【so.】新藤 五月[5時間目]
「いまからホームルームを始める」
教室へ戻り、三条先生が教卓の上から宣言した。わたしはまず大事なことを確認する。
「せんせー昼ご飯は?」
「このあと5時間目をその時間にする」
「ハセベのおばちゃんが帰っちゃうよ!」
「ハセベさんにはさっき5時間目が終わるまで待っていてくれるよう頼んでおいたから安心しろ」
「マジか~。じゃあ5分でおわろ!」
「そうはいかない。君たちに聞きたいことがあるからだ」
え。5分ってわたしとしてはかなり譲歩した数字だったのに。
「こないだ面談やったじゃないっすかー」
イズミンも腹が減ってるんだろう不満をぶつけた。
「年末の件はもういいんだ」
「いいってどういうことですか」
サエさんもピリピリしている。空腹は人をイラつかせるってことだな。
「…えっとな、さっき人体模型が落ちてきたな」
「山浦が犯人ー?」
イズミンは興味なさそうに言った。
「…まだ分からない」
「三条先生、でも、山浦さんだけいません」
委員長が言う。みんな山浦のこと悪く言うけど、わたしは前にパニーニ食べてた山浦に「渋いの食べるね」って言ったら嬉しそうだったから、なんか嫌いになれないな。わたしもパニーニ大好きだ。
「…そうか」
「山浦さん、面談のあと、怒って帰ってきましたけど」
サエさんが山浦の話を続ける。
「えっとな、山浦の件はあとで説明するから、まず俺の話を聞いてくれ。君たちの中で、裏サイトってものを知ってるのは何人くらいいる?」
「何それー」
とりあえず聞いてますよ感を出すために言った。
「匿名で誰でも書き込めるネットの掲示板のことなんだが、このクラスの掲示板もあってだな」
「先生」
瀕死の声がする。
「なんだ」
「もう、郷さんのことがあって、さっきの人体模型落とすような酷いことがあって、これ以上、刺激の強いこと、やめてください…」
ナオだ。腹が減りすぎて危険な状態だ。
「いや、なんというか」
「先生、先生、ほんと、ワタシ、つらい…。さっきから気持ち悪くて吐きそうなんです」
そう言ってナオはゲロ吐いた。そう思ってナオを見たら、音だけだった。
「大丈夫か。ちょっと隣の席だから悪いけど、伊村な、細田を保健室まで連れて行ってくれないか」
「…わかりました」
そう言うと伊村はナオを連れて教室を出て行った。
「他の者も気分が悪くなったりしたら、遠慮せず言うように。それで…どこまで話をしたか…」
そう三条先生が言うのを聞きながら、待てよと思った。もしナオのアレが演技で、あのままハセベのパンを買いに行ったんだとしたら。大逆罪ものだ。人道に対する罪だ。どうかそうではないことを願いたい。
「カンカってなんですか?」
正恵が先生に尋ねる。
「殺害予告じみたものがあったんだ」
掲示板に殺害予告だって。それはまともじゃないな。
「ひっ」
誰かが小さな悲鳴を上げた。
「いいか、ちょっと気分を悪くする者もいるかもしれないけれど、読み上げるぞ。…やってやるやってやるやってやるよ見とけよ。この書き込みが午前中の最後の書き込みだ。そして人体模型が落ちた」
「じゃあ山浦が書き込んだんだ!」
イズミンが言う。
「…あくまで可能性が高い、推測の話だ」
「推測で犯人扱いするんですか」
サエさんが反発すると、イズミンが言い返した。
「決まりじゃん」
「大事なのはな、この後なんだ」
ええ、まだあんのか。相当暇な奴がいるんだなと思う。
「先生ソレどうやって見んの?」
のりんが尋ねる。
「わざわざ見なくてもいいぞ。今から読み上げる。…えーと、田口、お前の名前が出てくるからな」
「は? ワタシ?」
タグっちゃんが驚いて言った。
「えー、行くぞ。…田口もたまにはいいこと言うわ。ホント死ねば良かったのに」
