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映画「エゴイスト」のエゴイスティックな感想

感想、になるのか?上手くまとめられない気がするけど、とにかく思ったことをツラツラと書いてみます。

原作本もパンフレットも読んでません。映画観ただけの感想です。
ゲイムービーは「モーリス」「アナカン」時代からまあまあ見ている方だと思います。

ちょっと前に観終わってからもいろいろ反芻して考えたり、今読んでいる本から影響受けて再考したりしているので、まとまりなく長い文章になっています。
一個人の思考の軌跡揺らぎだと思ってお読みください。


揺れるカメラ

観に行く前に読んだレビューで、画面が揺れて酔いそうになる、と書かれていた。そんなことすっかり忘れて前の方の座席に座ったもんだから、開始1分で、アッ、このことか!となり、この席、ちょと失敗したな…。。。_| ̄|○となった。

確かにあの延々と続く手ブレ画面はちょっとキツカッタ。
しかし、制作陣は素人ではないわけで、そこに何らかの意図があるはず。それは何だろう?🤔と考えてみる。

どんなにハイブランドの鎧を着ていても、終始揺らいでいる、自信のない、浩輔の心の不安定さを表しているのかな?

ちあきなおみの歌詞にあった燃える恋ほど脆い恋」
浩輔と龍太、浩輔と龍太の母・妙子、婚姻届を出せないゲイカップルの関係、映画に出てくる人達の関係、みんな”気持ち”というあやふやで移ろいやすいもので繋がってるばかりで、脆い関係に見える。そういう不安定で絶えず揺らいでいることを表す演出だったのだろうか?

寄るカメラ

あと、ものすごく”人物の寄り”の画面も多い。
自分が彼らの半径1mぐらいのところで、ず~っと覗き見させられてるかのような錯覚を覚える。

鈴木亮平の、ピアス跡、吹き出物の跡、眉毛の濃さ、肩の筋肉、爪の形。
宮沢氷魚の、虹彩の色、うなじの毛の流れ、肌の白さ、紅潮した頬の色。
彼らの匂い、体温まで伝わってくるかのようだった。

あのアップの多い画面の意図は何だったんだろう?🤔
彼らに近づき、息遣いまで聞こえそうな距離で、生きている人間、生身の人間だと、しっかり観客に体温まで感じて貰いたかったのか?
そうすることで、同性愛=他人事ではなく、同じ”人間事”だと思って欲しかったのだろうか?

それとも、エゴイスティックな愛近視眼的になってる愛、俯瞰して考えたりできなくなってしまう、ただ目の前の存在に夢中、一生懸命、そんなエゴイストの視点を表現したかったのか?

穿った見方をすると、たぶん予算的にはそれほど潤沢ではない。人物以外をぼかすことで、小道具を用意したり、いろいろ映り込む権利関係の問題も解決しようとしたのかも?

もしくは、役者の体を使った演技の未熟さを誤魔化す効果もあったのかも?鈴木亮平はさておき、宮沢氷魚も阿川佐和子も演技者としてはまだそこまで経験がないわけで、それをカメラワークでカバーしようとした部分もあったりするかも?名優になると立ち姿だけで何かを伝えることが出来るけど、あの二人だとボロが出る方がまだまだ多かった可能性もある。氷魚君がちむどんどんで棒立ちしてるのが印象に残った感じみたいに…。

あとパーソナルトレイナーの龍太は全然貧弱で、浩輔の方が明らかに鍛えられて筋肉量の多い体してたので(;^_^A、その無理ある設定を誤魔化す為に、極力宮沢氷魚の筋肉に焦点が当たらないようにしていたとか?( ´艸`)

撮るカメラ

女性モデルがカメラで撮られている雑誌撮影の場面から映画は始まる。
そしてその後、カメラに撮られる印象的な場面が3つあった。

1、浩輔が撮影現場でふざけてポーズを取り、カメラマンに撮ってもらう場面。
2、龍太が二人きりの親密な時間に、スマホで浩輔の顔を録画しようと撮る時。
3、龍太の家に行き、母親と3人で写真を撮る時。

1のポーズとってる浩輔はノリノリ。周りにスタッフもいっぱい居るのに、自分から撮って貰いたがっている。
一方2では、龍太と二人きりのプライベート空間なのに、ものすごく恥ずかしがっていた。

1では鎧を着て、ゲイ=本来、陽気なという意味がある というわかりやすいステレオタイプを演じることで、周りを楽しませたり、安心させたりする。そのゲイ人格までも鎧であるかのように。

