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雨の夜の出来事

ミラノで始まったばかりの仕事と家探しで疲れ果てていた或る晩、電話が鳴った。出てみると、オーケストラ専属の合唱団員の女性からで、私が事務局の掲示板に貼った「アパート探しています」の紙を見たとのことだった。彼女の家のアパートがちょうど一室空いたので、良かったら今夜見に来ないかという事だった。

時計を見るともう21時近かった。私と母は顔を見合わせたが、実際に部屋探しは困難を極めていて、私たちは今週トルトラさんのアパートを出て、日本人マダムの経営する小さなホテルに移ったばかりだった。当初、半月の滞在予定だった母もミラノに来てからすでにひと月近く経とうとしていた。

とは言え外はすでに暗く、雨が降り続いていた。ためらっていると電話の相手は、私たちのいるホテルからほんとうに目と鼻の先に住んでいるので途中まで迎えに行くと言う。私はそれなら、と承諾してしまった。この場に及んで向こうからやってくるチャンスを逃すわけにはいかない。

先に寝ていてねと言ったのに、心配性な母はさっさと靴を履いて身支度を整えている。濃い闇の中にオレンジ色の街灯のあかりが溶け出す通りに出ると、さっきまでか細く降り続いていた雨が途端にその雨脚を強めた。さっき電話で言われた方向に歩いていくと、よく知らない住宅街に入り込み、少しづつ不安が募った。「ほんとうにこっちでいいの?」と後ろから母は不安そうな声を上げる。私の自信なげな様子を見て、「ああ、やっぱりついて来てよかった!でなきゃどんなことになっていたか。。。」などと始まった。私が、おかあさんが来たって道がわかるわけじゃないでしょうと反論しようとしたとき、濡れて黒光りのする石畳の向こうから、頭まですっぽりとレインコートで覆われた男が突然現れた。驚いた私は思わず声を上げそうになったが、すぐに相手が私のことを知っていることが分かった。私の名前を発音したからだ。

― こちらです。私について来てください!

男性は英語でそう言うと、あとはもう振り返らずにさっさと先頭に立って歩きだした。強い雨の中、レインコートの男性の後をしばらくついて行くとやがてある建物の前で立ち止まり、扉を器用に開けて私たちの方を振り返った。初めて男性の顔に親しみやすい微笑みが見て取れた。

ー ここです。どうぞ入って!

アパートの中では先ほどの電話の女性が出迎えてくれた。赤毛で、そばかすいっぱいの顔でほほ笑む彼女のことをどこかで見かけた事があると思った。”そうだ、マーラーのリハーサルの時だ!”と不意に思い出した。一度、リハーサルの合間に親しく話しかけられたことがあった。迎えに出てくれた男性もやはり合唱団員で、女性とは昔からの友人とのことだった。女性は茶目っ気たっぷりに、自分は英語を話せるから心配しないでねと言った。

アパートの中は薄暗くて、間接照明でところどころ照らし出されていた。女性はまず家の中を案内してくれたのだが、そこはまさに彼女という人をそのまま表現したかのような空間だった。家中、居間からバスルームに至るまで、およそ考えられる全ての突起物に彼女の帽子だの、首飾りなどがぶら下がっていた。バスルームに至っては洗面台の輪郭が見えなくなるほどに、こまごまとしたものが場所を占領していて、それは大小のキャンドル、香水瓶、紅筆、ラメ刺繍のスカーフといった、ありとあらゆる「個人」を象徴するものの集合体だった。 それらが一斉に、暗いはちみつ色のライトの下でまどろんでいる様子を見たとき、なんとなく居心地の悪さを覚えた私はそそくさとバスルームをあとにした。 そしてここにも私の居場所はない、と思った。 礼儀上、こじんまりとしたアパート内をすべて見学した後、私たちは色とりどりの布で埋め尽くされたリビングに案内された。インドの香の匂いのするソファーに腰を下すと、さっきの男性がキッチンからジェラートを人数分運んできた。その後ろから女性がインド綿の長いスカートを揺らめかせながら部屋に入って来て、私にこの家が気に入ったかと尋ねた。

私が個性的なインテリアですねと言うと、女性は嬉しそうに私のそばに腰を下し、その瞬間甘い香りがふわりと漂った。それはつけたての香水だった。続いて、彼女は次々とわたしのことについて尋ねた。なぜイタリアに来たのか? 日本は恋しくないのか? 家族は.....等々。 ジェラートがガラスの入れ物の中でゆっくりと溶け始めていた。蓄積した疲れが少しづつ頭をもたげ始めているのを感じた。私は彼女の黒く縁どられた緑色の眼を見つめながらシャム猫を連想した。でもシャム猫の声はどこか私を警戒させる響きを持っていた。ある瞬間その声はこう言った。

[つい最近までここで私のガールフレンドと暮らしていたの。でも別れたのよ彼女とは!」

合唱団員の男性は静かに、置物のようにじっとそこに座っていた。そして可哀そうな母が、一気に10歳ほども年を取ったかと思われるくらい疲れ切った顔をしてそこにいることに気が付いたとき、私はそろそろ引き上げなければと思った。

「疲れているのねお母様!可哀そうに。あら、ジェラート溶けちゃってるわよ。お嫌いだったのかしら?」

私が、一度褒めた部屋を断るのに何と言おうかと無理矢理に頭を働かせていると、カタン、と音がして本物のシャム猫が扉の影からのろのろと歩いてきた。女性は猫を抱き上げると、愛おしそうに頬擦りしながら、「あなた、ネコはお好き?」と尋ねた。 <ああ、この瞬間ほど自分の動物アレルギーに感謝したことはなかった!> 完全に眠気の覚めた頭で丁寧にお礼を言うと、少しがっかりした様子の女主人を残してその家を後にした。私達は再び、来た道を途中まであの男性に付き添われながらホテルにたどり着いた。雨はもう、止んでいた。

ホテルに戻ると、何もない殺風景な部屋がなぜか清々しく感じられた。そして前後不覚に眠った。翌朝目が覚めると、私はぼんやりと昨夜の不思議な出来事について考えた。まぶしい朝日の中で、それは夢の中の出来事のように思えたが、あの女性のつけていた香水はまだ記憶のどこかでメドュ-サの髪のように、私に絡みついていた。

*メドュ―サ=ギリシャ神話に登場するゴルゴーン三姉妹の一人。

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