「何だよそれ! ふざけんな! 誰だよ!」
タグっちゃんが恫喝する。無駄なカロリー使うだけだから止めとけばいいのに。
「落ち着いてくれ。次にもうひとつ書き込みがあって終わってるんだが…読むぞ。…それじゃあまずあんたから殺してやるよ。特定したぞ」
「きゃああ!!」
悲鳴を上げていたのはつぐちゃんだったらしい。無駄に声を発するのもカロリーを消費するから避けるべきだと思う。
「せんせーもうやめよう。怖いよ」
もじゃが言った。そうだ、もうやめてパンの時間にしよう。
「書き込みはここまでだ。俺だって全員を集めてこんなの読みたくなかったけどな、殺害予告があったらもう事件になるんだ」
「じゃあ、今から犯人捜しをするんですか?」
委員長が話を打ち切らない。委員長はあれだな、乾パンみたいだな。堅くて大して美味しくないんだ。
「別に魔女狩りをするんじゃないんだ。ただ、起こるかもしれない事件を阻止したいだけなんだ。だからみんなには衝撃的だったかもしれないが、明らかにした。それで聞きたいんだが、この書き込みに心当たりはないか?」
誰も何も言わない。共通の敵である空腹の前には誰も太刀打ちできないんだ。
「まあ、自分が書き込んだとは名乗り出たりしないよな。じゃあ、その一つ前の書き込みのことが分かる者は?」
「ジョーさー、すっげ気分悪いんだけど」
タグっちゃんがまた不満を述べる。
「保健室行くか?」
「そういうのじゃねーんだよ!」
「この発言に心当たりは?」
タグっちゃんは先生を無視した。
「ヨシミちゃんごめん。先生、これは、さっきの体育館からの帰りの廊下での発言です」
ジンさんが言う。そういえば、さっき体育館から帰るときにタグっちゃんがなんか揉めていたのを思い出す。
「ついさっきじゃないか。何があったんだ」
「もういいって!」
「山浦だけがいなかったから、人体模型を落としたのが山浦じゃね?って話になったら、ヨシミが言ったんす。ホントに死ねば良かったって」
のりんがそう言って、そんな話してたのかと驚いた。
「そしたら埋田さんが来て、ヨシミにビンタして」
「本当か埋田」
「言いたくありません」
「しただろうがよ!」
全然思い出せない。ただ、怒りは空腹を加速させると思うから止めた方がいいよとアドバイスしたくなる。そこまで考えたところで、怒りが空腹に作用するのか、空腹が怒りに影響するのか、どちらなんだろうという疑問が湧いてきた。
「ねえ先生、この書き込みした人は、あの場で、会話が聞こえる位置にいた人ですよね。私は離れたところ歩いていたから、埋田さんの言ったことしか聞こえなかったです」
橋本さんがなんだか賢そうなことを言ったけれど、よく理解できなかった。
「じゃあ、その時、田口の周りに誰がいたか、誰か覚えてるか?」
のりんが答えた。
「私と、細田さんもいました」
次にジンさん。その次にキミが言った。
「私とさっちんはいたし、他にも何人か歩いてたよ」
「私覚えてねーけど」
そう言うと、キミは言い返してきた。
「おめーはパンのこと考えてたからだろ!」
否定はしない。
「他にこの会話を聞いてたっていう者は?」
サエさんが手を挙げたのが見えた。
「せんせーさー、最後の書き込みしたやつを特定しないといけないんじゃないの?」
イズミンが尋ねる。
「それが難しいから、狙われそうな方を特定した方が防げるってことじゃない?」
橋本さんがそれをたしなめた。
「ああ、そうだ。だから今、田口の発言を聞いていた者を探してるんだ」
じゃあさっき名前の上がった人が狙われるのか。こえーなと思いながらわたしは言った。
「えーじゃあジンさんが殺されるかもしれないってこと?」
「嫌っ!」
後ろの方から悲鳴が上がった。誰?