2では、鎧を脱いでいる時間。カメラを向けられると戸惑ってしまう。恥ずかしくなってしまう。どの人格を見せればいいのか?見せ慣れてない素の部分を晒すことは裸を見られるより恥ずかしい。
さらに、ピュアな存在だと思っている龍太に比べて、エゴイスティックな欲望で接している自分は汚らしいもの、という潜在意識があったのかもしれない。

では3人での記念撮影はどんな意味があったんだろう?🤔
私、3人で写真撮って微笑ましい…とは思わなかったんですよね。
物凄く所帯じみた台所をバックに、超一流のカメラマンと仕事してる浩輔が、それでも撮りたかった理由はなんだったんだろう?友達の家でその母親と記念撮影なんか普通はしない。

あの場面の違和感…共感性羞恥?いや違う。もっとドロッとした感じ。お金あげて、お下がりの服をあげて、人生をコントロールしてる恋人と、自分の亡くなった母親の代わりに親孝行してる気分になってる龍太の母。彼らと記念撮影すること=トロフィーとまでは言わないまでも、獲物を記念撮影するハンターに通ずるドロッとした”エゴ”を感じたからかもしれない。


エゴについて1

(あとで2もあるよ)

ということで、浩輔のエゴについて考える。

エゴ 自分の欲望を押し付けること
エゴイスト 自分の欲望を押し付ける人
利己主義者。他人のこうむる不利益を省みず、自らの利益だけを求めて行動する人のこと。

そう、
この映画はやっぱり全体を通して浩輔のエゴがず~っと描かれてる。
だから浩輔のことは、私自身もエゴを持ってるだけに理解できる部分もあるし、同時に自分自身も気付いている嫌悪感の部分も否応なく見せられるので、近親憎悪的に、じんわりと、いや~なモヤモヤが燻るし、チクチクとトゲが疼くような、不快感が絶えずつきまとう。

浩輔が龍太に渡していたお金。あれは一瞬”愛の形”のように錯覚しがちだけど、結局、経済的補助以外に与えるのは…

劣等感 羞恥、従属 蔑視 尊厳の剥奪 自己肯定の否定 支配

みたいなネガティブな要素ばかりしか思い浮かばない。
(浩輔の意志とは関係なく、受け取る側が持つかもしれない感情)
幸福感とか、充足感とか、自己肯定感とか、龍太が得られますかね?

本当に龍太を愛している、彼を幸せにしたいなら、龍太が独り立ちできるような道筋を教えてあげて、そこを後押しする。龍太が独り立ち出来て、対等に付き合えるようになった時に、そのお金が龍太の為になったと言えるのじゃなかろうか?

例えば、浩輔はファッション雑誌の編集長?なんだから、最初はコネや口利きして、龍太をモデルとして使って貰うようにもっていくとか。
またはパーソナルトレーナーとしてのクライアント(業界人で金回りイイ人)を紹介しつつ、稼ぎを高めるための箔付けとして、顧客への食事アドバイスできるスポーツ栄養学の資格なんかを取れるようにサポートするとか、なにかしら出来たと思う。

しかし浩輔がしていたのは、結局お金を払って、龍太の体と尊厳の搾取

エゴイスト他人のこうむる不利益を省みず自らの利益だけを求めて行動する人のこと。

浩輔は龍太の不利益の部分は完全に無視していた時点で、やはりエゴイストだったなぁ~と思ってしまう。

お金をただあげるだけじゃなく、独り立ち、自己肯定感を持てる生き方を応援する、機会を提供する、そして心の安らぎを提供する…心の安らぎは多少与えていたけど、それでも龍太の中には、迷惑かけないように必死にならざるを得ない焦りがあったからこそ過労死したわけで、本当の意味での安らぎは与えていなかった。

ここで、じゃあ浩輔はなぜ龍太をそういう形でサポートしなかったのか
それはやはり支配していたかったからなのだと思うわけです。
独り立ちされると、自分から離れていく可能性が高まると恐れていたから。
映画の中で何度か語られる”婚姻届け”。あれはスゴク象徴的で、それがないゲイにとっては絆を保つものとして、浩輔の場合=”お金”というのをより強く浮かび上がらせる。

虚勢を張って生きている浩輔は、成功していても自信がない人物。
ここに、”現代の日本社会でゲイである”ことの負の側面が影を落としている気がして仕方ない。どうしても自己肯定感が低くなってしまうということが影響してないだろうか?だからこそ龍太を支配することでしか、愛を繋ぎとめる方法がないと錯覚してしまったのではないだろうか?


