【so.】山浦 環[5時間目]
「先生、ごめん、今なんて?」
私が尋ねると、宮本先生はハンカチで目尻を撫でながら言った。
「郷 義弓は、私の同級生なのよ。信じられないだろうけれど」
「信じられないっていうか、意味が分からない」
私がそう言うと、宮本先生は曖昧に笑った。
「そうよね。何があったか説明するわ。これは私の背負った業みたいなものだから」
先生は机へ振り向いて、その上に乗っていたマグカップを手に取ると向き直った。
「何か飲む?」
「いらない」
サヨが言う。
「私も大丈夫」
「そう。じゃあ、郷さんね。あの子は転勤族で、うちの学校には高校2年の時に転入してきたの。うちは中高一貫校でしょ。だから、既に友だちやグループが固まっちゃってて、上手く溶け込めなかったみたい」
そう言うと宮本先生はマグカップを口へ持っていって、一口飲んだ。紅茶の香りがふわっと薫った。
「それで演劇部にも入部して、私は同じクラスだったし、同じ部活だしで、会話は交わす仲だった。でも、友だちって程ではなかったかな。彼女は休み時間はいつも本を読んでいたから、話しかけづらかったし、部活は結構ハードだったから、お喋りしてる暇なんてなかったのよね」
私は宮本先生の話を聞きながら、そんなサトミの姿を思い浮かべていた。
「それが、2学期になってからかな、彼女、雑誌のモデルにスカウトされて、出ちゃったのね」
「へー。そんなことが」
「まだあるでしょ、ハナスってタウン情報誌」
「えっ、すごい。いつも可愛い子がモデルしてるでしょ」
ちょっと前には、いまテレビ橘のアナウンサーになった人も出ていた気がする。
「でも、それが問題になっちゃった」
「えっ、なんで」
「まだ学年に3クラスもあったし、校則が厳しかったから。だけど、一番まずかったのは、同じクラスで一番上のグループのリーダーだった子に、目を付けられちゃったのよ」
そう言うと先生はまたマグカップを口へ運ぶ。もう廊下から足音は聞こえない。今頃は体育館の冷たい床の上で、全校集会が開かれているんだろう。
「目を付けられた、って?」
サヨが尋ねる。先生は少し俯いて、躊躇いがちに語った。
「PTAの会長の娘でね、親を通して学校に圧力を掛けて処分させると共に、自分もいじめを主導して、無視だけじゃなく、色々と酷いことしてたわ。詳細を語るには忍びないくらいの…」
そう言って先生は口ごもってしまった。
「先生は? 先生はどうしたの?」
私が尋ねると、先生はさらに答えにくそうに言った。
「部活の時は…会話はしたけど…クラスではね…」
「無視したの?」
「…そうしなかったら、今度は私がいじめられていたから…」
先生の目尻にまた涙が溜まっている。先生はハンカチを押し当てる。
「加担したんだ」
サヨが言う。
「…そうね。それが私の罪。許されるとは思っていない」
「それで、郷さんはどうしたんですか?」
「終業式の日の朝に、教室で首を吊ってたのが見つかった」
やるせない。何を言っても嘘くさいから、私は言葉が見つからない。
「でも、じゃあ何で、その子がたまきのクラスにいたの?」
サヨが尋ねる。先生は肩を落として言った。
「山浦さんのクラスだけじゃないの。あの子が死んで、次の年から毎年、2年A組には、あの子がいるのよ」
「は?」
私は思わず声を上げた。
「最初は悪い冗談かと思ったわよ。私たちが3年生になって、2年の教室の前を通ったら、中にあの子がいるんだから」
「いる? いるってどういうこと?」
サヨが尋ねる。丸椅子に座っているけれど、前のめりになっている。
「クラスにいて、同級生のひとりとして、誰も何も疑いを持っていないの」
「なんで?」
私も気がつけば前のめりになって先生に尋ねていた。