「好き勝手に発言するなー。いまこうやって全員集めているからそんなことはさせない」
先生が注意する。
「山浦が殺しに来るんでしょー?」
「黙れ!」
イズミンが遂に野次を叱られた。まあ人を不快にさせるような発言は慎むべきだよね。
「…悪い。ちょっと先生も初めての事態で焦ってる」
先生がちょっと疲れたような表情を見せた。後輩に妙に人気があるらしい。わたしには理解できないけれど、こんな昼休みの時間になっても昼飯を食べられない事態はわたしだって初めてで、焦る気持ちも分かる気がする。先生は委員長からサトミのことを何だか色々言われているけど、結局アレだってよく分からなかったな。
「理由なら、終業式の前の日に、郷さんのヘアピンがなくなる騒ぎがあったじゃないですか」
サエさんが言った。そう。わたしもキミも教室で昼を食べてたから、騒ぎは知ってるんだよな。
「何それ。そんな話、初めて聞いた」
「えっ、ヘアピンって…何? どゆこと?」
委員長と正恵は知らなかったみたいだ。
「終業式の前の日のね、4時間目の体育の後、サトミちゃんがね、ヘアピンがなくなったってパニックになったの」
やまちが言う。でもそれって、面談で全員に話したんじゃなかったのか? それでポケットに入ってて、なんだよ持ってたのかよズコーって、そういうオチだったんじゃないのか。
「初めて聞いたんだけど。えっ、みんな知ってたん!?」
「私も知らなかった」
写真部のふたりは部室へ行ったから知らなかったんだろうなあ。
「その時教室に残ってた者だけが知っていることだ」
先生が言う。
「ちょっとワタシも知らないんだけど!」
タグっちゃんが声を荒げた。君は休んでいたでしょう。
「あのね、サトミちゃんが、あの日休んでたヨシミちゃんには黙っててって、何回も言うから、みんな言えなかったんだよ」
やまちが言う。
「じゃあ、郷さんそれが理由で自殺したわけ!? 盗まれたってこと?」
正恵が驚いて言うと、先生は経緯を語った。
「落ち着けって。みんなも知ってるように、次の日の朝に大和が、郷を発見して俺に知らせてくれた。それで警察を呼んで遺体を調べたら、制服のポケットにヘアピンが入っていたのが分かったんだ。それは葬式の時に、田口にも確認してもらったよな?」
念押しされたタグっちゃんは、何かを呟いた。
「え。っていうことは、盗まれてなかったってことですか?」
もじゃが尋ねる。
「だからな、みんなに面談で話を聞いたけれど、いじめがあったわけじゃない。郷の遺書が残っているわけでもないから理由は分からないけれど、ヘアピンを盗まれたのが理由じゃないってことは、確かだ。ご家庭の事情のことまでは踏み込めないけれど、それが理由なんじゃないのか」
堂々巡りだ。わたしは空腹を訴えた。
「せんせーこのホームルームいつ終わる? もう腹がぺっこぺこなんだけど!」
「もうちょっと我慢しろ。まだ5時間目の最初だろ」
「もーむりー」
はー。もう知らん。終わったら起こしてと思って体を机に預けて突っ伏した。もうわたしはパンのことしか考えない。
「もうやめてよぉぉぉぉ」
つぐちゃんか。まだ物騒な話し合いは続いているらしい。
「うるせえっ!」
先生の怒鳴り声がした。怒ったところで物事は解決しないし、解決するのは怒られた人が動いてくれた場合だけ。もうそういう子供っぽいコミュニケーションは卒業したらいいのに。
「さっちん?」
突然名前を呼ばれて思わず頭を上げて叫んだ。
「パン食いてー!」
「うるさい! そんで?」
イズミンに叱られた。こりゃー、あとでキミと会議だな。わたしはまた机に突っ伏して目を閉じる。真っ暗な闇の奥から、少しずつ塵のような物が飛んできて、目の前に集まり始めた。そのツブツブは光っていて、段々と集まって塊になって、きらきらと眩しい雲みたいな姿になった。
