢れている とはいえ、気分が乗らない時は家に帰ろう。 いえに帰ったら退屈なわけではない。そこにはネトフリもアマプラもあれば youtubeもあるし。 音楽聴くだけでも自由だ。 意固地な自分を解き放ち、今一度、快楽主義に近づこう。 翌朝の自己嫌悪

          それとな1 インスピ

          全ての常識が一晩でひっくり返るような、 そんなことが人生で理想だと思って生きてきた。 それなりに年齢を重ねるなかでそういう思考自体が経年劣化を重ね、 今に至っている。 確かに30代後半から何かがドラスティックに代わるといったような出来事はあまりなくなってきた。 # 身内の死を除いては。

          無題

          よく、美術館にいくと「無題」というタイトルの絵画がある。 無題と付けられると習作なのか、想い溢れてなんなのか想い極まって、 無題、としたのか、よくわからなかったりもする。 本来はどういう題なんだろうとか考えちゃったりする時、 壮絶な自己嫌悪に至る。 美術館という舞台装置に挑む時に、 「意味」を求めてその意味性に色々仮説を立てる自分って 超絶だせーなと思う。 意味性からの脱却。 それが大事だよな。

          丁寧なくらし

          丁寧なくらしとはどういったことだろうか。 僕は丁寧に暮らしたいのに雑然となる。 丁寧というのはおそらく、一つのことに集中することであろう。 例えばお湯を沸かし、それを急須にそそぐ。 その後に湯呑みに入れる時にその温度を気にする、とか。 そのような所作に集中することだ。 その集中の積み重ねが暮らしとして積み上がっていけば、 丁寧な暮らしが出来上がる。 もしくは掃除機を部屋にかけている時に 仕事やお金や生活の悩みを忘れて没頭するだとか。 僕は丁寧な人間ではないだろう。 何

          今日の夜に考えること

          少しずついろんなことを考える。 仕事のめんどくさいこと。 プライベートで、このままでいいのか謎なこと。 もっとファッション的なこと。 常に色々な考えが頭をくらくらさせてくる。 35くらいでこういうの終わりと思ってたけど。 40年代前半ってもっと安定してるもんだとおもってたけど。 関係ないんだな。 個体差

          Taylor Swift

          僕が育ったのは90年代だと思っている。 90年台の時のあの情感。 その情感はどこにあったのか。 思い出すように心の中を探る。 でも実際にはもやもやしてるだけ。 人生は割と、無くしたものを「探す」その時間に 労力を費やしがち。 でもそんなことばかり考えて探している40代は ほぼ神経症だろう(自虐) Ok Computerが出たのだって90年代中盤だし、 OASISだって、ねえ。 あの時の手触りは心のなかに残り続けている。 (シドヴィシャスの歌う"My Way"の中古

          時間に追われる

          「時間に追われる」 空港でもうすぐ搭乗時刻が迫っている時に急ぎ足で 搭乗口に向かうのは、悪い気分ではない。 どちらかといえば、むしろ高揚感で満たされて、 とても充実した感覚を覚える。 しかし日々を過ごしていると、 いずれかといえば時間を費やした割に成果が出ない、 気づいたらこんなに歳をとってしまった、 周りはもっとしっかりしてるのに。 そんな風に自分自身が、 「時間」や「世間」という見えない漠たる概念に追い立てられているような 感覚に陥ることが多々ある。 その正体はな

          走馬灯のような日々

          人生はいつでも 「走馬灯のような日々」なんじゃないかという考えが 少し頭のなかでぐるぐるすることがある。 先日何かラジオを適当に聞いていたら、 睡眠の専門家が、睡眠には 「不必要な情報を捨てて必要な情報を残すような」 そんな機能があるといってた。 洗濯機の排水機能のように、 「胸いっぱい」状態が継続するを防ごうとしてくれるのだろう。 だから正常な睡眠をとり続けないと精神にも影響をきたすようだ。 一昔前のWindowsPCにあったデフラグみたいな 効果があるんだなと納得し

          2022年の冬の手前、夏の終わり

          冬がもうすぐやってくるというのにそういう実感は、まだない。 寒いなあと思っていても 時折、ふと夏のような暑さが戻ってくるからだ。 気づくといっぺんに冬がくるのだろう。 だってもう10月も中旬出し。 僕は、今年の冬の到来を少し警戒している。 なぜならそろそろコートが寿命だからだ。 この二年、ろくに服を買ってこなかった。 だからほぼほぼ短パンとTシャツ、はおる時はパーカで過ごしてきた。 しかも全部が全部、無地で真っ黒。 その他の色といえば真っ白なスニーカーと 黄色や青の無

          軸になる部分とフェイクレザー

          軸になる部分は誰にでもあって、多分、僕にもある。 その軸の部分というのは非常に幻想ライクなものであって、 本人からすると、自分の核だと思っているのだが、 意外に他人からすると非常にどうでもいい ただの自意識のパズルのピースの一つである。 他人はそのパズルのピース一つから その人(僕)に関する全体像をいろいろ類推することができる。 なので、僕の像、イメージは、 人によってまちまちで、それこそが社会人ということなんであろう。 すごくふわふわとして時間帯によって異なる見え

          思考のすみっこ

          思考のすみっこで すごく嫌なものがぐるぐる渦巻くことがある。 それは隅っこであったはずが気づくと、 マインドのなかでメインストリームを形成しだす。 そういう時は少し危険だと思っている。 体が必要のない思考に蝕まれて、沼のようにそこに足元を絡みとられだす。 絡みとられた心の前例がまた、 新しくリフレッシュした考えを持とうとする自分の足かせになる。 どうせ抜けだせやしない、とか思ってしまうという radioheadのcreepみたいだな。 実は原因はシンプルで、 思考の中

          幸福感を感知できる能力

          不幸なポイントを常に探してしまう自分。 単純に幸福感を感じられない、 やばい感性に陥っているんじゃなかろうか。 実はただ、息を吸って平凡に生きている今が、 幸せなのかもしれないのに、 なぜそう思おうとしても虚しさが送ってくるんであろうか。 常に生活フィールドに存在する、鬱な議題を模索してしまう。 冷静になろう。 平凡なドラスティックな変化のない毎日は、 幸せなのだ。 ちゃんとそう認識しよう。 特にウクライナ侵攻で「正気」と「狂気」の逆転現象が 起きてしまった。 心