オネエの仮面

日本のBL映画やドラマ、結構観てきた方ですけど、登場人物がオネエ言葉使うことってはあんまりない。

一方、ゲイムービー、つまり腐女子向きではない、ゲイを扱ってる作品ではオネエ言葉がよく出てくる印象がある。

BLは女性が原作が多い。一方ゲイムービーなどは男性原作、監督などが多い。

この「エゴイスト」も浩輔がゲイ友と一緒にいる時は少しオネエっぽくなる。言葉遣いも、しぐさも。ホゲるっていうんですかね?ステレオタイプのオネエを演じて道化になる感じ。

たぶん実際の新宿2丁目とかのゲイシーンはあんな感じで、リアリティがあるんだろうな~とは思う。私の知っている日本人ゲイもあんな感じだった。そして鈴木亮平さんの演技がまさに本物のゲイに見えると絶賛されてる。

古くはラ・カージュ・オ・フォールの市村正親、
最近では「きのう何食べた」の内野聖陽、
そして今年公開された「エゴイスト」の鈴木亮平や「ひみつのなっちゃん」の滝藤賢一。
(そういや浩輔の父役・柄本明も「Water Boys」でゲイバーのママ役してたっけ?)

なんかストレートの演技派俳優が意欲的に取り組んでるというか、言い方悪いけど演技力見せつけたい欲、ちょっと無いですか?っていう穿った見方しちゃう時があるw。欲まで言ったら失礼か…監督の指示もあるだろうし。
まあ歌舞伎、玉三郎の女形が人間国宝な国なので、そこにリスペクトがあるのも分からないわけでもない。

内野さん演じるケンジもスゴイ絶賛されてた。でも私はどうにも違和感あった。原作漫画だとたま~にオネエ言葉っぽい時あるけど、基本オネエじゃないし、そんなにクネクネしてない(と、私は思ってる)。
でも実写ドラマケンジは、ちょっと誇張してる気がするし、好評だったからか、その後作られた映画版ではより大袈裟になった気がした。なんだかそこにモヤモヤした感情が生まれたんですよね。ジルベールも原作はあそこまで猫なで声出してないと思う。
そして彼らを絶賛していた方たちも、そのステレオタイプの出来の良さを褒めてる気がした。

でも玉三郎は女を演じてる。しかし内野さんたちは女じゃなくて男性を演じているわけで、よりオネエらしさを突き詰めるのはなんか違う気がする。

なんでここまでステレオタイプオネエの型を踏襲しようとするんだろ?
普通の話し方じゃダメなんだろうか?
(まあシロさんは普通だけどね。あの二人、実はシロさんのほうがウケなんですよね。オネエ=ウケではないイイ例。西島さんがオネエ役は難しいだろうな。シリアスパートはいいんだけど、コメディパートは微妙にややスベリ感があるんですよね。警視庁アウトサイダーもキツカッタ(;^_^A)

性的指向が男性だからって、皆がオネエ言葉話したり、クネクネするわけじゃないってのはある程度認知されて来てるだろうに、未だに男性が作るゲイ作品はその型に強く引っ張られてる傾向があるような?
ゲイ作品じゃなくてもマンガとかでも、オネエ言葉話す敵役(古くは北斗の拳のユダとか)出てくるのは、男性漫画家が殆どじゃないだろうか?

海外のゲイ映画やドラマにもオネエっぽいキャラが出るときもあるけど、それ以上に普通の”男”なゲイキャラが最近ではメジャーになって来てる。
(とはいってもアメリカの「love, simon」は無かったけど、イギリスの「Heart stopper」は主役の子にちょっとフェミニンな感じはあったので、お国柄や揺り戻しなど、いろいろあるんだとは思うけど)

最近海外で話題になった「The last of us」のビルとフランクのゲイキャラは普通のオッサン達だった。

リンダ・ロンシュタットの「long long time」をピアノで弾くことでゲイだとお互い確信するという場面がある。「エゴイスト」では、浩輔がちあきなおみ「夜を急ぐ人」を歌ったり、Wの悲劇がゲイ・アイコンであるのと同じ感じなわけです。
アメリカでもSATCアグリーベティとかでもオネエキャラが出ていたけど、最近は減ってるんじゃないかな?今でもあるんだろうけど、「ブロークバック・マウンテン」「ムーンライト」のような映画でのゲイキャラが認知されたことによって、随分変化してきたように思う。コメディ・スキットとしてオネエキャラが挿入というステレオタイプは無くなって来てるんじゃ?シランケドw