「パンあれ」
きらきら輝く目映いモノが言った。目の前に美味そうなパンが現れた。これは…天啓? そのパンを両手に持ち、味わおうとして大口を開けたところで先生の声が聞こえた。
「狙われるのは、細田ってことか!」
先生の大声で、現実へ戻ってきた。委員長が何か焦ったように先生に尋ねている間に、橋本さんやジンさんたちが外へぞろぞろ出て行く。もう昼休みなのか? わたしは天啓のパンを食べられなかったことに深く落胆していた。
「堀川! みんなを教室から出すな!」
委員長にそう言いつけて先生も出て行った。委員長は慌てて教壇に立つ。
「委員長! もう昼にしよう!」
わたしは委員長に訴えかけた。
「だめです! みんなを教室から出さないように言われたので」
「じゃあ何するの」
キミも立ち向かってくれた。心強い。
「先生が戻るのを待ちます」
「もうむり。今からパン買いに行く!」
わたしは決意した。
「だめ!」
「私以外にこの空腹を救える者はありえない!」
わたしは席を立ち上がった。
「委員長、これもう止まらないよ。諦めて」
キミも席を立った。
「お願いだから!」
「パンを求める者は私について来いっ!」
わたしは皆に呼びかけると、何人かが席を立ち上がった。
「いえい!」
もじゃ。
「ごめん委員長、私ももうおなかが限界」
正恵。後ろの方でも誰かが席を立った音がした。パンの名において、勇敢に進み続けよう。わたしたちは教室から外へ出た。
「さっちん、ナイス!」
教室を出るとキミが嬉しそうに言った。
「私たちが戦うからこそ、神様はパンを与えてくださる!」
わたしはそう宣言した。当たり前のことをしたまでだ。
「やっべー、もうイっちゃってるわ」
キミが言う。わたしはまったく怖くない…だって、パンを食べるために生まれてきたのだから。
「おなかすいたぁ!」
正恵が嬉しそうに声を上げる。もじゃと、曽根さんを引き連れてわたしたちはハセベのパンの車まで進軍した。
昼下がりの北風吹き抜ける正門脇に、いつものようにハセベのパンの車が停まっている。わたしは一番乗りの嬉しさとと共に、確定した注文を滑らかに伝えた。
「ソーセージドッグ、グラタンデニッシュ、フィッシュカツサンド、フルーツサンド、シュークリームくださいっ!」
「全部食べんのかよそれ!」
キミが言う。全ての戦いは、まず最初に心の中で勝ち負けが決まる。わたしの強い気持ちは必ず勝利する。
「あら、ごめんねぇ、さっきフィッシュカツサンドは三条先生が最後の1個買われてしまったわ~」
ハセベのおばちゃんが申し訳なさそうに言った。
「な…ん…だっっって!」
今まで必死に抑え込んでいた火山が噴煙を上げ始めた。
「三条殺す!」
こんな非道を許してはならない。必ず殲滅するとわたしは心に誓う。撃滅だ。完全に信頼関係は破綻した。あってはならないことが起こった。重大な裏切り行為だ。考えれば考えるほど怒りの活火山が溶岩流を吐き出し噴煙を吹き上げる。
「三条殺す!」
わたしは再び宣言した。
「さっちゃん、ヒレカツサンドならまだあるわよ?」
ハセベのおばちゃんが救いの言葉を掛けてくれた。
「それください!」
わたしは3番打者をより強力に置換できたのでひとまず矛を収めることにした。
「新藤さん、ありがと~」
もじゃが声を掛けてきた。
「ほんとほんと、空腹やばかったー」
正恵も嬉しそうだ。
「みんなは教室に戻るの?」
曽根さんが言う。そこまで考えてはいなかった。そもそも誰が悪いんだ。あいつだ。
「三条!」
わたしは咆哮する。
「とりあえず今ここのベンチ座って食べるわ。こいつ壊れてるし」
キミが促して、目の前のベンチでみんなでパンまつりを開くことに決まった。
