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朝井リョウ「正欲」読書感想とか考えたこととか…


はじめに

何かのSNSで偶々見かけたコメントに、この小説のことが書かれていたのが読もうと思ったきっかけ。

なぜ読みたいと思ったのか、その大事な部分はゴソッと忘れてしまったのですが(汗)、とにかく読みたい、読まなきゃ感だけは残っていて、今回手に取って読み始めました。

すると今月、これを原作とした映画が公開されると知った。

文章でしか表現できないこともあるし、映像でしか表現できないこともある。映像だからこそ伝えられることがこの映画に多くあればいいですね。

キャスト的には、自分が読みながら作り上げていたイメージとは皆さん微妙に違っているのでそこまで惹かれないです。しかし、ガッキーがあの役をどう演じるかは興味あります。

ゴローちゃんについては、私が視聴者として長年観てきて作り上げたイメージは、基本他人にあまり興味がない、世情にも関心が薄い人という感じ(悪いイメージのように聞こえたら申し訳ないけど、彼の場合はそうではなくて、”浮世離れ”といった感じでしょうか?下世話な人間界に生きてない感じ。)。
なので検事役かぁ~、大丈夫?とはやっぱり思いましたね。でも共感力の弱い役どころだと思えばちょうどイイのかも?

そして撮影時期は随分前だったりするんでしょうけど、今年は旧ジャニーズ問題が噴出した年。そこで元ジャニの彼に社会正義を語らせる。なかなかのブラックジョークというか、色んなことを観る人に想起させる意味深な配役になったもんだと思わざるを得ない(これはゴローちゃんのせいじゃないですけどね)。まあそこは彼のキャラで、キムタクがジャーナリスト役?そりゃこのご時世無理がある…って程には嫌悪感はない。これも人徳だったりするんでしょうか?

ということで、本を読んで考えたこと、ちょっと考察的なもの、などを徒然と書き綴ってみたいと思います。本の内容とはズレていってる部分もあるので、内容知りたい系の方はどうぞ他を当たってください。一読者の思考の足跡と割り切って読めるかたのみ。

*ネタバレというか、読んだこと前提で書いています。
意味不明な方は、本を読むか、映画を見てくださいね。


表紙

菱沼勇夫「Let Me Out」2015年

まず最初に、この表紙の絵。いや巻末にカバー写真と書かれているから写真なんでしょうか?

「正欲」というこの話とどういう関係があるのか、読む前は勿論全く意味が分からなかったし、読んでる途中もあるところまではピン💡ともポン!ともしなかった。

でも読み終えると、なるほどなぁ~と。

まずこの鳥は「カモ」ですよね?
ググってみると、
カモも含めた世界の鳥の約93%が、一夫一妻の 配偶システムを持っている」つまりツガイになることが前提の生き物の象徴。

(といっても「しかし大半の鳥種のメスたちは、つがい以外のオスの遺伝子を持った子も産んでいることか ら、「つがい外交尾」が鳥界では広くみられている」とも書かれていました。カモと同じ水鳥である「オシドリ夫婦」の語源のオシドリも所詮幻想ってこと!?人間と大して変わらんwww ここまで想定してカモを選んでいるなら、人間における一夫一妻異性婚の幻想、欺瞞も示唆しているようで深い!)

ツガイになることが前提の生き物ってのは何もカモだけでなく、私達人間もそういうことが前提として大抵は社会を形作ってきたわけです(イスラムとかは除くけど)。なので、このカモは人間のメタファーだろうと考えてみます。

そのカモが一匹、落ちていってる。空からなのか?それとも水の中に?
とにかくツガイになれず(もしくは群れ(=社会)からはぐれて)脱落していっている様子。
男女の性愛という枠組みに入れずにいる人たち、つまりこの小説に出てくるある種の性嗜好を持っているがためにマジョリティと考えられてる異性愛社会の枠組みから逸脱せざるを得ない登場人物達を表してるってことなのかと。

そして水鳥ってところが、この小説のキーとなる「水」にちゃんと掛かっている。鳥の中でも水を必要としている種。

そして背景です。
最上部が黒から下に掛けてグラデーションでラピスラズリのような青になっていく。
コレが水の中なら、上が暗いというのはおかしい。普通は水面の方が明るくなる。では光の向きを考慮して、ここで絵をひっくり返してみると、カモが水面に向かって浮上している絵に見えてくる。水掻きもかいでいるように見えなくもない(空から落下してるなら体側に引っ付いているはず)。

そうすると、水面にいるのは…ツガイの相方じゃないでしょうか?
ツガイを求める姿、繋がりを求める姿、それは大也、または佳道と夏月、ツガイになれた二人、を遠くに思い浮かべることができる気がします。

ということで、絶望的とも見れるし、微かな希望も感じられる意味深~い絵だったと分かった時に、最初の「なるほどなぁ~」と感嘆した訳です。

そもそも作者の菱沼勇夫さんが2015年に発表していることから、この作品「正欲」の為に作られたわけではない(「正欲」は2021年の書き下ろし)。そしてタイトルが「Let Me Out」。
「出してくれ」
という閉塞感を表したタイトルになっている。

「出たい」ということはやはり空から落下してる絵ではなく、水の中から息の出来る水面に出たいと浮上している絵なんでしょう。
そこに「正欲」の登場人物たちの閉塞感が重なっているという所も、この写真を表紙に選んだ、選ばれるべき作品をよくぞ見つけたという驚きがあります。編集者?装丁家?見つけてきた人、グッジョブ👍!!


数珠つなぎ

多分映画では表現されないだろうな~と思う文章だから面白かったところ。
それは数珠つなぎ的に文章が繋がっていく言葉遊び的な部分。

この小説、前半は3人啓喜、夏月、八重子の視点からなる文章の繰り返し、そして後半になって佳道、大也、最後に一回だけ田吉が加わる。

その各章の最後の文章の一部が、次の登場人物の文章の最初の一部と符合するように書かれているんですよね。

たとえばこんな感じ。

啓喜は、どんどん近づく”正義”の場に向けて、意識を引き締め直した

桐生夏月             2019年5月1日まで、 515日
意識を引き締め直したとて、体感温度は何も変わらない。
(P.25より)


そもそも、この世界が設定している大きな道筋から自分は外れているのだから。

神戸八重子            2019年5月1日まで、 515日
「ほんとにそう、今どきミスコンとか時代から外れているよね」
(P.35~36)

最初はストーリーの全体像を掴むことに気を向けて読んでいたので「何か繰り返されてる時があるな…」ぐらいにしか思っていなかったのですが、読み進めていくと、「アレッ?これもしかして全部この形式?」と気付き、そこからは次の章へ移る時のお楽しみ感が生まれ、次章の文頭を読み始めてしまうもんだからそのまま続きを読み…という感じで次へ次へと読書を牽引する仕掛けにも感じて面白いな~と。

これを映画でも、例えばコップが映って終わったら、次の場面でコップが映って始まる…みたいに場面転換で何かしらのアイテムの数珠つなぎがあれば面白いだろうけど、さすがに映像だとクドくなる気がしないでもない。こういうのは文章だからこそ成立する洒落た遊びな気がします。


基点:令和初日

令和が始まる日、2019年5月1日まであと何日、そこから何日経過という、令和初日基点に各章が書かれている。

しかし、この令和初日に何か事件が起こるわけではないんですよね。
最初私はこの日へのカウントダウン的に物語が進んで行って、令和初日に何かが起こるもんだと思って読んでいました。しかし何も起こらない。

