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「受け入れていること」の証明

日本にいて外国籍 "のように見える" 方に対して英語で話しかけること。
それは思いやりのひとつの形だと思う。一方で、疎外感を与えてしまう可能性もあるようだ。

スウェーデンに来てからというもの、英語で話しかけられることはほぼない。必ずと言っていいほど、第一声はスウェーデン語だ。
途中までなんとか聞き取ってスウェーデン語で返し、「分からないぞ…」という表情をすると英語に切り替えてくれることがほとんど。私は、見た目は明らかにアジア人なわけだが関係ない。この国の公用語はスウェーデン語なのだ。

スウェーデン語で話しかけられるということ。
はじめは正直なところ戸惑った。「いや、どう見ても私アジア人でしょ、スウェーデン語喋れなさそうでしょ?」くらいに思っていた。
でも、違うのかもしれないと思うようになったきっかけがある。
日本語を流暢に話せるスウェーデン人の方が、日本に行くといつも英語で話しかけられることにショックを受けるという話を打ち明けてくれたのだ。
話しかけられる時は基本英語で、どことなく「よその人としてお迎えされる」感じがするらしい。そしてキャッチの人も自分には話しかけてこないし、ティッシュ配りの人も自分には配ろうとしてこない、そのことに深く傷つくそうだ。
自分は日本文化を深く学んだ上で日本に馴染んでいるつもりだが、見た目が「外国人」だからというだけでシャッターを下ろされる、そんな感じがするのだという。
なんなら日本人以上に日本語を学び、話すことができるのに、見た目だけで「日本語を扱えないだろう人」として認識される。そこには、自分では絶対に壊せない透明の壁がある。
蚊帳の外、そんな感覚に近いのかもしれない。

相手が誰であろうと、どんな見た目であろうと、まず公用語で話しかけること。それは「あなたもこのコミュニティに生きるひとり」であると認めていることの証明なのかもしれない。そう考えると、ここに来て半年くらいの私のような人間に対してもスウェーデン語で話しかけてくれることを嬉しく思うのだった。

「ウシェクタ…(日本語で「すみません/あのー)」

とか細い声で話しかけてきた、サッカーボールでひとり遊んでいた少年。
どうやら鼻水が出てきたのでティッシュが欲しかったらしい。なんとか英語も交えて理解して、ティッシュをあげると恥ずかしそうに微笑む。
英語も話せるのにスウェーデン語で話しかけてくれたことが嬉しいよ、ありがとう。

ひとつ、新しい思いやりの形を知ったような気がする。
そしてまたひとつ、人に感謝できる視点が増えたことが嬉しい。


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