見出し画像

わたしは自分の感情がキライでした。

こんばんは。Vinoです。
今夜は全国的に雨でしょうか?
はじめましての方へ。

感情がなくなってしまったら、どんなに楽だろうか。

この感情の揺れ動きがなくなるなら、どんな喜びも感じなくて良い。
なにも感じずロボットのように暮らせたら、どんなに楽だろう。

時々、そんなふうに思うことがあります。

笑っていても楽しくない。
悲しくもないし、怒りもない。
なにも感じない。まさに無の境地?

誰かと話をしているとき、言葉が上すべりして、
浅い水面をパチャパチャしているような感じのときがあります。
全然、満たされない。

えっ?それってウツなんじゃない?
と、思われる方もいらっしゃるもしれませんが、
それとは、違うのです。

わたしにとって、感情は深い深い海の底、ディープブルー、
漆黒の世界とつながることなのだと思います。
無意識の領域。

人によっては、浅い水面をすくって満足する方もいるでしょう。
たくさんゴハンを食べないと満たされない人もいれば、
まったく食に興味がない人もいるのと同じように。

自分にとって深い感情は、こころのゴハンでした。

ライトミールでは心の渇きが癒えないことに、
気づいてしまいました。

今まで見て見ぬふりしてきました。

しかし、自分の満たされない感情と借金総額が比例しているので、
借金を本気で返すと決めたら、まずは、この感情と向き合うことは
否応なしに避けられないのだなと。
ついに、降参しました。

小さな子供用のビニールのプールで、パチャパチャ、キャッキャッと
じゃれ合っていた子どもたちも、一度、広くて大きな海に行き、
深い海の中に潜ってしまうと、もう、子供用プールは狭くて仕方ない。
面白くなくなる。
そんなイメージでしょうか。

海には数多くの生物が生息しています。
わたしたちの心の中にもたくさんの生物が棲んでいるのです。

だから、わたしは、自分の感情が嫌いなんです。

手間じゃないですか。非効率ですよ。無視してしまえば良い。
こんな風に理性は言うのです。
自分で自分を満たしてあげるのに、すごく労力いるから。

でも、いつか、やらねばならぬ時が来るものですね。
それが、私を私たらしめるものであるのなら。
やっと合理主義者の理性さんも納得してくれました。

本気で気づいたら、やらねばならぬのです。
自分と向き合うのは、けっこうシンドイ作業です。

でも、やらねばならぬのです。

わたしの心の叫びを受け止めてあげられるようになれたら、
また違った景色がみえるのでしょう。

そこから見える景色は、今はよく分からないかもしれないですが、
絶対に今よりも充実していて、望むような創造的な世界だと信じて
進むしかないのです。

noteはじめて本当に良かったです。
ずっと、わたしは表現する場を欲していた気がします。

自分と切り離し外側に感情を置くことはカタルシスなのだと
無意識に知っていたのでしょう。
客観的に感情を観ることで、より深く感じるというか。

かつて表現者として生きたいと思っていると同時に、
表現しなくても生きられるようになりたいと願っていました。

そして、ある日、表現しなくても暮らせている自分に気づきました。

もう感情をカタチに変える必要なくなったと思っていました。
やっと、フツウになれた、と思っていました。
深い安堵感を覚えました。

でも、本当は、深い感情に向き合うのをやめただけでした。
本当に満たされていたなら、借金は増えていかないでしょうし、
どんどん減るはずなので。

だから、以前も書きましたが、
借金とダイエットは似ていると思うのですね。
どちらも数値化できますし。
数字は、わたしたちに現実を突きつけてきます。

未来を描こう、もっとクリエイティブな未来を。
こころが踊る未来を。


定期券買い忘れて無駄遣いしちゃったな。
そろそろ陸に上がって運動もはじめようかな。

為せば成る、為せば成らぬ何ごとも。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?