一応一つの区切りとしては2018年の大晦日までは啓喜、夏月、八重子の繰り返しで進んでいた形式が、この後に白ページを挟んで佳道、大也視点が登場しだす。なのでどちらかというと2019年の元旦以降が新章の始まりといった感じ。

ここでこの元旦前と後で何が変わったかというと、夏月と佳道が夫婦になったということ。そして4カ月の醸成期間を経て、5月1日、令和初日を隔てて、彼らはひた隠しにしていた性癖を引っ提げて外に出始めて、そこからより多くの繋がりを求めてしまう。
その分岐点として、令和初日が描かれていたのかなと。

でももっと何かを象徴してる気がするんですけど…何なんでしょう?
元号時代の変わる象徴。昭和はヨカッタ。平成生まれは○○。何かと定義づけしたがる日本人独自の区切り

しかしこの区切りを境に劇的に意識改革するわけでもない。令和になったから多様性受け入れま~す!と全員がなるわけでもない。連続した日々が続いているだけ。つまり区切りと言いつつも所詮は「まやかし」

そこに、この本のテーマのひとつでもある「多様性」が重なる気がします。
この本では、現在の「多様性」という言葉の範囲の限界、結局その多様は”限定的な多様”に過ぎないということを教えてくれる。
つまり「多様性」の矛盾、欺瞞、「まやかし」

そのまやかし感を浮かび上がらせるために、この令和初日という基点を象徴的に使ったのかな?と思いましたが、どうでしょう?


ジュッ、多様性。

あのちゃん「ちゅ、多様性」をモジって「ジュッ、多様性」
ゲロチューを歌いたいだけで大して多様性は関係ないっていうねwww
でも紅白出場も噂されてる。「多様性」の威力よ!


多様性って、下手に触ると火傷🔥するよ!てな感じ、ちょっとありません?

火傷までとはいわなくても「なんか面倒くさそう…」ってのは割とある感想じゃないでしょうか?私も自分が興味あるもの以外には首を突っ込むのはやめておいた方がいいかな…という勝手な自己規制みたいなものがあります。
だから嫌悪感の有無に関わらず、案外「面倒」というのが多様性の理解を阻む大きな壁のような気がしないでもないです。

で、「多様性」と叫ばれる昨今ですが、それはあくまでも人間の「性」、男女の性から派生する性の多様性に限定されているわけです。LGBT+Qと言われる範疇のもの。

しかしこの小説ではその範疇外のところにスポットライトを当てて、読者に「そういう性のあり方」と社会との軋轢のようなものを物語にして教えてくれたところが斬新さというか、宣伝で見た「頭を殴られたような」「想像力の限界」というところに繋がってくるんだと思います。

でそんなLGBTQですが、まあなんとか有名どころは理解するように努めてはいる今日この頃です。
LGBTは勿論分かってますが、アセクシュアルは無性愛、パンセクシュアルは全性愛、ノンバイナリー(男女二元論の性でくくられない人)とかも一応は理解しているつもりだったのですが、今回、色々ググっているとなんか聞いたことないのが次々に出て来る。日々増殖しているというか、細分化しているというか、隙間にあるセクシュアルを意地でも定義づけようと頑張ってる人たちがいるのかと感心するほど。ホント不意に手を出すと火傷というか益々混乱していく状態。

ちょっと見かけたものを備忘録的に並べてみると…

アブロセクシュアル…
好きになる性が流動的であったり、変化したりするセクシュアリティを指します。 「今日の自分はヘテロセクシュアルだな」「今日はパンセクシュアルかもしれない」といったように、性的指向自体が変わることがあるセクシュアリティです。

これはセクシュアル・フルイド(性的対象の流動性)とは別なんですかね?違いがよくわかりません。
ちなみに「アブロ」はギリシャ語由来で「優美」「繊細」。

スコリオセクシュアル…
シスジェンダー男性/シスジェンダー女性以外しか好きにならないセクシュアリティを指します。

これはシス・ジェンダー(男なら自分が男だと自認して性対象が女性)しか好きにならない=普通にストレートのことじゃないの?と思ったら、ゲイの人でノンケしか好きにならない人なんかを指す言葉みたいですね。あ~あの報われない系のやつだ。たまに喰われちゃうノンケもいるけどw。
そうか、そういうのにも名前を付けていってるんですね。
「スコリオ」は「まがった」「ひねくれた」の意味だそう。

リスロマンティック(Lithromantic)…
アコイロマンティック(akoiromantic)やアプロマンティック(apromantic)とも呼ばれており、「相手に恋愛感情を持つが、その相手から恋愛感情を持ってもらうことを望まないセクシュアリティ」を意味します。

これって最近言われる「蛙化現象」を恋愛指向に落とし込んだものってかんじですかね?

これに近いんだけど、普通に友達としてなら楽しくて好意もあるんだけど、相手が急に恋愛対象としてグイグイ来だすと物凄く嫌悪感が湧いてくるってのは何ロマンティック?何現象なんでしょうか?
「ワテ、あんさんが思てるような人間やおまへん、勘弁してケロ~!🐸」ってなるやつ。イイ人ムーブしてたら勘違いされてこんなことになったり、昔はよくありました。

クワロマンティック…
自分が他者にいだく好意が恋愛感情か友情か判断できない/しない」ことと定義される。 相手に好意を感じているけれど、それが恋愛感情なのか友情なのか区別がつかない(区別したくない)、恋人になりたいのか親しい友人になりたいのか分からない(決めたくない)というもの。

私達、友達夫婦です!みたいな人たちがしっくりくる恋愛指向なんでしょうか?区別がつかないというのは分かるけど、区別を付けたくないとなるとそのあやふやなラインのままでそれ以上には進まないように細心の注意が必要なのか?セフレも友達だからSEXも含まれてOKなのか、ちょっと当事者の方に色々訊いてみたくなります。

○○ロマンテイックが頭の中でグルグルしていたら、
今田耕司の「ナウロマンティック」が脳内で流れ出しました(;^_^A。

ナウロマンティック=魚類系顔の人が恋愛対象ってことでどうでしょう?w

アッ、多様性に戻さないと!

で、この小説では「水」が性的対象である人たちが登場します。
そういう言葉があるのかとググってみましたが見つけられず。まだまだメジャーじゃないのか、作者の創作なのか、イマイチよくわからなかったのでモヤモヤ。実際にあるのならもっと詳しく知りたかった。

作中でも、イマイチそれがどういう感覚なのか想像するだけの材料というか描写が少なかった。なんとな~く「水」に関する動画を観ながらマスターベーションをしてるのかな?的な表現はあった気がするけど、直接的に身体的反応、つまり水しぶきを見て勃起するとか濡れるとかそういうことが書かれていなかった。なので「水」に対する興奮がどういうものなのか?一般的な性的興奮と同じ反応なのか、それとももっと想像したり、関連付けできない範疇のことなのか、その辺りを詳しく教えて欲しかった。まあ物語の本質はそこじゃないので私の好奇心の話なんですが…。

