たゆたふ

日々をたゆたふように生きる。

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最近の記事

「おばあちゃん」じゃない。

祖母と、とある日の写真を眺めていた。 山の間から昇った太陽の光に向き合って、雲一つない青空と紅葉しかかっている緑を眺める祖母の写真。 あの時、朝の澄んだ空気を突き破るような子供たちの笑い声がしていたことを思い出す。 「これ、すごくいい写真でしょ。ばあちゃんを盗撮したの。」と言うと、 「あら、いい写真ね。どうやって大きくするんだっけ。」と祖母が言う。 齢90を過ぎた祖母、スマホの写真を拡大できることを最近知ったのだ。 とはいえ、普段はタッチペンを使って操作している中、親指と

    • 解けない魔法

      「あなたの使う言葉は、あなたそのものだよ。」 小学校3年生の時、担任だった先生が大好きな笑顔とともにくれた言葉。 学年の終わりになると、先生は生徒たちが1年間通して書いてきたものを全てまとめた文集を一人ひとりに手渡してくれた。生徒たちの文字はそのままで、それに対する先生のコメントはすべて手書きで。大学生になってから先生のご家族に聞いた話によると、先生は当時夜な夜な文集を作っていたそうだ。 運動会に向けて練習したエイサー、『ちいちゃんのかげおくり』をみんなで再現しながら読んで

      • 時計の針に惑う

        私がストックホルムの街中で見つける時計はなぜか、どれも時間がずれているか止まっている。 教会の時計だけは合っているのだが、それ以外の時計で正確に時を刻むものを見かけることが少ない。一時的なものかと思っていたがいつ見てもそうなので、ずれていようが止まっていようがきっと誰も気にしていないのだと思う。世界時計かと思うくらい大きくずれているものもよく目にする。 もしかすると、時計はただの飾りという位置づけなのかもしれない。 一方、東京で見かける時計の針たちは正確だ。 1分たりともず

        • ある

          どこかへ訪ねる時、「ここにはなにもないから。」と耳にすることがある。 「なにもない」ってなんだろう。その「なに」ってなんだろう。 人に自慢できるようなもの?写真映えするもの? 誰かが、なにかがそこで生きていること。 それ以上の「ある」って必要なのだろうか。

        「おばあちゃん」じゃない。

          ともに生きる

          風が強く吹く日だった。いつもよりも湖を揺らす波が強い。 そんな日に掲げられた、色々な形の、色々な大きさの、色々な文字が綴られた虹色の旗。 ストックホルム市庁舎をスタート地点として始まった Pride Parade。 それぞれの想いを抱いて、ここには来られなかった人たちの想いも背負って、人々が練り歩く。 爆音で流れる Lady Gaga の "born this way" に合わせ、踊ったり、立ち止まって笑い合ったり、ゆったり歩いたり、車いすを進めたり、それぞれの人がそれぞれ

          ともに生きる

          色とりどりの四角たち

          今日も子どもたちが地面にのめり込むように塗っている。 色とりどりのチョークで描かれた四角。 夢中で色づけられた四角たちは、必死に塗り込まれたその力の分だけ美しく見える。 色の上を楽しそうに飛び跳ねる子どもたち。 同じ色の上を渡ろうとする子もいれば、ひとつずつ大事そうに踏んでいく子もいる。思いっきりジャンプしていく子も。 好きな色を、好きなやり方で、好きなだけ。 堅苦しいルールなんていらないのだ。 歩幅もステップも違う、その自由な足どりにつられて、いつもと違う一歩を踏み出し

          色とりどりの四角たち

          待ち焦がれた春

          氷点下で過ごす日々とはさよならだ。 ここ最近ストックホルムの気温は上がっていて、4 ~ 5℃くらいになってきた。急に気温が落ちて雪が降り出すこともあるが、陽だまりに入るとそれだけでぽかぽかする。ダウンを着ているとちょっと暑い時もあるくらいだ。半袖半ズボンと薄着の人も増えてきた(さすがに半袖は寒いだろう…と思うが、きっと肌の感覚が違うのだろう)。 場所によってはまだ湖が凍っていて、犬が気持ちよさそうに走り回っている姿も見る。 「いつ割れるか分からないし」とちょびちょびしか歩けな

          待ち焦がれた春

          銃口を向けることのない世界

          今この瞬間もどこかで誰かが傷ついている。不安に慄き眠れぬ夜を過ごしている。 報道されなければ知ることすらない紛争の方が多いのだろう。"It's a small world" なんてとても思えない。 そんな世界で、今日も普通に暮らしている自分がいる。 夕焼けに染まる空を美しいと思う自分がいる。 どことなく感じる申し訳なさと、とてつもない無力感。 それでも、願わずにはいられない。 銃口を誰かに向けることのない、向ける必要のない世界を。 すべての人に夜明けがくることを。

