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二回目のローマでの仕事は夏の終わりだった。私はすでにその年の初めからパリに住んでいたが、ローマのオーケストラでエルザに再会するのは楽しかったし、何よりもその時点でパリでまだ十分な仕事はなかった。リヨン駅からローマ行きの夜行列車に乗り込んだ私は, ヴァイオリンとスーツケースを抱えて少し不安な気持ちで自分のコンパートメントへ向かった。夕方の6時くらいだったが日はまだ高く、人々はそれぞれのコンパートメントでぼうっとしたり、おしゃべりに興じたりしていた。 私のコンパートメントにはすで
オーボエ奏者のステファノが死んだと私達が知らされたのは、風が少しだけ夏の匂いを含んだ5月の夜だった。その夜私達は定期演奏会でヴェルディのレクイエムを演奏する予定だった。 私が会場に近づくと、エンリコが道端に佇んで迷子のような顔でこちらを見ている。私を見るなり彼は子供のように泣きじゃくりながら [ステファノが死んじゃった] と言う。 あまりに突然の事で私は返す言葉もなかった。 え?死んだ?何故。。。「死」という言葉が、そこだけ物語のようだった。 楽屋に足を踏み入れるとそこ
劇場の周りには、いくつものバール(日本でいう庶民的なカフェとバーの中間であって、おしゃれなカフェ・バーというのとは違う)があり、私たちはリハーサルの休憩時間ごとにバールへコーヒーを飲みに行った。でもこの際「飲む」という表現が適切かどうか、いささか疑問が残る。というのもイタリアのコーヒーは基本的に濃いエスプレッソで(母いわく「鼻が曲がりそうな」コーヒー)、しかも3口くらいで飲み終わってしまう量なのだ。 だからイタリア人たちは、バールに入って来るとカウンターでそれをさっと飲み、
オーケストラの仕事はどんどん忙しくなっていった。休みはほとんどなく、時には日曜日まで潰れるほどだった。それでも毎週のように、世界中からドミンゴやアルゲリッチをはじめとするクラシック界のスターたちが私たちと共演するためにやってきた。 有名なソリストの中にはリハーサルやコンサートの後も、楽団員と食事をしに行ったり楽しく交流する事を好む人たちもいた。どんなに有名な演奏家や歌手も、ミラノではどことなくリラックスしているようにすら見えた。彼らと言葉を交わすチャンスというのは、例えばリハ
私といつも一緒にいたウテがいなくなり、寂しそうに見えたのかもしれない。持ち前の気取らない態度と、人の警戒心を溶かすピュアな笑顔を持つカティアが、私を度々仲間たちとの映画や食事などに誘ってくれるようになった。そんな時いつも一緒だったのは背の高いラヴェンナ出身のマルコと、親友のパオロだった。 私たちは一緒に、イタリアで公開されたばかりだったリュック•ベッソンの「ジャンヌ•ダルク」を観に行った。イタリア語吹き替えで、私には全くと言っていいほど理解できなかったのだが、あの「ニュー・シ
27歳のウテには50歳の恋人ロマーノがいた。 画家のロマーノはうっすらとした白髪で、前歯の間にわずかな隙間があった。お世辞にも美男とは言い難い彼は魅力こそあるものの、どう見てもウテの恋の相手とは思えなかった。親子というにも彼らの容姿はかけ離れていた。 二人はミュンヘンのアーティストがたむろするカフェ•バーで出会った。ロマーノの最初の言葉、それは[初めまして]に続いて、[僕のモデルになってくれませんか?]だった。 それから一週間もしないうちに、ウテはロマーノのアトリエに自分の
マーラーのコンサートの週に新しい友達ができた。 絹糸のように細くてしなやかな金髪を背中まで垂らした北欧系ドイツ人の彼女は ウテという名で、オーケストラのハープ奏者だった。 ボッティチェッリのヴィーナスを思わせる完璧に美しい顔は、時々血が通っていないかのようで人を不安にさせるのだが、いったん微笑むと、その顔はとたんに子供のあどけなさを湛えた。 私たちが初めて言葉を交わしたのはマーラーのコンサートの休憩時間だった。 すらりとした長身をぴったりとした黒い衣装で包んだウテは、真
そうこうするうちに、オーケストラで新しい友達ができた。人懐っこいビオラ奏者のカーティア、そしてバイオリン奏者のマルコと,チェロのパオロは揃ってラヴェンナ出身で同郷というだけでなく、二人そろって背が高く美男だった。彼ら3人は、私がイタリア語を解さないと分かっていても毎日私に話しかけに来てくれた。私にとって素晴らしかったのは、カーティアが子どものような無邪気さで、誰とでも友達になる才能を持っていることだった。私たちは自然とひとつのグループを作り、休憩時間には連れだって,向かいのバ
ミラノで始まったばかりの仕事と家探しで疲れ果てていた或る晩、電話が鳴った。出てみると、オーケストラ専属の合唱団員の女性からで、私が事務局の掲示板に貼った「アパート探しています」の紙を見たとのことだった。彼女の家のアパートがちょうど一室空いたので、良かったら今夜見に来ないかという事だった。 時計を見るともう21時近かった。私と母は顔を見合わせたが、実際に部屋探しは困難を極めていて、私たちは今週トルトラさんのアパートを出て、日本人マダムの経営する小さなホテルに移ったばかりだった
トルトラ婦人の真っ白なアパートで、私は27歳の誕生日を迎えた。九月も終わりに近づき、その日の朝はシーズン最初のプログラムであるマーラーの「復活」の初リハーサルの日でもあった。私はどきどきしながら、一週間後にマーラーでのこけら落とし公演を控えた新しいホールのある、ナヴィリオ地区へと向かった。この地区というのは大小の運河が顔を覗かせ、古き良きミラノの面影が残るいわゆる「下町」のような独特の界隈である。市電がポルタ・ティチネーゼの門をくぐり抜け、ゴトゴトとサン・ゴッタルド通りへ入っ
二度目のミラノは相変わらず埃っぽくて、私は母を連れて Piazza-5giornate(ミラノの5日間広場)でトラムを降りた。二週間の間、私たちの「仮の住まい」となるマダム・トルトラのお宅は、賑やかな街中の広場に面したデパートから目と鼻の先というところにあった。 ちなみにミラノの5日間とは、1848年まだオーストリアの統治下にあったミラノが、オーストリア帝国の支配に対して蜂起した5日間に由来するらしい。皮肉にも150年後、その「オーストリア帝国」から私たち親子はこの広場を目
私がウィーンでのヴァイオリンの勉強を終わりにしてミラノのオーケストラに就職が決まったとき、いちばん慌てたのは母ではなかっただろうか? 母にとってイタリアとはいかにも怪しい国−—つまり女好きな男達が街を闊歩し、泥棒がそこら中にたむろし、商売人たちが哀れな観光客から金を絞りとろうと手ぐすね引いて待っている−—といった、まさにステレオタイプなイタリアの印象を持っていたと思う。 その時の私はオーディションに受かったというだけでなく、私にとっては「雲の上のような存在」だった世界的に