でも読みながらツッコみたかったのは、水しぶきぐらい蛇口壊さんでもいくらでも見る場所ぐらいない?ってのは思いましたよね。
家に庭があるならホースで水撒きすればいくらでも見れるし、学校のグラウンド水撒きの巨大ホースを使う係やらせてください!って先生に掛け合うとか(佳道は消防隊員が天職だったんじゃ?)、公園の噴水や水飲み場とか、海に行ったら昔の東映の映画のオープニングみたいな打ち付ける波しぶきとか、いくらでも供給できそうだけど、それじゃダメなのかなぁ~と。そんな小学生のYoutubeに頼まんでも自給自足、全然できるんじゃない?…って。

ついでに言うと、公園で同僚に出会っての言い訳が「ボランティア団体」ってのは下手過ぎる(物語的に下手じゃないと逮捕に至らないから仕方ないんですけどね)。
私なら、友達が素材として欲しいらしいので「キレイな水しぶきの動画を撮影中」って言いますね。だから人に入られちゃ困るんでお子さんを近づけないでくださいって遠ざける。大也の描写でも、人物が入るのは嫌だと書かれていたし、それならなおさら断固として画面に入ってくるのを断るべきだった。

ていうか、水見て性的興奮で勃起したりする可能性があるなら、絶対公園は選ばないかな。あれだけ悩んでた割に詰めが甘い。まあ同士を見つけた嬉しさでタガが外れてしまったということなんでしょうけど…。この辺りは脳内ツッコミが多くて、私的にはこの小説の残念というか、もう少しなんとかならんかったのかな?と思わざるを得ない部分でした。

でも「水」ってのは普通に性的なものですよね。
「濡れる」ってのは最も有名な性表現だし、「潮吹き」だってすっかりAV界隈ではメジャーになり、最近ではゲイAVでも見かけるほど。普通と言われる人たちも結構水には興奮してる。今村昌平の映画「赤い橋の下のぬるい水」なんかも「水」が性的なものとして描かれていたなと思い出したり…。
ゴールデン・シャワー(放尿プレイ)なんかも特殊ながら近いものとも言える。何か脳内の回路が微妙に違う繋がり方をしたら、全然あり得るだろうなとは思う分野です。

夏月と佳道、二人とも潮吹き体質になれればそこから上手いこと子作りとかに繋げたりできないものか?…なんて余計なお世話なことまで思考が巡ったり、二人が岩の上で、修が飛び込んで死んだのを想像した時、夏月は結構バカにしていたけど、飛込競技の飛沫に興奮すると言っていた夏月にとったら腹上死みたいなものじゃない?交通事故自殺や硫化水素自殺よりもどうして水への飛び込み自殺を選ばないんだ?東尋坊とか、落ちる恐怖と特大水しぶきの興奮のせめぎ合いだよ…なんて読みながら色んなこと考えちゃいました。←ホントどうでもいいこと考えてるなぁ(苦笑)

私自身はなかなか水への興奮の本質的な部分の理解はできないだろうけど、それでもお互いの興味のある対象物を比較しながら語ったりしたら、案外楽しい会話になったりしそうな気がしないでもない。小説だって自分の考えの外の世界を見せてくれたりして、それを想像するのを楽しんだり、知的好奇心を満たす作業だったりする。だから偏見さえ取っ払い、知的好奇心を持っている同士なら普通に楽しい会話は成立するような気がするけど…甘い考えですかね?

また多様性から離れてきたので、軌道修正して(;^_^A、

マーライオンのように人が嘔吐する様子に興奮する嘔吐フェチ、対象が何物かに丸呑みされる様子に興奮する丸呑みフェチ、時間停止・石化・凍結などにより人体が変化していく様子に興奮する状態異常/形状変化フェチ、風船そのものや風船を膨らましている人などに興奮する風船フェチ、ミイラのように拘束する・されることを好むマミフィケーションフェチ窒息フェチ腹部殴打フェチ流血フェチ真空パックフェチ…。

P.247-248

作中で大也がネットサーフィンで知っていった色々なフェチの種類が出てくる。

風船を膨らませるという描写や喩えが作中でしばしば使われていたので、朝井先生自身のフェチ?またはお気に入りのフェチなのかも…と想像w。

で、「水に対する性欲」に何かしら用語があるのかと探している時に見つけたこの「異常性愛」の一覧を観ていると、みんなどこかしらに属している人って案外多いだろうな~と。フェチって言葉で薄めてたりするけども。
(”異常性愛”という言い方はちょっと抵抗あります。せめて「特殊性愛」なりにできないものか…)

これは知ってるフェチだなというのから、こういうのもあるのか!と思うものまで、勉強になるので一度目を通してみることおススメです。


一覧で「アッ、これって作中でいっていたことじゃない?」というのもありました。

みんな本当は気づいているのではないだろうか。
自分はまともである、正解であると思える唯一の依り所が、”多数派でいる”ということの矛盾に。
三分の二を二回続けて選ぶ確率は九分の四であるように、”多数派にずっと立ち続ける”ことは立派な少数派であることに。

「正欲」P.324

ノーモフィリア 【普通への偏愛】
標準・規範・正常とされる状態への病的愛好。例えば慣習や信条・信仰、ルールへの服従。一神教的な伝統がソドミー(同性愛やアナルセックス)を処罰する等、特定の伝統・文化から見た「異常」を排除したがること(参考リンク)。

つまりいつも多数派=普通と言われる側に属していたい欲求。
ホモフォビアや家父長制にしがみつきたい人たちもこのカテゴリーに入るのかも?しかしこれは性的興奮を呼び起こすのだろうか?

あと面白いなと思ったのは
アラクネフィリア 【蜘蛛性愛】(Arachnephilia)
動物性愛からの派生なんだろうけど、こんな人いる?って思ったけど、スパイダーマンとか蜘蛛女とかを創作した人には多少はそういう傾向があるのかも?とは思える。

オフィディシズム 【爬虫類性愛】(Ophidicism)
これなんかは、よくヘビとか脱走してるニュースに出てくるハ虫類マニアの飼い主にいるかもな~と思ったり。ヘビ女なんかが好きな人は、ハ虫類フェチと丸呑みフェチの融合フェチという可能性もありそう。

「水」は無かったけど「火」はあった。
ピロフィリア 【火炎性愛】(Pyrophilia)
火事や放火に対しても対象。
放火犯とかも、もしかしたら性的興奮を得る為にやっている可能性もあるということですね。
性的な意味合いはないけど、水の流れを見続けられるように焚き火の揺らめきも眺め続けられる。あの惹き付けられる感じは分かる。毎週キャンプに行って焚き火見ていたい!!って欲求がある人はかなり近いところまで行ってるのかも。

作中でも載っていたコレはちゃんとあるんだ。
バルーン・フェティシズム 【風船性愛】(Balloon fetishism)
風船の膨張や弾力、破裂などが対象。
膨らました巨大キャラの中に入って飛び跳ねるアトラクションみたいなやつ、あれも風船の子宮の中に入ってるみたいで興奮するっていう人もいそうですよね。そういうケースもこの風船性愛になるのかな?