          銃口を向けることのない世界

          たった数行の、たしかなぬくもり

          手紙が届いた。 桜とお雛さまが描かれた便箋。 「花の咲く頃を待っています。」 という言葉で締めくくられた5行の文章。 凍っては割れるのを繰り返している湖を見ると、スウェーデンの春はきっとまだまだ先だ。樹々の蕾も固く閉じて、寒い冬にじっと耐えているようだ。 人間が寒さに肩をすくめ、歯を食いしばるのと同じような、そんな感じ。 日本の季節の移り変わりを肌や香りで感じることができない今、その心、そのぬくもりを感じられることが嬉しい。 花の咲く頃を待つ。 思い浮かぶのは、冷え

          たった数行の、たしかなぬくもり

          「受け入れていること」の証明

          日本にいて外国籍 "のように見える" 方に対して英語で話しかけること。 それは思いやりのひとつの形だと思う。一方で、疎外感を与えてしまう可能性もあるようだ。 スウェーデンに来てからというもの、英語で話しかけられることはほぼない。必ずと言っていいほど、第一声はスウェーデン語だ。 途中までなんとか聞き取ってスウェーデン語で返し、「分からないぞ…」という表情をすると英語に切り替えてくれることがほとんど。私は、見た目は明らかにアジア人なわけだが関係ない。この国の公用語はスウェーデン

          「受け入れていること」の証明

          青い空が見える

          青い空が見える。 空が暗くなってくると、「あ、そろそろ家に帰らなきゃ」と体が自然に家へ向かうような感じがする。 9時前に日の出を迎え、15時には暗くなるスウェーデンの冬、明るい空が見える時間は短い。昼であってもどんよりと曇った空だったり、さらさらと乾いた雪の降る空だったり。 瞳に映る世界がぱっと明るくなるような空はあまり見られない。 白い雪、灰色の空、深い青緑の湖に張った氷。 そんな時、素朴で美しいはずの街が、とても寂しく見えてしまうのだ。 体は元気なのだが、何となく心が

          青い空が見える

          ふわりふわりと舞う雪の中、 雪を踏みしめる足音だけが聴こえる世界。 耳をすませば樹々のひそひそ話まで聴こえてきそう。

          ただそこに選択肢があること

          ラクトースフリー、オートミール…牛乳にも色々な種類がある。 スウェーデンでは、スーパーの棚にもお店のビュッフェにも様々な「牛乳」を置いていることが多い。 カフェでラテを頼むと大体「regular milk? or special one?」と聞かれる。 特にどの牛乳が体に良いとか、どれが環境に優しいとか、必要以上に強調されることはない。 ただ、そこにあるのだ。 誰かに何か特定のものを勧めるわけでもなく、ただそこに選択肢がある。 これはヴィーガンに関しても同じように思う。

          ただそこに選択肢があること

          言葉もなく

          「今日はなんだか妙に寒い気がする」 そう思って気温を見たら、-9℃。なるほど、それは寒いし湖も凍るわけだ。 寒い土地で暮らしたことがない私にとっては驚きの数字だが、ストックホルムの氷点下の日々には慣れてきた。それでもスウェーデンの中では暖かい方で、北方の土地は既に-20℃近くなっている(もはやその寒さを想像できないし、したくもない)。 外に出る際、毛糸の手袋や厚手の靴下を身に着けていても、長時間歩いていると手先や足先が冷たくなってくる。冷え性の私には、革の手袋と足首まである

          言葉もなく

          和包丁、ふるさとへの帰還

          ロンドン、パリ、ストックホルムと3都市に展開している Japanese knife company という会社がある。 街を歩いている時に偶然見つけ、knife という名前に少しびくびくしながら中に入ってみた。 こじんまりしたお店のショーケースに、綺麗に並べられた和包丁たち。 「藤次郎(Tojiro)」「佑成(Sukenari)」「三昧(Zanmai)」等々、色々な名のついた包丁があって面白い。日本で包丁をじっくり眺めたこともなかったので新鮮だ。母国のものであるはずなのに、

          和包丁、ふるさとへの帰還

          違うけれど、違うから愛おしい ―『グアテマラの弟』―

          片桐はいりさんが、グアテマラに住む弟さんを訪ねた日々のことを中心に綴ったエッセイ。 異なる文化に出会う時「そんなもんなんじゃない?」とさらりと言えてしまう弟さんと、「なんで?どうして?」とアンテナが敏感に立つはいりさん。たしかに違うのだけれどどこか通じ合っている感じのする、とても素敵な姉弟だ。 この本を読んでいると、グアテマラの街並み、人々の息遣いに自ずと吸い込まれてゆく。著者と同じ空間に第三者としているような気分になる本はよくあるが、この本はちょっと違う気がする。 はい

          違うけれど、違うから愛おしい ―『グアテマラの弟』―