やっと腰を据えてパンを食べられる。まずソーセージドッグを袋から出すと、思い切り齧りついた。うまい、うますぎる。錆び付いた身体にソーセージの脂質が巡っていくような気がする。体内で食物が熱量へと変換されてエネルギーが充填していくような感覚を覚える。幸せだ。
すぐに2番手のグラタンデニッシュに齧りつく。ああ、ホワイトソースの甘美な甘さ。そしてパンにマカロニグラタンという、炭水化物の複合技である悪魔的な所業に悶絶する。幸せだ。
「細田さん、大丈夫なのかな」
もじゃがナオのことを心配して言う。わたしはグラタンデニッシュを口の中で弄び飲み込んで言った。
「あれだけ人数走ってったんだから、だいじょぶでしょ」
わたしはグラタンデニッシュに忙しい。
「でもなあれ、のりん達は明らかにパン買いに行ったと思ったけど」
キミが言う。
「マジ?」
わたしは問い返しながらも、グラタンデニッシュを全て口の中へ収めた。
「おばちゃーん、さっき3人くらい来た-?」
キミがおばちゃんに声を掛けた。
「来たよ-」
また怒りが吹き出してしまう。
「許さん…三条!」
「そっちの方が怒り強いのね」
曽根さんが呆れて言った。いよいよ期待の代打、ヒレカツサンド様の登場だ。袋からそのお姿を拝んだところで、近くから悲鳴が聞こえた。ナオだ。思わず残りのパンを持ったまま立ち上がる。キミも同時に立ち上がった。
「パンは置いてけって」
そう言うキミだって、食べかけの焼きそばパンと堅パンを握っていた。
「パンと私は一心同体!」
「わけわかんねーよ」
わたしはキミと悲鳴の聞こえた方へ走り出した。体育館の裏の方から聞こえたんだ。すぐそこだ。まだ途中とはいえ2個のパンを食べられたことで走る元気があった。体育館の側面へ近づくと、裏側へ向けて角を曲がった。10メートルくらい先に、伊村が凶器を持ってナオへ向かい合っているのが見えた。
「あ、あそこ! キミ! ストレート!!」
思わず言うと、キミはすぐに投球モーションに移った。でも待て、ボールがない。
「どりゃああああ!」
キミがアンダースローで放ったのは、さっき買った堅パンだった。堅パンはなかなか良い伸びを見せて伊村の凶器を直撃した。凶器は伊村の手から離れて飛んでいった。
「ストライク!」
嬉しくて声を上げる。すーっとスッキリした。怒りが浄化されたんだろうか?
「よっしゃ!!」
キミもガッツポーズをする。伊村が凶器を追う素振りを見せたけれど、向こうの方から走ってきていた橋本さんが、伊村より一歩早くそれを蹴っ飛ばした。凶器はキミの遙か右の方へ飛んでいき、地面に落ちた音がした。伊村はそれを目で追ったけれど、拾いに行くのを諦めたみたいで、向こうへ振り向いた。わたしとキミは伊村の近くまで走り寄って立ち止まった。
「何やってる!」
三条先生…いや、パン泥棒もやって来た。伊村のそばでへたり込んでいたナオをよく見ると、頬から血を流していた。切られたのか。
「武器は!?」
パン泥棒が橋本さんに聞く。橋本さんは凶器の飛んでいった方を指差して言った。
「あっちの方に」
「痛い痛い痛ぁあい!」
ナオが悲鳴を上げている。
「橋本、悪いが保健室行って宮本先生呼んできてくれるか。包帯とかも頼む」
「わかりました!」
橋本さんがまた走って行く。バド部でも結構走れるんだなと思う。
「大丈夫か」
パン泥棒はナオに近寄って尋ねた。
「痛ぁい! 痛いよぉ!」
ナオは泣き喚いている。今どうにかしてあげられないのがもどかしい。
「…諦めろ伊村」
パン泥が言う。
「もう諦めたよ。果たせず残念だ」
そう言うと伊村はしゃがみ込んだ。後ろからのりんとやまちが駆けてきた。向こうの方からはタイラーと橘のひろ子ちゃん。