サイダロドロモフィリア 【列車性愛】(Siderodromophilia)
これは鉄オタの中にはこういう人もいるのかもしれない。機関車が動き出すと興奮して、汽笛が絶頂の声に聴こえる…みたいな?列車がトンネルに入る瞬間に興奮するとか。いや、決して普通のSEXを関連付けする必要はないのか…どうしても男性器、女性器、性行為に当てはめて考えしまう。

水も含む「物質」が対象の性愛は「対物性愛」と分類されるようです。
wikipixivの「対物性愛」項目ではエッフェル塔と結婚した人や、探偵ナイトスクープで車に恋した人、ジェットコースターが対象だった人が紹介されていたり、Yahoo知恵袋でも当事者の方からの質問が載っていて興味深い。人形と結婚した人もニュースになっていたような。

「フィクトセクシュアル」というのは結構有名かも。
フィクション、創作物のキャラに恋するってのは割と一般的というか、実際に行為まで至らないけど恋愛感情を持つフィクトロマンテイックは普通に多いだろうし、性的興奮はエロマンガなんかで普通に実証されてるわけだし。BLのオメガバースみたいなのも、ある種のフェチの部類に入る気がする。

あとググっていたこんな記事も興味深かったです。

「ルール34」なんてあるんですね。
カルビンとホッブスのポルノ絵をネットで見た人物が「インターネットルール34 どんなものでもポルノになる」と言ったことから始まって、ネット上のどんなものでも性的対象にできるということを指すんだそう。今では動詞化までしてるんだとか。シラナンダ。

この記事の続きのコチラも興味深かった。

乳児の割礼(包茎手術)時に医師が失敗してペニスを切り落としてしまった男の子を、性器形成手術とホルモン療法で女の子として育てたとき、その環境的影響で性自認、性指向は変えられるのか?

またはパプアニューギニアのザンビア族の少年達は精液を飲むことで力を得れると伝えられている。ある時期になると「男の家」に入って年長者の精液をフェラして飲む。年長者になると立場が逆転して飲んでもらう。その社会的影響で彼らはゲイになるのか?
なんてことが書かれています。興味ある方は是非ご一読を。

なんだか書きたかった多様性とは違う方向に行ってしまった気がするけど…、やはり多様性の深みというか広がりに目を向け始めると広大過ぎて、たとえ想像できたとしても追いつかない。下手に手を出すと火傷するまさに「ジュッ、多様性。」。それでも「知る」ことで知らないものや理解できないものを排除しようとする感覚は薄められたり無くせたりする気がします。その「知ること」「分かろうとすること」をやめないことが、私の出来る多様性への一歩かな?と。

八重子が大也との会話を求めて理解しようとしたこと、やはりその理解が広まれば、あの場面でも小児性愛ではないという主張も聞き入れられる可能性も生まれたかもしれない。ああいう濡れ衣を着させられない為に、やはりその扉は閉ざさない方がいいんじゃないかとは思うんですよね。難しいけど。関わらないでいて貰う方が楽なのも分かるけど。


本能 VS 人権

この小説を読んでいると、マイノリティである登場人物たちの対岸にいるマジョリティについて考えざるを得なくなる。

田吉と関わっていると、マジョリティというのは何かしら信念がある集団ではないのだと感じる。マジョリティ側に生まれ落ちたゆえ自分自身と向き合う機会は少なく、ただ自分がマジョリティであるということが唯一のアイデンティティとなる。そう考えると、特に信念がない人ほど”自分が正しいと思う形に他人を正そうとする行為”に行き着くというのは、むしろ自然の摂理なのかもしれない。

P.223

夏月や大也はこのマジョリティを悉く憎んでるような印象を受けたし、上記抜粋は佳道の感想。

「マジョリティというのは信念がある集団ではない」というのは、この場合、男女二元論で生殖活動して種を維持していこうとするマジョリティのことですよね。彼らが言う「正しい命の循環の中にいる人たち」
(循環ってのがイマイチピンとこないけど…。生物進化における一方通行の大きな流れじゃないんですかね?)
そりゃ信念なんてないでしょう。大抵の人は人類という種の生存戦略で脳に刻み込んできた本能でやってるんだから。

過酷な原始、石器時代なんかは群れることで人類は生き延びてきた。それほど人類は単独だと弱い生き物。最近多いクマ被害でも簡単に殺されてしまう。不安や寂しいという感情も、この群れさせるために発生した感情なのかなとも思う。クマなんて子育ての為に母熊と小熊は群れてるけど基本単独行動。群れなくても生きていける存在だから不安とか寂しいとかの感情はない気がする。一方犬なんかは群れをつくる動物だから寂しそうにしたりするし。

そして群れたら群れたで、群れの維持が大事になってくる。そのために対外的には脅威となる別の群れは排除しようとしたり、取り込んで自分の群れをより強化しようとする。
内部においてもマイナス因子となりうるものは排除しようとする。群れの維持に寄与しない存在、つまり生殖不能者や食料分配の枷になる病人、老人など。

ー桐生さんは好きな人いないの?
ー桐生さんはどうなの?
ーあなたの中には何があるの?
昔からずっとそうだ。私はこんな秘密を明かしたよ、だからあなたも秘密をちょうだい。そうじゃないとフェアじゃないでしょう。そんな風に、欲しくもない情報をいきなり突き付けてきたくせに、見返りを求める人ばかりだ。相手の奥底を覗きに来る人ばかりだ。

P.146

夏月がとことん嫌悪していた沙保里による秘密のフェアトレード。私の秘密を教えるからあなたの秘密も教えてねっていうのも、群れを維持するためにマイナス因子を炙り出す、ある意味必要な作業の名残なのかもしれない。

あと、群れたい、マジョリティに属して安心したいという感覚がありつつ、一方で、その群れの中でより優位に立ちたい、特別な存在=マイノリティになりたいという欲望も生まれる。どっちになりたいんじゃい!っていう変な矛盾だけど、やはりコレもより生き延びるための生存戦略。そういう立場になれれば、より生き延びやすくなっていたわけだから。だからマジョリティに属していない状態のマイノリティにはなりたくない。生存本能的には危機的状態になるだけだから。

人類誕生から260万年だそう。新生人類の前の類人猿、原始人も含め、それだけの期間かけて脳を発達させていき、生存戦略のための本能として刻み込んできた。

しかしここで人権意識というのが出てきた。
全ての人間に平等な生存権と自由があるという考え。
これは「世界人権宣言」が1948年に国連総会で採択されたので、まだ100年にも満たない。それ以前のワイマール憲法とか、人権意識の醸成期間でもたった数百年しかない。

この人権意識は、260万年かけて脳に刻み込んできた本能、マジョリティ強化&マイノリティ排除の流れとは相いれない部分がある。
だから頭では理解できる「人権」だけど、脳に刻み込まれた本能が悉く邪魔する。そして、その本能を元に構築してきた社会の枠組みも障害になっている。

260万年 VS 100年足らず。そりゃあ、中々厳しい戦いだし、まだ始まったばかり。傷つき亡くなっていくマイノリティの人たちは、その闘争の戦死者。
(人権宣言前までは戦うことも許されなかった一方的な虐殺被害者)

人権尊重の為に抑制すべき本能をしっかり共通認識化すること、
法律や社会の枠組みをマジョリティ維持のものから、全ての人権を掬えるものに再構築していくこと。
変化しだしたら早いかもしれないけど、それでも数百年は要する気はします。


ホモソーシャルの呪い

男女二元論の”性マジョリティ”が形成した社会の枠組みが家父長制
マジョリティ内の男性と女性で闘争があったとみるより、身体的優位性(腕力)によって男が女を従属物として組み込んで行ったんだと想像できます。

