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仮の住まいからの初出勤

トルトラ婦人の真っ白なアパートで、私は27歳の誕生日を迎えた。九月も終わりに近づき、その日の朝はシーズン最初のプログラムであるマーラーの「復活」の初リハーサルの日でもあった。私はどきどきしながら、一週間後にマーラーでのこけら落とし公演を控えた新しいホールのある、ナヴィリオ地区へと向かった。この地区というのは大小の運河が顔を覗かせ、古き良きミラノの面影が残るいわゆる「下町」のような独特の界隈である。市電がポルタ・ティチネーゼの門をくぐり抜け、ゴトゴトとサン・ゴッタルド通りへ入ってゆくと、窓からバイオリンを持った女性が歩いているのが見えた。

ひかえめなバラ色の煉瓦でできた建物は、見た目がレジデンスのようでうっかり通り過ぎてしまいそうになったが、一歩中に入ると総大理石のフロアや洗練されたシンプルなデザイン、そして設計されつくした音楽ホールが出現した。オーケストラの仲間は総じて年齢が若く、平均25~35歳くらいだった。イタリア人が全体の多くの割合を占めていたが、外国人の国籍は多様でアルバニア人が極めて多く、ドイツ、ベルギー、オーストリア、ルーマニア、ハンガリー、スロヴァキア、ロシアそしてキューバにまで及んでいた。私のスタンド・パートナー(弦楽セクションで同じ譜面台を共有する相手)は、私と同じ年のひょろんと痩せて背の高いジャンニだった。すこし内気な彼はあたたかなハートの持ち主で、私がイタリア語を解せない事をひそかに気遣い、指揮者が小節番号を言うたびに微笑みながらそこを弓で指してくれた。

その日は、リハーサルの後にひとつ物件を見に行かなければならなかった。まだまだアパート探しは続いていたので、母は私の住むところを見届けるまでは帰国できない!と言って航空券を延長した。トルトラ婦人のアパートも期限が近付いていたので、私たちは次の仮の住処も決めなくてはならないところまできていた。

その日私と母が訪ねたのはロレットという駅の近くのアパートだった。これは団員から教えてもらったシェア物件で、家賃の高額なミラノでは若い人たちがルームメイトと家をシェアするのはめずらしいことではなかったし、オーケストラの団員もかなりの数が仲間と住んでいた。「赤の他人」と住むということに母はまったく乗り気ではなかったが、この物件は「広いスペース」と「音だし可能」ということだったし、私はなかば強引に母を連れて行った。

待ち合わせの場所に現れたのは、24歳くらいの赤毛でそばかすだらけの愛嬌のいい青年だった。アメリカ人で、ミラノ大学の学生という彼が連れて行ってくれたアパートは驚くべきことに、だだっ広い部屋の中に彼と、さらにもうふたりの男性が平面を物で「区切って」生活していたのである。3人の若者は皆たいそう愛想が良くて、私が母と部屋の中に入っていくと「こんにちは!」と言いながらそれぞれに割り当てられた領域から進み出てきた。すでに嫌な予感がしつつも「私の部屋はどこ?」と尋ねると、先ほどのそばかすの青年が微笑を崩さずに「そこです」と指示したのは、私が立っていた畳3畳分くらいの壁際のスペースだった(たしかにこの壁側だけは片づけたのだろうか、2メートルくらいがらんとしていた)。

これには笑うしかなかった!私はお礼を言い、母と逃げるようにエレベーターへ向かった。3人はぞろぞろと見送りに出てきて、例のそばかす君が「コンサートに行きたいから連絡くれる?」と屈託のない笑顔で言った。エレベーターの中で母は「あの人たち、親の前でナンパするとはすっかりイタリア風だね!」とすっかり呆れた様子だ。

その日、母はわたしの誕生日のケーキを買って帰ったらしいが、私はそれを食べないうちに靴を履いたままベッドの上で寝てしまったという。ほんとうに不思議なのだが、なぜかそこだけすっぽり記憶が抜け落ちたかのように思い出せない。

(続)

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