心で温めてこられたと聞いて
昨日、文子さんが記事中で僕の紹介をしてくださった。
ずっと前に文子さんのある記事に僕がつけたコメントが強く心に残ったと。
文子さんが昨日僕を紹介くださったのはこちらだ。
前半は、僕がコメントした以前の記事の改稿版。
文子さんのある思い出話なのだが、これがもうなんともいえずおかしい。
これを一度ならず二度投稿する文子さんの度胸に感服せずにはいられない。
そして、後半に僕の名が突然登場する。
いや、びっくり。
文子さんからは事前に、当時のコメントを掲載してよいかとの問合せがあったので、近々ちらっと引用されるのだろうとは思っていた。
ほんの少々、ちらっと。
ところがふたを開けてみると、そのコメントが文子さんの中でとても大きな意味を持っていたことが綴られていた。
そういうことだったのか…
昨日の記事のタイトルに2字アキで「 からの~」とあるのは、まさに時を経て今僕を取り上げることの現れだった。
他の人の記事につけたコメントは、あとからはなかなか探しにくい。
誰に何のコメントをしたかをすべて覚えておくのは至難のわざであり、その2つの手がかりがなければ探し出すことはもう不可能だ。
だから、と開き直るわけではないが、文子さんの記事につけたコメントも言われるまでは完全に忘れてしまっていた。
そんなふうに、全力でつけたコメントでも、時が経てば忘却のかなたに流されてしまうのはSNSの宿命でもあるのだろう。
そのつもりはなくとも「垂れ流し」の状態といっていい。
でも、コメントをもらった側からすると、その一つひとつが大きな意味を持ち、深く記憶に刻まれる。
自分の記事につけてもらったコメントを思うと、もちろんそう思う。
なのに、他人の記事につけた自分のコメントがその人にとって同じ力を持っていることにこれまで気づいていなかったかもしれない。
コメントは心にしっかりと「残る」のだ。
ん? 「垂れ流し」たのに「残る」?
ひゃ! 文子さんの語る思い出話はまさに「垂れ流したのに残る」話。
気になった方はぜひぜひ読んでみてほしい(こちら→ 📝)。
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その記事にあるように、文子さんは今度神戸に来られることになっていて、僕はアテンドを引き受けた。
あまりに気軽なお願いだったので近隣の方かと思えば、なんと今回が神戸初上陸の東京の方と伺ってまずびっくり。
そして今回の記事で、神戸に来ようと思われた理由を知って二度びっくり。
僕がつけたコメントがずっと文子さんの心の中に残り、いつか会いに行こうと心で温めてこられたと聞いて胸がジンとしないはずがない。
胸がジンとする? そんな表現あったっけ?と調べたら心臓病しか出てこなかったからたぶん間違っているのだろう。
こんな僕でいいのか、会った瞬間幻滅されるのではないかと心配もするけれど。
どんな神戸旅をご希望か伺ううち、キャリコンもいるよねとなり、アテンド+キャリコンという新しい形をとることに。
神戸を案内しながらグルメに舌鼓、そして腰を落ち着けてキャリコン。
あわてて「アテンド+キャリコンセット割」などというイカサマ携帯会社のような割引価格を設定した。
文子さんとお会いできるまでもうあと少し。
心からその日を楽しみにしている。
(2023/11/15記)
チップなどいただけるとは思っていませんが、万一したくてたまらなくなった場合は遠慮なさらずぜひどうぞ!