で、佳道が語るこれらの言葉。

男は集団になればなるほど、より”男”になる。男であることから降りるなんて許さないという視線が、お互いを牽制すべく巧みに行き交うようになる。

P.241

映画やドラマでは若い女子同士の関係を陰湿に描くものも多いが、二十歳を越えても異物を排除する力が強いのは圧倒的に男子の方だ。男は、男であることから降りようとする男を許さない。嫌うでもなくハブるでもなく、許さないのだ。

P.244

ホモソーシャルは家父長制を構築する男同士の緊密な絆
そのメンバー構成員が多いほど強固になり権勢を誇れるわけだから「男であることを降りることは許さない」。そして「二十歳を超えても」というのも、大人の男性の方が正式な構成員なので、より強く、深く繋がることを求めるからだろう。

女性はホモソーシャルの絆を強めるための媒体
作中で”女性器に見えるジャムパン”の話があったけど、あれこそ典型的な男連帯の絆を強める確認作業。ちゃんと女に欲情する=正常な生殖本能がありますよアピール。こんなことにも欲情する=強い性欲がありますよアピール、つまり家父長制の正当で優秀な構成員アピール。

といっても、男性だけじゃなく女性もセックスの話はしてる、と夏月や佳道は言っていた。

「なんか人間って、ずっとセックスの話してるよね」
中略
そして他人のその部分を、とにかく覗き込もうとしてくる。奥底に何があるのかを確かめたくてたまらないように。
中略
確かめ合ってる感じ。
そう言いながら佳道は、この表現にやけに納得した。
思えば皆ずっと、何かを確かめるように尋ねてきた。
中略
皆いつも、何かを確かめるように尋ねては、自分は正しいと、すなわち多数派だと確信させてくれる誰かと笑い合っていた。

P.318-320

そう、確かめ合ってる。自分がちゃんとセックスできて、ちゃんと家父長制を維持できる構成員の資格があるか不安だから。または性マジョリティ―を崩壊させかねない異物かどうかを確認したいから。異物だったら排除しないといけないと思っているから。
沙保里のように妊娠へのプレッシャーも、本能で妊娠したいというより、この家父長制の従属構成員としてプレッシャーを感じているからだと思う。とにかく皆、この家父長制構成員のマジョリティに留まりたい、認めて貰いたい。そういう風に長年刷り込まれてきた。この呪いの強大さが半端ない。

しかしこれまた家父長制は「人権」というものと相性が悪い。
女性が男性の従属物という時点で平等な人権が無い。
だから女性の「人権」獲得、奪還運動としてフェミニズム運動が起こる。

そして昨今、男性構成員の方にも「人権」意識が芽生えてきているので、家父長制を維持することの意識の齟齬に悩んだり、圧力に苦しんだり、構成員でいることに耐えられなくて脱退したい人たちも出てきた。
しかし他の家父長制構成員は許さない。弱体化すると自分たちのアイデンティティ崩壊に繋がるから。

現在の社会は建前としては「人権」を掲げるけど、家父長制社会としては「人権」なんて邪魔でしかない。その社会の欺瞞にウンザリしている人々が引きこもってしまったり、現実逃避の為に宗教、アイドル、ホストにハマったり、オタクなどの趣味にのめりこんだり、時には絶望して命を絶ったり…。この辺りが日本の生き辛さの病巣のような気がします。

「人権」の為に戦いたい人もいっぱいいるだろうけど、なんせ国の中枢の力を持っている強大な層が、政治的だったり、時にはメディアも使って世論操作もしつつ、あれやこれやの手を使って家父長制を維持しようとしてるわけで、声を上げても頭おかしい扱いを受けるようなハードルの高い戦いをしたいと思えない状況。それが日本の閉塞感。

つまり佳道がいう「正しい命の循環の中にいる人たち」でさえ苦しんでいる状況。八重子なんかはその代表。ミスコンみたいな女性品評会もホモソーシャルの呪いだし、八重子の兄の引きこもりもホモソーシャルのプレッシャーに耐え切れなかったから。兄の性欲への強烈な嫌悪感もホモソーシャルの媒介物として扱われることの抵抗感と繋がるのかもしれない。

「人権」意識のない、または低い、鈍感な人間ほど生きやすく、人権意識が芽生えている人ほどホモソーシャルの呪いに苦しむようになっている。

大也と八重子が最後に言い合っていたけど、家父長制に組み込まれた異性愛従属者と枠外の特殊性愛者で生き辛さ合戦、交わることの無いポジショントーク、その視点のままではなかなか理解はしにくいと思う。
それなら「人権をないがしろにされてる者同士」という視点にフォーカスしたら、もっと共感できたり、取り組むべきことが見えて来たりしそうなのにな、と思ったり…。

まあそれも誰かと繋がったり、誰かの意見、本なんかと繋がったり、繋がることで「気付き」が生まれるので、八重子の会話しようよ!って意見も分かるし、大也のとりあえず仲間から繋がることも一歩だと思う。閉塞感に包まれて停滞することが一番の悪手でしょうか。


未来の性

登場人物がこんなことを言っていた。

性的対象は、ただそれだけの話ではない。根だ。思考の根、哲学の根、人間関係の根、世界の見つめ方の根。遡れば、生涯の全ての源にある。そのことに多数派の人間は気づかない。気づかないでいられる幸福にも気づかない。

P.186

確かに根源的なものだとは思うし、家父長制という社会にはその根がビッシリ張り巡らされていると思う。

「なんか人間って、ずっとセックスの話してるよね」
と夏月も言っていたし、最初の序文、佳道の思いを綴った文章でも、

世の中に溢れている情報はほぼすべて、小さな河川が合流を繰り返しながら大きな海を成すように、この世界全体はいつの間にか設定している大きなゴールへと収斂されていくことに。
その”大きなゴール”というものは端的に表現すると、「明日死なないこと」です。

P.4

「明日死なないこと」とは、この張り巡らされた「根」で構築されている世界で生き抜くこと。例え自分は死んでも、人類という種が”明日死なないこと”=次の命を紡いでいくこと=「性」に繋がっていく。

八重子の目には相変わらず、世の中を構成する最小単位は恋愛感情で繋がっている異性同士の二人組であるように見えていた。その単位を元に家族を始めとする様々な制度が構築されているし、まずその単位になることを目的に走れと様々な方向から促され続けていると感じていた。

P.162-163

これも全ての事象が男女異性間SEXに収斂していく感じ。

マドンナが「I’m living in the material world ♪」って歌ってましたが、
実は「I'm living in the SEX world ♪」だったんだなと…。

だけども、先述した通り「人権意識」ってのが現れた。
ここまでSEX Worldを構築するように進化してきた人間の脳だけど、人権意識の登場でSEXだけ優先していていい状態ではなくなってしまった。

もちろん性欲と人権意識は両立できるけど、人権意識を持っていながらそれが踏み躙られている状態、つまり希望があるのに潰される=絶望状態においては、やはり性欲、子孫を繋ぐ意欲は減退するように思う。日本の出生率が下がっているのは、経済的要因もあるけど絶望感が大きいからだと思うのです。

そうなると今後、人間の脳はどういう方向に発達するんだろうか?

