走馬灯のような日々

人生はいつでも
「走馬灯のような日々」なんじゃないかという考えが
少し頭のなかでぐるぐるすることがある。

先日何かラジオを適当に聞いていたら、
睡眠の専門家が、睡眠には
「不必要な情報を捨てて必要な情報を残すような」
そんな機能があるといってた。

洗濯機の排水機能のように、
「胸いっぱい」状態が継続するを防ごうとしてくれるのだろう。
だから正常な睡眠をとり続けないと精神にも影響をきたすようだ。

一昔前のWindowsPCにあったデフラグみたいな
効果があるんだなと納得してしまった。

ぼく自身も日々、(大事なことも含めて)、色々、
忘れ続けて生きてきているような気がする。

最近なんて嫌なことがあると
「どうせ時間が経てば忘れるわ」と心で呟いて
なんとかやりすごしたりするような
ズボラさも少しは身につけてきた。

繊細な人間は少しずつでも精神的にタフになっていくしか、
生き延びる方法がない。

けれども記憶や思念の残骸、『しかも大事か?それ』みたいなものとか
結構心に残ってるなと思う。

それらの記憶や思念は「時間軸」というものを持っていない。

2001年の「それ」も2011年の「それ」も同列に思い出す。

鳥が枯れ葉をかき集めて巣を作るように過去の様々な出来事の断片や破片、
思念を一生欠けてかき集め続けていくんだろうと思う。

いつも、起床の際に、ふと自分が寝ている寝床の木や枝を眺めて
生きた証を確認するのだ。

「巣」を構成する要素を眺めるとき、時間軸はあまり関係がない。
その観察こそが「走馬灯」だと思えてきたりもする。

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