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ウテとロマーノ

27歳のウテには50歳の恋人ロマーノがいた。
画家のロマーノはうっすらとした白髪で、前歯の間にわずかな隙間があった。お世辞にも美男とは言い難い彼は魅力こそあるものの、どう見てもウテの恋の相手とは思えなかった。親子というにも彼らの容姿はかけ離れていた。

二人はミュンヘンのアーティストがたむろするカフェ•バーで出会った。ロマーノの最初の言葉、それは[初めまして]に続いて、[僕のモデルになってくれませんか?]だった。
それから一週間もしないうちに、ウテはロマーノのアトリエに自分のハープを運んでしまった。そこはガラクタと、汚れた皿の山の間に、猫の顔をした裸婦が描かれたタブローが散らばるアトリエだった。彼らはしばらくそこで一緒に暮らし、ミュンヘン暮らしに飽き飽きしていた ロマーノは、彼女にイタリアに住んでみないかと言った。

そんな彼らのミラノでの住まいは、私と同じナヴィリオ地区だった。ちょっと田舎風の庭の奥にある、古い平屋建ての農家みたいな印象の外観とは裏腹に、内装はモダンに改装されており、機能的なキッチンや、地下の寝室に通じるちいさな螺旋階などがとても素敵だった。当然ながら、殆どの空間はロマーノの タブローで埋め尽くされていたが、その間からウテの金色のハープが船の帆先のように顔を覗かせていた。ウテがそれをかぶってロマーノのためにポーズをとるのか、黒いシルクハットが丸いコーヒーテーブルの上の画筆の上にちょこんと載っていた。
ロマーノは、自分の華やかな交友関係について唾を飛ばして喋った。有名な映画祭で、ミシェル•ファイファーが自分に夢中になったとかそんな話だ。
私がウテに本当かと尋ねると、興味なさそうに「たぶんね、」と言ってただ肩をすくめた。

ウテはちいさな螺旋階段を降りながら、このアパートは気に入っているけど、地下は湿気でカビがすごいから料理もする気にならないのと言った。
相当古い建物を新しくリノベーションしたように見える寝室の天井には、確かにうっすらとしたカビの形跡が見えたが、彼女が言うほどでもなかった。 寝室の壁の裏側に取り付けられた洗面台には、詩的なほど無造作にシャネルのアイシャドウケースやクリームの瓶が散らばっていた。
私たちは日が暮れるまでキッチンのテーブルでコーヒーを飲みながら話をしていたが、そろそろ夕食をとろうという事になり、皆で劇場の前のチャイニーズレストランに向かった。 料理の苦手な私と、「カビ」に脅かされて料理をしないウテはこのレストランの常連だったわけだが、一度だけ家でウテと料理をしたことがある。その時ウテは私にリゾットの作り方を教えてくれた。

ある日、リハーサルが終わってラグランジュ通りの自分のアパートに近づくと、ウテがドアの前に立っているのが見えた。その週のプログラムに出演していなかったウテは、柄にもなく野菜の入ったスーパーの袋を下げていて、「夕食を一緒に作ろうと思ったの」と言った。
私たちは一緒に平べったい階段を上って私の小さな部屋に上がり、一緒にリゾットを作り始めた。
私がサボろうとして火のそばを離れようとするとウテは、「リゾットはね、かき回し続けなきゃダメなのよ!」と言って、野菜を切る手を止めて鍋に手伸ばし、ミルクのように白い手で器用にせっせとかき回した。

ウテは自分と対照的な、特に東洋的なものに強く関心を示し、私の髪の色とか着ているものを見逃さなかった。私の髪をじっと見つめて、[あなたの髪の色は黒というよりもマホガニーね]と呟いたり、私が日本で買った花柄のロングスカートを身に着けていると、「それは日本的な柄じゃない?とても美しいわ」と言って中年の男が若い女を品定めでもするかのようにタバコを吸いながら目を細めた。ウテの服装はいつもとても質素で、スカートのスリットから覗くウールのタイツには小さな穴すら開いていた。そんなウテは、どこかヘンリー・ミラーの妻で、絶世の美女だった「ジューン」という女性を連想させる。一時期ジューンの親友だった作家のアナイス・ニンは、彼女の美しさに影響され、そんな女友達が貧乏で、安手のストッキングや衣装を着けていることに耐えられずに、自分の持っている装身具や香水を惜しげもなく与えたという。ウテはこのジューンとは違ってミュンヘンのきちんとした中流の家庭で育ち、豊満でも破滅的でもないけれど、アナイスのいう「存在するだけで人に霊感を与える」という意味では、ロマーノをはじめとするアーティストにとってのミューズ(創作の女神)的存在かもしれないと私は思った。

ウテは3ヶ月だけオーケストラで働いた後、年が明ける前に再びミュンヘンに戻っていった。
一年後の冬、ニュルンベルクで再会することにした私たちは、がらんとした日本食レストランでお昼を食べた。そしてまた会おうねと言って別れた後、私はバスの窓から病気のロマーノのために薬局に急ぐウテを目で追った。
そしてそれが、ウテを見た最後の日になった。
それから4年間近く私たちの文通は続いた。Facebookができた年の始めに、手紙で私がパリに移り住んだと伝えると彼女はとても喜んで、自分の熱愛するピアフの生まれた街に住めるなんて最高にクールだと言った。そのうえ私のアパルトマンはピアフが生まれた家から目と鼻の先にあったので、ウテがいつか遊びに来るものだと信じて疑わなかったのだが、彼女からきちきちと家のポストに届く定期的な手紙のひとつに、一度だけ返事を書きそびれたことがあった。時代はあきらかにメールに移行しつつあったのだけれど、それ以降ピンポン玉のようにパリとミュンヘンを繋いでいた紙の封筒が途切れてしまった。もちろん私はその後手紙を何通か送った。でも、もうドイツ製の大きな封筒に入った、分厚い熱のこもった手紙がウテから届くことはなかった。不思議なのは、どんなSNSによってもウテを見つけ出すことができなかったことだ。でもふと思った。 もしかするとウテはほんとうにジューン・ミラーとか、ピアフの生きたロマンティックな時代のパリの住人だったのかもしれないと。 第一、Facebookのプロフィール写真のウテなんて想像もできない。

だからウテは私の記憶の中にずっと、あの女神のような27歳の姿で残り続けた。 薄暗いバールの奥で、すこし破れた黒いタイツの脚を組んで、目を細めながら煙草を吸っている姿で。

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