佳道がマジョリティ側の視点で考えた時に出てきた感想、

まともって、不安なんだ。佳道は思う。正解の中にいるって、怖いんだ

P.325

同調圧力に晒されていない幸せ
現在、まともとされる家父長制の崩壊は近づいてきていると思う。佳道みたいな気付きのある人も増えてきているし、生き辛さの原因を家父長制所以だと考える私みたいな人も増えてきている。
そうなるとSEX World、全てがSEXに帰結する社会の崩壊もあるような気がします。

ここで考えの変化が脳自体にに変化をもたらし、より性欲の減退→人工生殖技術の確立に繋がるのか、
はたまた、技術が先に進んで、人工生殖技術の確立→無理して性欲にこだわらなくても繁殖できる世界。つまり生殖できるマジョリティが優秀という概念がなくなり、水に興奮しようが何に興奮しようが関係ない、性欲と繁殖が切り離された世界が訪れる。そこでは性の優劣はなく、より平等に、全ての多様性万歳!!…にはなりませんかねぇ?まあそんな単純にはいかないだろうけど。でも性指向、性嗜好の優劣性みたいな意識は確実に変化すると思うんです。杉田水脈議員みたいな「生産性」うんぬんみたいな意見は意味をなさなくなりますし。

iPS細胞で男から卵子細胞が作れたり、女から精子細胞が作れたりできるようになるのももうすぐ。マウスでは既に成功したと記事になっていました。

あとはサロゲートではなく、人工子宮で受精卵を育てる技術が確立できれば、女性も妊娠から解放される。
勿論妊娠したい女性は引き続きいるだろうけど、リスクを考えて人工生殖を選ぶ人も増えてくるだろうし、不妊カップルはもちろん、同性愛カップル、佳道と夏月のようなある種の無性愛カップルにも子供を持つ選択肢が出来る。いつでもできる状態にあるなら、子無し、子有りみたいな偏見差別も無くなる。

人工生殖が出来るなら、完全避妊も進む気がする。妊娠しないといけないと思っているからそこを追及できなかった。でも女性が妊娠する必要がないなら、完全避妊薬や子宮の動きを完全に止める技術も進むのでは?そうすれば生理に悩むことも無くなる世界が来るかもしれない。そして何万年後には子宮の機能自体が退化して、妊娠自体出来ない生命になってしまうかも?

性欲と繁殖が切り離されたら、あとはセックスは純粋に楽しむものに付き進む。SEXドールの進化版で、好きな有名人の身体情報を3Dスキャナーで読み取り販売、それを再現できるもの(パーマンのコピーロボットみたいな感じ)が登場したら、老若男女いつだって好きな相手とセックス(というか人形使ったマスターベーション)できるようになる。この顔にこの体とか、自分がその時エロいと思う最高の相手、性器も自分好みにチューニング、そんなことになったら現実の人間は敵わなくなってくる。結婚もsex抜きで純粋に心のパートナーとだけになる?家父長制は完全に形を変えるでしょうね。

童貞率や処女率が上がり、出生率がさがる一方で、ポルノサイトへのアクセス数は爆上がりな現在。性欲は誰かと一緒に満たす良さも勿論あるけど、自分勝手に好きなことをしたい個人的な欲望の面も強いんだと思う。
食欲だってパートナーと同じものを同じタイミングで食べたいとは限らない。昔は一日の食べる物にも苦労したから家族で一緒のものを分けて食べるしかなかったけど、飽食の時代の現在は皆好きなものを食べれるし食べてる。性欲だってより自由になれば、より自分本位になっていく気がします。

つまり何が言いたいかというと、未来の性への変化と共に、脳の変化、社会の変化も確実に起こり、性を基軸とする多様性、それ以外の多様性への考え方、あり方もガラッと変わっていくだろうな~と。

まあそんなこと言っても、今を生きてるマイノリティにとっては、そんな未来を待ってられないんだよッ!!ってなるでしょうけど。

佳道が大也に送ったメッセージ。

「どうせこの世界で生きていくしかないんだから、少しでも生きやすくなるように、同じ状況の人ともっと繋がってみたくなったんです。」

P.294

とりあえず今は昔はできなかった同じ趣味嗜好、考えを持つ人と繋がり易くはなった。その繋がりから、慰めを得て、自己肯定感を得て、家父長制解体へ協力しながら、生きていくのがマイノリティの生存戦略となるでしょうか?


マイノリティの敵

繋がることで自己肯定感を得て、人権も”一応”保障されてるなかで、自由に生きようとするマイノリティの一番の敵はマジョリティからの同調圧力と異端の排除撲滅活動だと思うんです。

まとも。普通。一般的。常識的。自分はそちら側にいると思っている人はどうして、対岸にいると判断した人生きる道を狭めようとするのだろうか。多数の人間がいる岸にいるということ自体が、その人にとっての最大の、そして唯一のアイデンティティだからだろうか。だけど誰もが、昨日から見た対岸で目覚める可能性がある。まとも側にいた昨日の自分が禁じた項目に、今日の自分が苦しめられる可能性がある。
自分とは違う人が生きやすくなる世界とはつまり、明日の自分が生きやすくなる世界でもあるのに。

P.282

あくまでも自分は導く側にいるのだという意識に、吐き気がする

P.93

社会とは、本当によくできている。
誰が命令しなくとも、まとも側の岸にいる人は、その岸の治安を守ろうとする。まともである。すなわち多数派であることに執着する者は、異物を見つけ出し排除する活動に、誰から頼まれなくとも勝手に勤しむ

P.318

「いちばんすきな花」ってドラマが今やっていますが、あれも4人の主人公の生き辛さに焦点を当てたドラマだと思います。家父長制の枠組みの矛盾からくる違和感、家父長制が期待する構成員要件への違和感、同調圧力と異物排除活動への嫌悪感、もう世の中生き辛さだらけ~!!って話。

その4人が、言い方悪いけど傷をなめ合ってる会話劇を楽しむドラマ…なのか、今後違う展開をしていくのか、とりあえず生き辛さを世間に知らしめ認知、共感してもらうことが目的だと思うので、そういう意味では意義のあるドラマだと思って観ています。

でも話題の割に視聴率はあんまりだという記事もあった。
そりゃそうだと思う。世のマジョリティは家父長制、異性間生殖優先主義にいるんだから、その違和感を感じてないからマジョリティなわけで、このドラマの主人公たちのような違和感感じる人が多くいるならそっちがマジョリティになり、そもそもマイノリティの苦しさの話として成立しない。大いなる矛盾が存在しているんだから視聴率には繋がらないよねと。

でも共感する~、泣ける~って声もXを観ているとズラ~っと並ぶ。
これはどういうことなんだろう?と。
まず完全な家父長制(性、生殖に収斂する社会)の構成員は理解できないから観ない。
次に家父長制への不満がある層、女性を中心に、プレッシャーを感じる男性も、が自分に関連付けできる部分で共感している。
しかし彼らもまた、家父長制の枠組み自体にまで意識が行っていないから、構成員として、時と場合により、異物を見つけ出し排除する活動に、誰から頼まれなくとも勝手に勤しむこともしているはずのマジョリティなんですよね。自分が傷ついた時は被害者マイノリティ側になるんだけど、家父長制の呪いに操られて加害者にもなってるから生き辛い世界が続いてる。そこに気付かないと、不毛な傷つけあいと傷のなめ合いが延々と続くだけ。

つくづく最近の日本って感情論が蔓延ってるなと思う。
傷ついた~癒された~、その感情だけで思考停止。
なぜ傷ついたのか?なぜ癒しが欲しいのか?その原因を探ったり分析したり、その違和感の正体、生き辛さの根源悪は何か?みたいなところまで思考を巡らせてるのか疑問に感じることが多い。こういう思考停止がちな人が多いのも、家父長制を強化継続するために都合がいいから、そういう風に誘導されてきた結果だと思うんですよね。ジャニーズ問題とかのメディア姿勢を見ていると、権力者たちが自分たちの都合で偏向報道ガンガンしてる実態が顕著になったし、そう思うと日本のディストピア度は結構高い。

話し戻して、
とりあえず仲間と”繋がる”ことで自己肯定感も得られるし、同調圧力から気を逸らすこと、傷ついても癒し合うことはできる。
作中も人とのつながりが線となり、それが重なり網になる…的なことを言っていた。セーフティネットを作れるということかなと。

しかし厄介なのはガッツリ攻撃=排除活動をしてこられた時でしょうか?