「なんでって言われても…私にも分からない。けれど、毎年、終業式の朝に首を吊って発見されて、その後にその年の2年生の記憶からは消えてしまう。ただ、元々の同級生だった私たちの記憶からは消えなかった。これは、私たちに課された郷さんの呪いなのかなって、噂し合ったものよ」
「呪い…」
サヨがぽつりと言った。
「それでも卒業してみんな学校から離れるじゃない? 私は大学へ行って色々勉強して、結局この学校に赴任することになった。そうしたら、まだ2年生の教室にあの子がいた。卒倒するかと思ったわ…」
「そういうことか…」
サヨが言った。
「何が?」
私が尋ねると、サヨはこちらを向いて語った。
「さっきさ、ちょっとみんなのクラスどんな感じなんかなって、見に行ったのよ。2時間目かな」
「生物だ。ちょうどみんないなかった」
「そしたらさぁ…私、その郷さんって知らないから分からないけど、誰かがいたんだよね」
サヨは1年の時から不登校だから、サトミのことを知らない。
「生徒?」
「うん。制服着てたもん。でも、私さぁ、あんま信じないだろうけど、霊感強くてさ。あれ、ただの人じゃなかったよ」
「話した?」
そう尋ねると、サヨは驚いたように言う。
「まさか。怖いから逃げてここに来たんだよ」
「そう…まだ何か未練があるのかしらね…」
先生が他人事のように言った。
「それで、先生たちの学年は、どうしたの?」
「えっ…告別式にはクラスで参列したけれど…」
「その、首謀者は?」
「ああ…彼女は、大学の准教授になったけど、この間、ネットで炎上していたわ。詳しいことは知らないけれど」
「そうじゃなくて」
サヨが言った。たぶん同じことを考えている。
「誰かひとりでも、お墓参りとか、謝罪とか、したの?」
目を泳がせている先生に、私は尋ねた。
「してないんだ?」
「だって…申し訳なくって…」
私はため息をついた。サヨも呆れたように、椅子に座り直した。
「先生、郷さんの家って分かりますか?」
私はこれから行ってみようと思った。サトミの家へ。サトミの所へ。
「えっ、ああ…当時の演劇部の連絡簿をまだ持ってるから、ちょっと待って」
そう言うと先生は、書類の入った戸棚をごそごそ探し始めた。
「行くの?」
サヨが尋ねる。
「うん。行ってみる」
「私は」
「いいよ、来なくて。これは私と、サトミの問題」
「そっか。よろしくね」
ふふふ。何をよろしくなんだろうって思ったけど、サヨに「わかった」と頷いた。先生は戸棚から変色した連絡簿を出してきた。私はその連絡簿をスマホで撮ってから、地図アプリで住所を調べた。
「あの団地か。バスだな」
私が呟くと、先生が尋ねてきた。
「行くつもり?」
「今日しか無理だもん」
「でも、13年前よ。もう引っ越しているかも…」
「それならそれでいいよ。サトミの暮らした所は見ておきたいし。明日はもう空の上だし」
「そだね」
サヨが微笑んだ。
「どうしてそこまで」
言いかける先生を制して私は言った。
「当たり前じゃん。友達だもん」
私は椅子から立ち上がった。
「先生、色々ありがとう。でも、先生もケリをつけてよ」
私がそう言うと、先生はまたハンカチを目に当てている。業だとか罪だとか呪いだとか、最もらしい理由を付けて逃げてるだけじゃないか。大人って、ずるいなと思った。
学校を出てサヨと別れて、私は近くのバス停まで歩いてバスへ乗った。うちとは真逆の方向だから、荷造りは徹夜しないと無理だなと思った。だけどまあ、それでいいやと思えた。
昼過ぎのバスはガラガラで、私は一番後ろの席の窓側に座って外を眺めた。サトミは、この景色を眺めながら毎日通っていたんだなって、噛みしめた。海辺の工場群。空を舞うトンビ。時折覗く水面。日本を離れる最後のちょっとした旅。私はこの時間を生涯忘れないだろう。