今回の「エゴイスト」は原作の高山さん自身がそういう話し方をする人だったようだし、鈴木さんは忠実に再現したんだろうし、仕方ないとは思うけど、まだゲイ=オネエのステレオタイプを推すのか…と個人的にはちょっと辟易とした。
せっかくこれだけのメジャー俳優がゲイを演じ、注目、観客動員もそこそこありそうな作品だからこそ、そういうステレオタイプから脱却したイメージを押し出して欲しかった。(原作を改変することになっちゃうんだけどさ)

「エゴイスト」とほぼ同時期に公開された「ひみつのなっちゃん」は観てないんだけど、3人のドラッグクイーンが旅に出るって話、「プリシラ」(1994年の豪映画)、「To Wong Foo(3人のエンジェル)」(プリシラのハリウッドリメイク1995年)と、約30年前のネタを今やる日本。これは何か特別な意味があるのかな?ノスタルジー?

それとも日本が単に30年遅れてるってことなのか?どうなんだろ?

プリシラの楽しい衣装、銀色のバスの上に大きなピンヒール型の椅子、そこから巨大な銀の布がはためく…みたいなスケールのデカさを、貧乏くさい日本映画が越えられるとは思えないし、30年経っての新しい視点を提供出来てることに疑問だったので、わざわざを足を運ばなかった。古臭い価値観の田舎で、異質なドラッグクイーンがワチャワチャ=ピエロが騒動を起こして、最後にちょっとお涙頂戴で締めるだけのよくある日本的映画じゃないの?って先入観が邪魔して…。違ったらゴメンナサイ<(_ _)>

で、何が言いたいかというと、
日本はゲイ=オネエというステレオタイプに囚われ過ぎてませんか?ということ。

それは映画作る側も、演じる側も、観る側も、そして2丁目とかでホゲているゲイの方々達でさえも。

「エゴイスト」の浩輔も、ゲイ友、ゲイだと知っている職場の人達の前ではオーバーにオネエ風味を出していたけど、龍太と一緒の時は特段オネエじゃなかった、と私には見えた。手にクリーム塗るときはナルシストオネエが滲み出てたけど(;^_^A

じゃあなぜオネエを演じるのか?オネエの仮面を被ろうとするのか?

海外ゲイドラマの名作「queer as folks」とかでもゲイたちが度々集まって会話してたけど、4人いたら1人がオネエっぽいぐらいで、他は普通の話し方。話し方が変わったりしない。
でも「エゴイスト」のゲイ友の会話では、ほぼみ~んなオネエっぽくなる。

あれはみんな「ゲイ」とはこういうもの、という固定観念に囚われてて、それを誇張することで連帯意識、仲間意識を強めようとしている要素はないだろうか?女らしさ、男らしさの固定観念が強く、そういうジェンダーロールを演じることを刷り込まれてる日本人。
それはゲイの中にも反映されていて、ゲイ=オネエというロールを演じないといけないと思ってない?刷り込まれてる部分ない?と疑問が湧く。

ゲイバーでストレートっぽい話し方してても、何気取ってんのよ!と言われて、オネエを演じざるを得なくなる、仲間に入れて貰いやすくなるための処世術的な側面もあるんじゃないだろうか?

勿論、ノンバイナリーで普段は便宜上男の役割を演じているけど、6割以上自分の中に女性性を感じているような人は、ここぞとばかりに自己を開放して、オネエ言葉が自然だとして使ってる人もいると思う。

でも言葉ってアイデンティティのひとつだと思うから、そんなにコロコロ変えることに違和感感じる人も多い気がするんですよね。器用に使いこなせる人もいるだろうけど、面倒だな、しんどいなと思う人もいるんじゃないだろうか?

