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ステファノの死

オーボエ奏者のステファノが死んだと私達が知らされたのは、風が少しだけ夏の匂いを含んだ5月の夜だった。その夜私達は定期演奏会でヴェルディのレクイエムを演奏する予定だった。
私が会場に近づくと、エンリコが道端に佇んで迷子のような顔でこちらを見ている。私を見るなり彼は子供のように泣きじゃくりながら [ステファノが死んじゃった] と言う。
あまりに突然の事で私は返す言葉もなかった。
え?死んだ?何故。。。「死」という言葉が、そこだけ物語のようだった。   
楽屋に足を踏み入れるとそこはやはり騒然となっていた。フルートのマリアは床に倒れそうになって泣いているのを皆に支えられていて、とても演奏できる状態には見えなかった。
ステファノは、大量に飲酒した後に運転していたという。彼がなぜそのような事をしたのかは誰にもわからない。でも彼は以前にもそのような大きな事故を起こして、片方の目はそのせいで失明していた。

その夜、指揮者は今夜のレクイエムを私達のオーボエ奏者であるステファノに捧げると聴衆に告げた。言うまでもなくその夜はステファノが演奏する予定だったのだが、急遽他の誰かが彼のパートを演奏する事になった。
言うまでもなくどこか混乱した雰囲気の中で演奏会は始まり、この曲の一つ一つの音符が恐ろしいほどの意味を持って私たちを包み込んでいった。わずか26年の若い命が、混沌としたこの地上を離れてヴェルディのレクイエムの中へ入っていこうとしているのが見えるかのようだった。
私はステファノを個人的には知らなかったが、他の大多数のメンバーと同じように、この曲は私の中で永遠に彼の悲劇的な死と同義語になってしまった。

一日か二日して、コンサートホールの前にミラノ郊外の教会で行われるステファノの葬儀に参列を希望するメンバーのために1台のバスが用意された。やってきたメンバーは多くなかった。バスの中はしんとして、普段は饒舌なメンバー達がひとことも発することなく窓の外だけを見つめていた。まるで一人ひとりがこの出来事の前に魂と言葉を失ってしまったかのようだった。
私達がバスを降りたのは丘の上のちいさな教会の前だった。周りには忘れ去られたような田舎のバール(*)が一軒あるだけで、他には家一件見当たらなかった。

神父の話が終わり、近親者達によってステファノの棺が運び出されて来るまで私達オーケストラのメンバーは外で待つことになった。教会の扉の前で耳を澄ますと神父の声が低く聞こえてきた。そのうち楽器を持った数人のメンバーだけが演奏する為に中に通された。しばらくすると音楽が聴こえてきた。
アレッサンドロが奏でるヴァイオリンの音色は、昨夜私達がステファノの為に演奏した絢爛たるレクイエムに比べて遥かに哀しみを掻き立てるものだった。私達はこの名もしれぬ質素な石造りの教会の前に立ち尽くして、ただじっとヴァイオリンの音を聴いていた。どのくらい時間が経ったのだろう。
おもむろに扉が開き、ステファノの棺を担いだ数人に続いてたくさんの人々が教会の中から出て来た。私が彼の死を理解したのはその瞬間だった。 
それは墓地へと向かう長い葬列となってのろのろと丘を登って行った。
近親者の肩の上に担がれたステファノの棺は、重さなどまるでないかのように澄み切った空の下を舞っているように見えた。
まさにこれから天に昇って行こうとしているステファノを、人々が地上より少し高いところで支えている光景は美しく、非現実的であり、私はふと彼がやっと幸福になったのではないかしらと想ったほどだった。
すすり泣きに包まれた葬列は、イタリアのどこにいても見かける大小の集団にも似て、輪郭があいまいだった。人々はどこからともなく集まってきてなんとなく行列が出来上がるのだった。ぼやけた葬列の先の方に高く掲げられたステファノの棺は、どこか小さな子供のように得意げに見えた。

私は心の中で祈りを捧げ、葬列について行くことはせずに何人かのメンバーと教会の前に残った。白昼夢のような列が目の前から消えた後、私たちはしばらく雷に打たれたようにそこに立ち尽くしていた。しばらくして誰かが呻く様に[バールに行こう]と言った。「バールで一休みしたほうがいい。」その言葉は、「死」に幻惑されかかっていた私を強い力で「生」へと引き戻した。よく考えると私たちは2時間くらい草の上に立ちっぱなしだった。 振り返ると、さっきバスの中から見えた寂びついたバールが目に入った。私はマルコをはじめとする3人と共にそちらへ向かって歩き出した。急な丘を登りながら、私は砂埃を立てながら歩く全員の足音に耳を澄ませた。一歩一歩進むごとに、重たい足音が生きている証となって心に響くのだった。続いて新鮮な風の匂いが鼻をくすぐった。それが野蛮なまでに生きる歓びに満ちた春の鼓動を運んで来る事を否定しようがなかった。寂びついた一件のバールをひたすら目指して、私たちは何かから逃れるように黙々と丘を登って行った。

私は今でも時々、丘を登っていた時皆が同じ想いを共有していたのではないかと思う時がある。自分たちがただそこに「生きている」という認識と、それが同時にろうそくの炎のように危ういものだという認識。だからこそ、そこに皆と共に「いる」ということが奇跡のように愛おしく感じられたのだ。ステファノは、たった一人で突然誰の手も届かないところへ旅立ってしまった。でも私たちは昨日と同じようにそこにいた。マルコもパオラも、サン・ゴッタルド通りのバールにいる時と同じようにカウンターに並んでコーヒーを飲んでいた。たったひとつ違っていたのは、そこはステファノを弔うためにやって来た場所の見知らぬバールだったということだ。 
        
私とステファノは互いに同僚の一人に過ぎなかったけれども、彼は私のごく当たり前の日常の一部だったのだ。皮肉にも日常というのは、失ってみて初めてそれが日常であったことに気づく。サン・ゴッタルドのバールのカウンターで、そしてオーケストラの掲示板の前でいつも変わらぬ存在感を示していたステファノ。その眼はいつでも真っ黒なサングラスに覆われていた。決して手放すことのなかったサングラスの下で彼が泣いていたとしても、それは誰にも分らなかったに違いない。彼の取り返しのつかない悲しみや苦しみは、きっと誰の手も届かないところにあった。それらはどんどん成長し、いつの間にか彼自身よりもずっと強くなったのだろうか?

私たちは毎日一緒にいながらお互いのことをよく知らない。人々の間には暗号が交わされているだけだ。人と人の間には決してそれ以上近づくことのできない断固とした距離があって、どれほど話をしたりどれほど強く抱きしめあってもその距離が埋められることはない。私たちは結局死ぬまで、誰かのぬくもりを探しながらたった一人で果てしのない砂漠の中を彷徨わなければならないのだろう。ステファノを救うことは結局誰にもできなかった。でも私たちはステファノによって、彼の死という共通の思い出を生きることで再び注意深くお互いを見出すことになった。

私たちはおそらくこの砂漠の中で少しだけ強くなったのだろう。そしてこの死を思い出す度に、たとえそれが難しいことであったとしても、誰かと一度繋いだ手をなるべく離さないようにしたいと願うだろう。




*バール:イタリアで最もポピュラーな、コーヒーや酒、軽食を提供する場所。カウンターがメイン。

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