丘の麓の終点でバスを降り、団地へ向かう緩やかな坂道を上っていく。B棟の4階、2号室。薄緑色のドアの家の表札には「郷」と記してある。良かった、まだご両親は住んでいる。私はさすがに緊張したけれど、インターホンを押してみた。
「はい」
女性の声がする。サトミのお母さんだろうか。
「突然すみません、私、橘女子学院の山浦といいます。義弓さんのことで、お話したくって」
「ちょっと、待ってね」
しばらくすると重そうなドアがぎいって開いて、サトミのお母さんが顔を出した。私の金髪を見て、唖然としている。
「こんな見た目ですみません。あの、私、どうしても義弓さんにお線香をあげたくて、来ちゃいました」
「そう…」
「私、明日から海外へ行ってしまうので、どうしても、今じゃなきゃダメなんです。お願いします」
「分かりました。どうぞ」
サトミのお母さんはドアを大きく開いて招き入れてくれた。玄関には靴とサンダルだけ。こざっぱりとして綺麗なお宅だなと思った。
「お邪魔します」
サトミのお母さんの後について、奥へ入っていく。リビングがあって、その奥の閉じられたふすまを開くと、サトミのお母さんは振り返った。
「この中よ。どうぞ」
私はひとりで和室へ入ると、そこはサトミの部屋だったらしく、勉強机や本棚や、タンスとベッドがきちっと配置されていた。掃除が行き届いていて、とても13年前に自殺した少女の部屋だとは思えなかった。サトミのお母さんが電気を付けてくれて、暗かった和室が明るくなると、片隅に黒い仏壇の鎮座しているのが見えた。扉は開いていて、前に座布団が敷いてある。私はそこへ正座をすると、顔を上げた。
「来たよ。友だちだからね」
サトミの仏壇の前で手を合わせる。やっと会えたねって、そう思った。
「行ってくるね」
私はサトミの写真に語りかけた。
「行ってらっしゃい」
今にもサトミが言い出すんじゃないかと思うくらい、いい写真だった。私は軽く目を閉じて祈ると、立ち上がってリビングに座っていたサトミのお母さんへお礼を言った。
「ありがとうございました」
「いいのよ。こちらこそ、ありがとう」
「あの、いい写真ですね」
私がそう言うと、サトミのお母さんは破顔して言った。
「あの写真くらいしか、なかったの」
「良かったです」
「でも、どうして?」
「えっ」
「あなた、橘の現役の学生さんよね? 娘はもう…」
ここで本当のことを言ったら、余計に悲しませてしまうだけじゃないかと思った。さっきバスの中で考え続けて、やっと思いついた嘘を私は口にした。
「義弓さんのことを知って、一度お参りをしたいと思いまして、伺いました」
「そう…あの子も、喜んでると思うわ」
サトミのお母さんは涙ぐむ。それを押し隠すように、サトミのお母さんは明るく言った。
「ありがとう。お茶でも飲んでいく?」
「そうしたいんですが、予定がありまして…」
帰りのバスに乗って、駅まで行って、そこから電車に乗って…あまり考えたくない予定だった。
「そう。気をつけてね」
「また、必ずお伺いします。その時に」
「ええ。楽しみにしてるわ」
サトミのお母さんに玄関まで送ってもらって外へ出た。西日がよく差し込む団地だなと思った。階段を一段一段降りながら、私はスマホを取り出して、FILOでサエに文章を打った。私の起こした騒ぎのせいで、きっと昼休みは無いかもな、とちょっと悪い気もしたけれど。
「サトミの家に行ってきたよ。お線香上げてきた」
既読にはならない。それでもいい。私は画面の上で指を滑らせる。
「それで、驚いたことがあったんだけど」
私は送信を押して、さっきの写真を思い返す。
「サトミの写真、笑ってたんだ」
前の時間
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