いや、実際の2丁目のゲイバーではいろんな人がいて、普通に男言葉で過ごしている人もいっぱいいるんだろうけど、未だにメディアに出てくるゲイの代表みたいな芸能人がオネエ系に限定されてるし、そしてそのステレオタイプを推してるというか、逸脱できない、多様性がない狭さが気になる。

だから鈴木亮平、宮沢氷魚がゲイ役演じて賞賛するのも大事なんだけど、海外ではそのレベルのメジャーな俳優がゲイだとカミングアウトして、ゲイの役を演じたり、当事者として発言したり、もう一段階、二段階進んだことを行ってる。そういうのとつい較べてしまって、あ~日本はまだまだそこまでではないんだ…と、モヤモヤ~っとしたのでした。

オネエの仮面を被らないといけない背景には、
幼少期や成長段階において、「オカマ」とか「女みたい」といじめられた経験が、どこかしらトラウマとなっており、あえてそのロールを演じて自嘲すること=ピエロになることで、傷つくことを誤魔化す自衛行動となっていたりもしないだろうか?
もうそれが繰り返しなされすぎて、いわゆるゲイらしさ、様式美みたいになってきている感もあるけど、そこは正当化しちゃいけない気がする。根源にイジメやアイデンティティ否定が横たわっているなら。

「エゴイスト」におけるゲイ友たちとの会話が、本来の自分のアイデンティティの表出としてのオネエ言葉を享受してる場面というよりは、どこか苦しい、どこか痛々しい、どこか切ない、そんな空気を纏っている気がして…。そういうものが感じられなくなった時こそ、ゲイの中での多様性も確立してきたことの証左になるんじゃないだろうか?

上手く言えないけど、「ゲイ」になるために、ゲイ協会の会員になるために、ムリしてオネエの仮面を被ってない?ということですかね。もし無理してる部分があるなら、もっと自由に、自分らしさのままでいられるゲイ社会になればいいなと思った次第です。もうそこを笑いにしなくてもいいんだよと。

結構な尺使って浩輔のオネエ会のシーンが何度もあったので、う~ん、なぜこんなにもオネエ会のシーンがあるんだろう?というとこから色々考えてしまいました。


セックスシーン

龍太がウリでホテルの部屋に向かう時、毎回ガムを噛んでいく。
これから見せる客とのセックスが、まるで口臭=汚いものであるかのように。前もって、ごめんなさい、と言ってくれてる(自分に、客に、浩輔に、観客に)みたいな、妙な生々しさがあったし、気持ちの切り替えを表現してるようでもあったし、龍太の心情を想像するツールになってくれてる。

こういう表現、ディテールは好きです。

でも浩輔と、そして顧客たちとのセックスシーンはあんなに尺いる?
そしてお情け程度に下半身あたりをチラッと写すカメラワーク。

逆にちょっと興醒めでした(;^_^A。
ホラ、ドギツイでしょ?ホラ、役者たちが素っ裸で頑張ってるでしょ?って、センセーショナルさを狙ったわけじゃないですよね~?
あそこまで長く写す意味、どこにあったんだろう?

役者さん達は一生懸命演じてたのはわかる!でも、あんまりケミストリーは感じなかったかなぁ。ゲイ同士の熱いセックスというよりGay for payのゲイポルノ感に近かった。
前バリ付けて股間すり合わせてる所なんかどうでもいいから、もっと喜び、歓び、悦びみたいなものが伝わってくる”熱さのある”セックスシーン、何かもっと熱を伝える撮り方あったんじゃないかって。
そうすれば、龍太が客相手だと勃たなくなったというのが腑に落ちるようになっただろうし、浩輔と客たちとのセックスの違いが際立ったんじゃないかと。

アッ、龍太は浩輔とのセックスの方がどこかよそよそしく、ガッツリではなくお上品な感じのセックスだと浩輔が友達に不満を言ってたんだっけ?じゃあアレで良いのか?(笑)。
ウリ専のサービスとしてのセックスは”型”があるからガンガン出来る。でも型がないセックス=好きな人とのセックスは、どうしたらいいかわからなくなるから控えめになってしまう…ってことですね。じゃあ、アレでいい…のか?

この龍太のセックスの違い、これは、浩輔がプロのカメラマンの前では大胆になれるけど、龍太の前では恥ずかしくなる心理と符合してるっていうことでしょうかね?


リアル病人?阿川さん

阿川さん演じる龍太の母・妙子

彼女の存在がこの映画を面白くしているのは間違いない。
私は彼女が出てくる場面では特に涙腺が弱くなった。

私自身、癌で母を亡くしているから影響が強かったのもあるだろうけど、
阿川さんの入院して痩せていた感じは癌患者特有の死相が出てる気がして、スゴイ!と目が離せませんでしたね。

なんていうか、痩せてきて、鼻のあたりが尖ってくる頬の肉が落ちてくる。顔の中心辺りの肉感がゴソッと無くなる感じ。その辺りの感じが凄くリアルだった。あと、首、うなじ辺りが異様に痩せてくるんですよね。その部分は阿川さんではわからなかったけど。