佳道たちが仲間として「パーティ」を組む意味で名付けたトークグループ名「パーティ」
それが田吉によると、小児性愛者の撮影会をしていた犯罪グループ名が「パーティ」だという認識になり、乱交パーティさながらの侮蔑を含んで不謹慎な連中が盛り上がる会なんてけしからん!と、排除活動の格好の餌にされてしまった。

夏月が人の妊娠の話をしていたのを勘違いして攻撃してきた沙保里もしかり、
この人たちにとっては真実なんかどうでも良くて、異物排除活動こそ正義。
これが一番煩わしくて、かつ人生を破壊されるかもしれない脅威。

どう対処するのがいいんでしょうね?
大元の家父長制がぶっ壊れればいいんですけど、そんな簡単に壊せない。

啓喜が会いに行った窃盗癖の女性についた弁護士のように、
物への性愛を理解しようとした啓喜の部下・越川のように、
マジョリティの枠の外へ想いを馳せてくれる人を増やすこと、そのためには面倒でもいろんな人と”繋がる”こと、繋がってセーフティネットを広げること、マジョリティ側に味方を作ること、家父長制の価値観を内部から変容させていくことが、最大の予防策であり攻撃になるのかも知れません。

冒頭の佳道の言葉
自分とは違う人が生きやすくなる世界とはつまり、明日の自分が生きやすくなる世界でもあるのに」

「情けは人の為ならず」自分の感だけでなく、他者の感に想いを馳せてみる、そういう情けをもっておくだけでも、それは巡り巡って自分のこととして返ってくる気がします。

多様性の項目で色んな「異常性癖」のリストを見ましたが、マジョリティの中の正常性癖と思っている人も、癖とまでは言わなくとも傾向ぐらいはあるはず。それが時代の価値観の変化でいつ異常扱いにされるかもわからない。いろんな可能性のセイフティネットをひろげておくこと、大事ですね。


ラインを越えた側の人権

なんよそれ。意味わからん。まじウケる。でもキチガイは迷惑じゃなあ。

P.148

佳道たちは結局、半裸の子供を撮影してしまった事実があったので逮捕され起訴されてしまった。その本意がどこにあろうとも撮ったのは事実だからと。

これは別に性的マイノリティ関係なく、マジョリティと思っている側の人間も慎重に行動しておかないといつ巻き込まれるかわからない怖さを示唆していた。
「誰もが、昨日から見た対岸で目覚める可能性がある
と佳道が言っていたように。

ネットで知り合った人と家族ぐるみでオフ会キャンプをしたときに川遊びする子供の半裸を撮影していた。後日、その人物が小児性愛者で捕まったとしたら、自分も既婚、子供がいるからと言って無罪になるのか?もし自分が独身だったら?周りに悪意がある人物がいて「あいつは怪しかった、あいつならやりそう」なんて言われたら、佳道と同じような結果になりうるのかも?

あと自分の子供を登場させてるYoutuberも見かけるが、変なリクエストに応えて半裸にさせたりした場合、今でこそスルーされているけど、ニルヴァーナのCDジャケットの全裸の赤ちゃんが大人になって訴えた件のように、将来的に自分を小児性愛者に売った親のレッテルを貼られるかもしれない。

この小説、途中まで大也は小児性愛なのかな?と思いながら読んでました。
それほど「水性愛者」は単に一例に過ぎなくて、社会の枠の外のマイノリティに置き換えて考えられる部分が多くある。

そこで小児性愛について考えた時、彼らにも勿論「人権」はある。

私も旧ジャニーズ問題なんかを通して、小児性愛は唾棄すべきものだと条件反射的に嫌悪してきました。

勿論、小児性愛者による犯罪は子供の、他の人間の人権侵害になるから罰せられて当然ではある。甚大なトラウマも与えることになるし。だから現状、手に掛けなくても画像、動画を持っているだけでも罪に問われる。その裏にそれを録って性的搾取している人物も出てくるし、それを抑止するためにも徹底的に禁止する必要があるから。

では全て自分で処理、完結できる小児性愛者は?
想像だけで満足できる人、自分でイラスト描いて(今ならAI生成画像でもいい)興奮して性欲を処理して、現実世界の子供には一切関わらないようにしっかり線引きしている人はどうなんだろう?普通と言われる異性愛者も視姦してるようなヤバイ妄想してる人間は男女問わずいるだろうし、そこで止められているなら”一応”問題ないことになっている。
技術が進むと画像だけじゃなく動画も作れるだろうし、それこそ想像するのに抵抗あるけど…子供型のSEXドールは?それで満足できてるなら、許すべき…というか嫌悪感以外に禁止すべき理由はあるのだろうか?

ダメだといっても矯正できるわけではないんだから、もっと誰の人権も侵害しない方法を積極的に模索する方向に向けられないものだろうか?

勿論、その許可された範囲を超えて現実世界との境界がわからなくなって犯罪を犯す人物は出てくる可能性もあるけど、それは普通と言われる異性愛でも起こりうること。必要悪として売春や風俗を設けるような、小児性愛者の性を制御する対策を考慮せず、排除一点なのは、彼らの人権をないものにしているのではないだろうか?

ただ小児性愛者による犯罪は性欲だけではない「支配欲」が大きく関わっていると、旧ジャニーズ問題を観ている中で学びました。
実際に射精には至らず、辱めを与えて支配することで満足するパターンもあるという。ジャニー喜多川だって合宿所の男の子たちを寝室で軒並み喰って、その都度射精していたわけではないのは想像に難くない。

小児性愛だけじゃなく、たぶん大半の性犯罪はこの「支配欲」を満たして興奮、高揚する行為なんじゃないかと思う。これは上記した代替品で満たすのは難しいような気がする。そういうプレーで満足できるならいいけど、そもそもそれが支配欲から来ていると認識していないだろうから、他の方法を思いつかない。

ではこの「異常な支配欲」はどこから来るのか?
性犯罪者の連鎖、性被害を受けた子供が性加害者になる確率が高いという話などから、幼少期に他者に尊厳を奪われた人物は、その尊厳を取り戻すために他人の尊厳を奪うことで満たそうとする、それが性犯罪者の動機の根源かな?と思うんです。ジャニーも幼少期に性被害にあっていたという話もあったし。

そして性犯罪だけじゃなく、パワハラ、モラハラのような他人を強権的に支配しようとするマインドも、幼少期にそういう支配を受けた裏返し。負の連鎖で、大人になった時に他者にしている場合が非常に多いように思います。

でもそんなことで自分の尊厳は満たされません。逆に自己嫌悪からより悪化する可能性もある。しかし自分がそういう形で奪われたから、正しい尊厳の奪還方法を知らない。この負の無間地獄。