「ナオ、大丈夫?」
やまちがナオに駆け寄る。
「痛いよぉぉぉ!」
「伊村お前何でこんなことしたんだよ!」
のりんが、伊村へ問い詰めた。
「綺麗な鏡を割ってみただけさ」
事も無げに言う様子に思わず叫んでしまう。
「お前マジか!」
伊村はわたしを一瞥すると言った。
「豚は五月蠅いな」
豚? どこに豚がいるんだ? わたしは周りを見回した。けれど豚はどこにもいやしない。
「お前だよ」
そう言ったキミに頭を叩かれた。それを見てタイラーがげらげら笑っている。
「ちょっと…タイラー」
ひろ子ちゃんがタイラーに注意すると、伊村が嫌味っぽく言った。
「ポンコツ揃いだな」
「いまこの場にいる全員、ひとまずこのことは黙っておいてくれるか?」
立ち上がった泥棒が全員に聞こえるように言った。
「…はぁ?」
キミが尋ね返す。
「何言ってんの先生ぇ警察! 警察呼んでよお! 痛いよおぉ!」
ナオはパニックだ。橋本さんが早く戻ってこないかとやきもきする。
「これ使って」
ひろ子ちゃんがナオに駆け寄って、持っていたらしいミニタオルを手渡した。準備が良くって関心してしまう。
「このことが公になったら、伊村、お前、真っ当な人生歩めないぞ。それでもいいのか? 先生は、警察沙汰にしてお前の未来を閉ざしたくはない」
泥棒は先生面して伊村に対峙した。
「屑」
伊村はニヤニヤして言った。
「なんだって? おい何ニヤついてる」
屑に屑と言っておかしいことがあるかと思う。
「先生、本気でそんなこと言ってるんですか」
ひろ子ちゃんも怪訝そうに尋ねた。三条はひろ子ちゃんへ顔を向ける。血走った目をしていて気味が悪かった。
「本気とはなんだ。先生はいつだって一人一人の事を考えて」
「もういいよ」
タイラーが強めに言った。
「あ?」
泥棒はタイラーに顔を向ける。
「先生…カッコ悪いよ?」
タイラーに言われて、パン泥棒は静かにその場へ崩れ落ちた。事件が解決したらしいことに胸をなでおろしたけど、わたしの右手に握られたパンをいつ食べようか、そのことばかりずっと考え続けている。いまパンを食べだしたらキミが強めに突っ込んでくることは予想できる。じゃあ、いつだ。いつ食べるんだ。こっちの事件はまだ解決していない。
「えっ、三条先生、休職されたの?」
ハセベのおばちゃんが言う。今日はみんな弁当を持ってきてるから、パンを買いに来たのはわたしだけだ。
「そー。尾崎先生っておじいさんが代わりに来たけど、なんかパッとしないんだよねぇ」
わたしはおばちゃん相手にお喋りしながらパンをかじっている。もうすぐ修了式で、春季予選に向けて練習が厳しくなってきているから、パンを食べている時が唯一心が安まる時なんだ。わたしは、あんこを挟んだシベリアをデザート代わりに囓りながら、おばちゃんに尋ねた。
「ねー、おばちゃん。パン屋になるのって、難しい?」
おばちゃんは意外そうな、でもなんだか嬉しそうな顔をした。
「さっちゃん、パン屋になりたいの?」
「んー、パン屋になったら、パン食べ放題じゃん」
おばちゃんは笑う。わたしもつられて笑ってしまう。だけど半分くらいは本気で、パン屋になったら楽しいかもなあなんて思う。ソフトボールで大学へ行くんだろうけど、そういう道もあるかもなあって。とりあえず高校を出たら、パン屋でバイトをするのもいいかもな。
「おばちゃんのとこは、バイト募集してないの?」
「さっちゃん、パン屋になりたいの?」
おばちゃんは笑いながら、ちょっと意地悪くまた同じ質問をしてきた。
「ひみつ」
わたしはシベリアを全部口へ放り込んだ。幸せだ。
前の時間
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