もしこの癌患者の身体的特徴を役作りしたんだったら、大竹しのぶを越えたね(笑)。大竹さんも「PICU」で同じすい臓がん患者を演じていたけど、そこまでのやつれ感はなかった。ただ痛みに耐えて歩く動きとかは非常に研究されてるなと思った。その点は阿川さんは出来てなかったかな、というか、カメらが近すぎて、そんな動きの演技が見えなかったというのもある。

あれが役作りじゃなかったら、阿川さん自身、何かしら体に不調があったのか?ちょっと心配になった。ノーメイクで皺も隠さずだったけど、なんだかんだず~っとテレビに出てきた人。普通の60代よりは若さを保っていたはずなのに、この映画では年相応の皺が刻まれていた。一気に老けたように思えたくらい。卵の白身でも塗ってわざと皺を際立たせるとかしてんのか?なんて余計なことを考えたくらいw

あと、長年レポーターや司会者してきたから、声が良く通る通るwww
病人なのにスゴいハキハキ聞こえて、そこはちょっと、阿川さんだな~と思わずにはいられなかった(笑)。


「エゴイスト」をホモソーシャルで考えてみる

最近マイブームの「ホモソーシャル」的観点で浩輔、龍太、妙子の関係を考えてみる。

ホモソーシャルにおける「性愛の三角形」
一人の女性を媒介にして、男同士が絆を強めるという構図。
この映画の3人にも当てはまる。

妙子の為ということで浩輔は龍太にお土産を持たす。
ここには妙子を利用して龍太にイイ人だと思われたい浩輔の下心がある。
(勿論、亡き母の代わりに何かしたい気持ちもあるけど)
一方龍太も、お土産を貰うことで他の客とは違う価値観を浩輔の中に見る。
二人のを妙子という存在が強化していました。

龍太が浩輔を実家に招くのも、妙子を媒介にして、二人の絆が強まったように見える。龍太が浮かれて貰った服を自慢したり、隠れてキスしたり、浩輔との絆が強まった喜びで溢れていた。

こう振り返ってみると、この三人の関係はホモソーシャルの関係性が潜在的にあるのが興味深い。表面的にはホモセクシュアルな関係であるし、カップルではなくて母子の関係にもかかわらず。

そもそも龍太が浩輔を好きになった深層部分には、どこかしら家父長制の影響がないだろうか?

龍太の家は母子家庭。つまり家父長制を形成できなかった家庭。しかし世間は家父長制優位主義で溢れている。常にその圧に晒されてきたわけである。つまり自分の家に欠落している父親像への渇望、母親に献身的なマザコンの様に見える一方、父性への憧れが人一倍強くなっていたからこそ、経済的に自立している強いオス=浩輔に惹かれたし、彼からの援助も抵抗しつつも受け入れたのではないだろうか?ここに家父長制の影響を感じざるを得ない。

「エゴイスト」は、実際はホモソーシャルが強すぎる日本において、そこからはみ出していると思われがちなゲイたちを扱いながらも、結局はその呪縛から逃れられず、喘ぎ苦しむ人々を浮き彫りにしていたようにも思う。それほど多くの人の苦悩の原因になっている、日本社会の病巣がホモソーシャルな気がしてならない。

妙子が浩輔からの同居の誘いを断った場面はとても印象的だった。

龍太がいる時は、妙子は二人の絆を強化する媒介物としての自分を良しとしている。
龍太が死んだあとでさえ、浩輔を家に泊まらせるのも彼女の提案。それにより浩輔の龍太への想いが再確認され、浩輔→龍太、二人の絆が強化される。

彼女はホモソーシャルの社会で生き抜いてきた人物であり、男同士の媒介になることは受容している部分があるのだろう。ホモソーシャルの呪縛に慣れきっているから。

しかし、浩輔との同居の提案は断る。

同居することは=浩輔の亡母の代替品にされるということであり、そこに龍太の存在は重要視されなくなる。亡母を孝行できなかった浩輔のオナホールにされるということへの強烈な嫌悪感

そして同居を考えるきっかけも、出費がかさむ(クレジットの引き落とし額を眺め、高級果物を買うことの躊躇)描写の後。
浩輔が如何に自己中に周りの人間を扱っているかがよくわかる、まさにエゴイストな場面でした。