性犯罪の発生を防ぐためには、プロによる被害者ケアが何より必要だと思う。セカンドレイプになるからと触れないことはやっぱり正解ではなく、ちゃんとしたプロのケアを得ること、そこから自尊心の回復を行わないと、被害者の内側で自尊心を求める飢餓状態が広がり、性犯罪だけではなく、色々な形の病的な現象として(トラウマからくる鬱などの病的症状、窃盗癖とか過食とか)後々表出してくる可能性がある。

三大欲求、食欲、睡眠欲、性欲。
それをもっとコントロールする技術、テクニックを学ぶことって大事だと思う。欲の研究。欲の分析。
空腹でないのに食べたい衝動があるとか、自分の性癖は支配欲が含まれている気がするとか、そういうことをもっと専門家にはオープンに、そしてフラットに話していくことで、それはどこから来るのか?という根本治療に向かいやすくなるはず。

尊厳回復治療で、支配欲を満たす性犯罪やパワハラ、そういったものが抑止されたら、支配欲からではない純粋な小児性愛者が明確になり、彼らの欲求に対しても、ただただ嫌悪するのではなく、もっと違う見方やアプローチが出来るような気がします。

全ての人間の人権尊重を目指すなら、そこは無視して切り捨てるんじゃなくて、むしろ取り組むべきことのような気がします。


感想

この本の前に読んだ本が、本筋から脱線して「それ要る?」っていう知識自慢みたいなのが度々繰り返される本で、とにかく読み進めるストレスが酷かった。その後だったので非常に読みやすく、無駄も特になく、構成も一工夫、二工夫してあったし、かといって難解すぎず、日々感じる不満みたいなものも上手に言語化してくれているので、「そうそう」と思える部分も多かった。

時代のキーワード

啓喜の息子が「不登校児Youtuber」を目指そうとするのは「ゆたぼん」を、八重子のダイバーシティ・フェスの目玉「おじさんだって恋したい」のプロデューサー招聘。これは「おっさんずラブ」。さらには「無敵の人」とか、時代のキーワードを散りばめて、読者と作品の距離感を近づける手法。
序盤は流行りものに乗っかってるだけか?…とは思ったけど、ちゃんとその流行りの事象を登場人物のいくつかの視点で捉えている内容だったので、なるほどな~と納得感はちゃんとありました。

揺らぎ

啓喜は検事として社会正義のために戦っている。
しかし「正義」とはよく立場によって変わるものだとも言われる。
絶対的正義なんてない…と。
あくまでも社会という枠組みを維持するための「正義」であって、その枠からはみ出たものに対しての適用は不得手だったりする。

一方「多様性」もまるで正義の新ワードのように使われるけど、大也達にとっては全く多様性のない欺瞞に満ちた言葉だと映っている。
多様なだけに一枚岩になりにくかったり、相互理解が実はできていなかったり、案外ブレブレ、脆弱な面も有る。

そういう意味で「正義」と「多様性」という揺らぎやすいものを絡めた着眼点は非常に興味深いというか、本来同根のものなのかもしれないなと、色々考えさせられるテーマだな~と思いました。

登場人物の造形も、理解、共感できる部分と、この考え方、言い様は嫌だな…と思う部分と絶妙に混在している、ある意味リアルなキャラばかり。最終的に誰も好きにはなれなかった(;^_^A。
視点、状況、時間経過によって好き嫌いが揺らぐキャラ造形も巧妙だったと思います。

****

ただ性的対象が「水」だったこと、
そして誰にでも起こりうる怖さを示唆するためとはいえ、あんな捕まり方…雑じゃない?もうちょっとヤバさ漂う性癖で、もうちょっと緻密な計画の隙を突く様な捕まり方にして欲しかった感はある。
大きなテーマの割にその部分が弱いというか、納得感がイマイチというか、拍子抜け感はありました。

ということで、勝手な私的評価は…
☆8/10 です。いや8.5でもイイかな。

読み進めることが楽しい読書体験、
そして色々なところに考えを広がらせてくれた。
面白かったのは間違いないです。朝井リョウ氏に感謝。



オマケ


ココからは気になる言葉、文章をメモしたものの羅列です。


「どんって、私の上に落ちてきてほしいの」
体験してわかること、生まれる感情、ってあるよね。

「いなくならないで」
「いなくならないから、って、伝えてください」
繋がって出来たセーフティネット
自殺防止ホットラインなんかも繋がれたと思えた人は止めるだろうけど、繋がれたと思えなかったら、たとえ電話が繋がろうとも意味はないんでしょうね。

顔面の肉は重力に負けていった
絶望、諦念は老化を早める気がする…

テレビの中では、家庭を持った途端そのプロフィールを引っ提げてコメンテーターをやるようになったお笑い芸人たちが、「後輩にもこういう感じの人たち、すごく増えてます」「時代は変わったなて思いますよね」などと、攻撃されることを意識するあまり結局どこにも届かない発言に終始している。

ホントこれ。無難コメントコンテストみたいになってる時ある。

社会的な繋がりとは、つまり抑止力であると。法律で定められた一線を越えてしまいそうになる人間を、何らかの形でその線内に留めてくれる力になり得ると。

P.125

繋がりが抑止力だと言うと「監視のし合い」みたいでちょっと嫌かも。
夏月と佳道みたいにセーフティネットという感じになって欲しいかな。

人間は思考を放棄したときによく「こんなときだからこそ」と言うんだよなと思った。

P.131

「どんなときだからだよ!」って心の中でツッコみ入れてるやつね。

嫌いになりたくない人のことも、嫌いになっていった。遠ざかってほしくないものも、自ら遠ざけていかないと心身が保たなかった。

P.155

わかる。悪い人じゃないのは分かるけど、無意識に人の人権を侵害してくる人、距離取らないとドンドン首締まっていく感じになる。

自分だけかもしれない。きっと自分だけだ。そんな思いは、いつだって人の口を閉ざす。

P.163

性被害者が口を閉ざす心理のひとつだったり、見て見ぬ振りする時の心理だったり…。

急に怒り出す人の隣には、大抵、いる。そこにある種にせっせと農薬たっぷりの肥料をやり、わざわざ新種の花を咲かせるような人間が。
(中略)
自分の暇を埋めるためには思い付きで誰かの感情を引っ搔き回してもみてもいいと思っていること。社会の多数派から零れ落ちることによる自滅的な思考や苦しみに鈍感でいられること。鈍感さは重さだ。鈍さからくる無邪気は、重い邪気だ。

P.185

いるいるこういう邪悪なヤツ…とも思うし、無自覚に自分も加担している可能性もあるのでは?と自戒したり。「鈍感さ」は罪。

多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉はずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合の悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。

P.188

「時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど」の場合もあるけど、一方でこの本のように想像力の壁をぶっ潰し、目を大きく開かせてくれる、そんな場合もあると思う。そして、それに対する好奇心も呼び起こしてくれる。
好奇心は理解への第一歩。そう思えたなら、多様性は美しい言葉でもある気がするんだけど…。

いつしか、幸福よりも不幸のほうが居心地が良くなってしまった。はじめから何も与えられず、何を手に入れられるかや何を失うかで思い悩まなくていい状態に、すっかり慣れてしまった。

P.228

奴隷根性ってやつですかね?飼い慣れされた日本国民みたいな感じだなと思ってしまった…。

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