別にゲイの人に限らないんだけど、どうしても自分のアイデンティティでの悩みが多いと、それに囚われるあまり、他者の視点がゴソッと抜け落ちてる人が時々いる。私が出会ったゲイの人にもそういう人が何人かいた。浩輔も他者への気遣いが出来ないわけじゃないけど、どこか他者の観点が抜け落ちてるイビツさがある。もしくは鎧を強固に纏い過ぎた弊害?それが彼のエゴイスティックな行動として現われてるのだろうか。

ふと立ち止まって、妙子の気持ち、自分の経済状況、いろいろ俯瞰して考えたら、同居の提案は違う、行き過ぎとわかりそうなはず。しかしそれが出来ないくらい近視眼的になり、助けることに固執してしまっていた。少し不健全、病的な領域に片足突っ込んでいる。

愛情とおせっかいの境界。これを常に冷静に、繊細に意識しておくことが大事なんだと教えてくれる。

ちょっとオネエの仮面のこともホモソ―シャルから考えてみる。

ホモソーシャルにおける異性愛の男性達は、キレイで若い女性という獲物を媒介に絆を強める傾向がある。しかしゲイのコミュニティにおいては、必ずしもキレイで若い男がトロフィーになりえない。デブ専、老け専、ガチムチ、ガチポチャ、いろんなトロフィーがあり過ぎて、連携が取れない。この辺りは異性愛のホモソーシャルとは異なってて面白い。

ではトロフィーが連携強化につながらない代わりに何を用いるか?
そこがオネエの仮面だったりするのかなと。「オカマ」と侮蔑の言葉を受けてきた傷を見せ合うこと&道化と化す=共通言語で、仲間意識、連携を強化していたりするんじゃないだろうか。

「女」という媒介物が無いことから、男女ともにジェンダーロールを強制されない。ホモソーシャルの影響は依然あるんだろうけど、そこは薄まり、どちらかというとルッキズムがより強くなる辺り、またいろいろな考察が出来そうで興味深いです。

龍太の負い目もホモソーシャル、家父長制における圧が由来だと思われる。
浩介も龍太も家父長制の呪縛があるから、「お金」というもので男が男を養うことに抵抗がある。男というもの=独り立ちしないといけない 他人に頼ってはいけない それが出来ない=情けなく思う それを助ける=男らしく生きることを邪魔する… 故に両者とも 「ごめんなさい」 となる。 

しかし女性=従属物 ”養われる者” という認識があり、結婚という契約においてはお金を渡すことも当然、受け取ることも当然。勿論感謝はあってしかるべきだが、そこに必要以上に罪悪感を感じることはない。最近よくある「女性はおごってもらって当たり前」論みたいな感じですよね。

浩介も龍太も 大事な人を支える&支えられるのは「愛の証」なんだから当然!と割り切れることが出来れば、あそこまで「ゴメンナサイ」を連呼することもなかっただろう。

ただし、婚姻届けがないゲイの関係においては、些細なきっかけで支える方が負担に感じ、支えられる方が窮屈に感じた時点で崩れていく。非常に危うい関係に陥る可能性が高いわけで…。

まあ普通の男女の婚姻関係においても、うちの父親みたいに、「誰が養ってやってると思ってんだ!」って恩着せがましく言いだしたら、もう健全な関係なんか崩れまくって家庭崩壊まっしぐらですけどね(;´Д`)


エゴについて2

いろいろ考えてきて、再度”エゴイスト”について考えてみる

浩輔の行為は、そこに幾分か自分の欲望が絡みついてるので”エゴイスティック”だったとは思う。

しかし、人の行動が100%一つの意味しかないっていう訳でもないのが難しいところ。
その行動の70%がエゴな欲望から発する行動だとしても、
30%ぐらいは相手に幸せになって貰いたい、楽になって貰いたいという思いも含まれるだろうし、少しでも笑顔になって貰いたいとも思ってたりする。

なので”エゴイスティック”な愛の押し付け!!と切り捨てるのも難しいんですよね。

そして与える側受け取る側、ここを切り離して考える視点も大事な気がする。

与える側が「90%エゴ・10%無償」の愛を与えたとしても、
受け取る側がその通り受け取るとは限らない。
「20%エゴ・80%無償」ぐらいに取る場合もある。

病院に足しげく通う浩輔に、最初は息子じゃないと言い放った妙子は浩輔の行為を「50%エゴ・20%申し訳なさ・30%親切」ぐらいに感じていたかもしれない。

しかし死が迫って来た時、浩輔がしてる行為がさほど変わった訳ではないにも関わらず、それは彼女の中で変化していった。
「10%エゴ・10%申し訳なさ・50%親切・30%欲しいものを与えてくれる人」みたいな感じに…。

死を前にしたり、究極に苦しい状況だと、どんな形であれ人は一筋の光を掴もうとする。そこに差し出されるものがエゴの愛なのか、無償の愛なのか、もはや判断する余裕も無くなるし、必要もなくなる。
死を間近にした妙子には、もう浩輔の気持ちも、自分の尊厳ももはや意味はなく、ただ差し出される手のぬくもりだけが重要なものになっていた。そのぬくもりの為なら息子だと名乗ることもどうでもいい。

病院の庭のベンチで妙子が言った
「私たちが受け取ったものが愛だと思っているから…」
という言葉が、その受け手側の解釈。

でもだからと言って、受け手がイイと言ってるからイイじゃん!って開き直るのは間違ってると思うし(エゴの上塗り)、受け取った側も、そこに多少の尊厳が踏みにじられた感覚がありつつ、妥協の思いは隠してるはず。他人の世話にならずに済むならなりたくない、というのは龍太も妙子も最初は頑なに浩輔の援助を拒否したので明らかですし。

なので愛ゆえに他人を助けたいと思うなら、そこはより繊細に、相手の自尊心を損なわない方法を模索することが必要なんだと思う。
(まあそんな余裕ない切羽詰まった時もありますが)

ウケる側が愛だと感じたならOK!で済ますのも、それはそれでエゴイスティックな考えじゃないかと思う。
その時は妥協して受け入れたけど、後々やはり負い目としてジクジクと苦しくなることもある。その結果が二人の関係を破壊する種になりかねない。

たとえ受ける側が負い目を感じなくても、今度はそれはそれで与える側の気持ちの変化で、何当たり前になってんだよ!と変化していく場合もある。

もちろん与える側も見返りを求めず、受ける側も絶えず感謝できればいいけど、人間中々そうは行かない。状況も変化すれば気持ちも変化する。

なので依存状況を解消できるように双方が努力し、都度都度にコミュニケーションを取り、相互理解、確認が出来るのが理想なのかな…と思う。まあそれが難しいんだけど、それを意識しておくのとしないのでは結果は随分違ってくるのではなかろうか?「エゴイスト」の登場人物が味わったような苦しみは多少なり無くすことが出来たのではないだろうか?

劇中で、浩輔も龍太も妙子も
「ゴメンナサイ、ゴメンナサイ、ゴメンナサイ」と何度も言う。
あれを見ていた時、非常にいたたまれない、且つ、奇妙、たぶん外人が見たら異様にさえ見えるんだろうな…と思った。
浩輔のゴメンナサイに至っては、自分のエゴを通すための”脅しのナイフ”かと思うくらいの時があった。

本来、人が人を愛する時に、ゴメンナサイと何度も言うのはやはりイビツな気がする。それは自分でエゴを押し付けてる自覚があるからだろう。
もっとゴメンナサイを言わないで済む愛し方を、特にすぐ謝ればなんとかなると思っている日本人(自分も含む)は、考えないといけないのでしょうね。

人間が絶えず移ろいやすい状況と気持ちの中で生きている限り、
愛することには自分のエゴが含まれることを自覚し、いかに相手の自尊心、尊厳を傷つけないように、または維持できるように努力することが大事。
そして受け取る側も、いかに自分の尊厳を奪われない方法を模索する必要がある。そしてエゴな愛はいつなくなるかわからない愛でもある以上、相手のエゴな愛に依存しないようにしていくことも認識しておかないといけない。

人間だから性欲エロスで始まるのは仕方ない。
でも危うく脆い愛・エロスから、より揺るぎなく相手を幸せにできる愛・アガペーに近づけることを、お互いが考え行動できる時、それが本当に愛し合ってるということになるのかも…?


最後に

エゴとは何か?
愛するとは?愛されるとは?
日本のゲイムービーについて
オネエ言葉は必要か?
同性婚について
ゲイコミュニティにおけるホモソーシャルの影響
俳優さん達の役へのアプローチについて
監督の演出の意味について
などなど…

この映画を観たことで、いろ~んな気付き、思考活動が出来ました。
それだけで、この映画は私にとって見る価値があった。

エゴイストとはなんぞや?とこんなに考えさせてくれる機会をくれて…
ありがとう「エゴイスト」!!

p.s. こんな駄文を最後まで読んでくれた…あんたはエライ!!(←小松政夫風w)よろしければ「スキ💓」を押していただければ励みになります!😉


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